名家に代々伝えられた日本刀

紀州徳川家と太刀 豊後国行平

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江戸時代に徳川将軍家に次ぐ地位を誇っていた「徳川御三家」のひとつである「紀州徳川家」(きしゅうとくがわけ)。紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県と三重県南部)を治めた紀州徳川家の歴代藩主には、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)と第14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)がおり、徳川御三家で唯一将軍を輩出しました。 今回は、紀州徳川家に伝来したと言われる太刀「豊後国行平」(ぶんごのくにゆきひら)を鍛えた刀匠をご紹介すると共に、「紀州藩」(きしゅうはん:現在の和歌山市)を48年間統治した初代藩主や、将軍に昇りつめた吉宗など「名君」の人生を振り返っていきます。

将軍家と紀州徳川家の関係とは?

家康の寵愛を受けた紀州藩初代藩主・頼宣

徳川頼宣

徳川頼宣

紀州藩(正式名称:和歌山藩)の藩祖「頼宣」(よりのぶ)は、1602年(慶長7年)に「徳川家康」の10男として、京都の伏見城(ふしみじょう:現在の京都市伏見区)で誕生しました。

その後、すぐに兄の「信吉」(のぶよし:家康の5男)が病死したため、信吉の領地であった「水戸藩」(みとはん:現在の茨城県水戸市)20万石が頼宣に与えられたのです。

しかし、まだ2歳と幼かった頼宣は水戸へ足を踏み入れることはなく、家康が隠居していた「駿府城」(すんぷじょう:現在の静岡県静岡市)で育ちました。

頼宣の母は、「お万の方」(おまんのかた)の名で知られる「養珠院」(ようじゅいん)で、家康は晩年に生まれた男児の中でも、頼宣のことを最も可愛がっていたと言われています。そのため頼宣は、幼い頃から家康の影響を色濃く受け、学問に対する姿勢や、文武両道の精神を磨いていきました。

また、若くして茶の湯の造詣も深めていたため、茶人としても名高い武将である「細川忠興」(ほそかわただおき)や「真田信之」(さなだのぶゆき)、「伊達政宗」(だてまさむね)らと茶道を通じて交流を図り、偉大な諸先輩方から指南を仰いでいたのです。

父である家康の死後、1619年(元和5年)、頼宣は紀伊国和歌山に55万5,000石で転封し、18歳で紀州藩の藩主になりました。紀州は、もともと小豪族による武装勢力が多く、戦国時代に「豊臣秀吉」が「紀州征伐」を行なうまでは、統治に手を焼いていた地域だったのです。そのため、徳川宗家の子弟からなる親藩大名を置くことで、治世の乱れを起こさないようにしていたと考えられます。

和歌山城

和歌山城

頼宣は、入封の際に幕府から与えられた銀2,000貫で、「和歌山城」(わかやまじょう:現在の和歌山県和歌山市)の修築を行ないました。このとき、城郭内に造営された「西之丸庭園」(にしのまるていえん)は、別名「紅葉渓庭園」(もみじだにていえん)と呼ばれ、現在も秋の紅葉スポットとして、多くの人が訪れる場所となっています。きっと歴代藩主達も、この庭園で季節の移ろいを感じながら心を休めていたのかもしれません。

1641年(寛永18年)頼宣は、家臣の日常生活における秩序を保つために定めた「御家御条目」(おいえごじょうもく)を発布。家臣の統制を図ると共に、領民の道徳教育にも力を注いでいた頼宣は、儒学者である「李梅渓」(りばいけい)に「父母状」(ふぼじょう)を作成させ、領内に配布しました。父母状には、「親孝行」や「法の順守」といった教育指針が掲げられ、紀州藩のモットーとして代々受け継がれる思想となったのです。その後、48年間の治世を務めた頼宣は、1671年(寛文11年)、70歳でこの世を去っています。

こうして、「名君」として紀州藩を導いてきた頼宣ですが、実は「気性が激しい」といった、荒々しい一面も持っていました。すでに幼少期の頃からその片鱗を見せていたようで、気に入らないことがあると、側近を刀の鞘で叩くといった暴挙に出ていたそうです。

また、「大坂夏の陣」において先陣を切ることを希望したところ、14歳だった頼宣は却下されてしまいます。「まだお若いので、これからまた機会がありますよ」となだめられるも、頼宣は「14歳が2度あるのか!」と激昂しながら主張したのです。

このとき、父・家康は「今の一言が槍(手柄)である」と頼宣を称賛したのだとか。天下人となる家康の背中を見て育った頼宣は、さぞかし血気盛んな野心家だったと伝えられています。

紀州藩には将軍候補がもうひとりいた!?

1667年(寛文7年)、頼宣の長男「光貞」(みつさだ)が家督を継ぎ、紀州藩第2代藩主となりました。光貞は、頼宣が掲げた方針をもとに善政を尽くし、31年間紀州藩を護ったのです。

次いで、第3代藩主に就いた光貞の嫡男「綱教」(つなのり)は、1685年(貞享2年)に「犬将軍」で知られる徳川家第5代将軍「綱吉」(つなよし)の娘「鶴姫」(つるひめ)を正室に迎えます。すると、綱吉の長男「徳松」(とくまつ)が5歳という若さで亡くなってしまったため、次代将軍候補に娘婿である綱教の名が上がることとなったのです。

周囲に反対される中で、綱吉が綱教を後継者に指名したのには理由がありました。それは、綱吉が娘の鶴姫を「溺愛していた」から。鶴姫に対する愛情は盲目的と言えるほどで、なんと庶民へ「鶴」の字や紋の使用禁止を命じていたほど。娘を思う綱吉に応えるように、綱教は綱吉を屋敷に招き、将軍家との縁を深めていきました。

そんな中、悲運なことに鶴姫は27歳という若さで病死してしまいます。これには綱吉もひどく落ち込み、鶴姫の死によって綱教がつかみかけた将軍への道は絶たれることに。

さらに翌年の1705年(宝永2年)、綱教は鶴姫のあとを追うかのように41歳でこの世を去ります。2人の間に子はおらず、綱教は鶴姫のことを思い、側室を置いていませんでした。そのため、紀州藩の家督は綱教の弟である「頼職」(よりもと)へ渡ることとなったのです。

綱教が亡くなってすぐ、79歳の父・光貞もこの世を去ります。さらに不幸は続き、光貞の訃報を受けて急遽帰国した頼職も、疲労の末に26歳という若さで亡くなってしまうのです。この年、紀州徳川家は数ヵ月の間に2代目、3代目、4代目の藩主が逝去するという事態に見舞われました。

こうして紀州徳川家の未来は、綱教と頼職の弟である「吉宗」(よしむね)に託されることに。第5代藩主に就いた吉宗は、紀州徳川家に再び好運の風を吹かせることとなったのです。

紀州藩主から将軍へ!徳川家第8代将軍・吉宗

徳川吉宗

徳川吉宗

1684年(貞享元年)光貞の4男として生まれた吉宗は、1697年(元禄10年)に将軍・綱吉に初めて拝謁した際、越前国丹生郡(えちぜんのくににゅうぐん:現在の福井県丹生郡)3万石を賜り大名となります。紀州藩の支藩である「葛野藩」(かずらのはん:現在の丹生郡越前町)の藩主となった吉宗でしたが、兄達の度重なる不幸のため、22歳で紀州徳川家を継ぎ、紀州藩第5代藩主となったのです。

吉宗が家督を継いだ頃の紀州藩は、深刻な財政難に陥っていました。祖父で藩祖の頼宣が浪人(主君を失った武士など)を多く召し抱えていた頃から、すでに紀州藩の財政状況は傾きはじめ、3代目の兄・頼教と鶴姫の婚礼費用を藩で全額負担したことで、さらに状況は悪化。加えて、父と兄達の葬儀費用や、藩内の災害による復旧費が発生し、紀州藩の財政は火の車となっていたのです。

財政再建に向けて動き出した吉宗は、自ら進んで「質素倹約」を徹底し、藩政改革を行ないます。それに伴い、紀州藩が初代から努めてきた「風紀の廓清」(ふうきのかくせい:風紀の面において、それまでの悪い物をすっかり取り除くこと)や「孝行の奨励」にも尽力し、和歌山城の表門である大手門前に訴訟箱を設置して、藩政に対する領民の意見も募りました。

紀州藩を興隆へ導き、名君として慕われるようになった吉宗に、ある好機が舞い込みます。1716年(享保元年)、江戸幕府第7代将軍「家継」(いえつぐ)が8歳という幼さで病死すると、徳川宗家の血が途絶え、後継者問題が浮上しました。

当初は、徳川御三家筆頭の「尾張徳川家」から「継友」(つぐとも)が有力候補として上げられましたが、家継の生母である「月光院」(げっこういん)が吉宗を後継者に推薦したことで、幕府内で後継者騒動は過熱することに。その結果、大奥や幕臣達の信頼を得ていた吉宗が将軍の座を勝ち取り、紀州藩から初の将軍が誕生したのです。

目安箱

目安箱

吉宗は、従兄である「宗直」(むねなお)に紀州徳川家の家督を譲り、紀州藩を存続させました。そして、江戸幕府第8代将軍となった吉宗は、紀州藩で行なった藩政改革の経験を活かし、江戸幕府の財政再建に着手していきます。

将軍となってからも1日2食、一汁三菜、木綿の着物を着用するなど、これまで通りの質素倹約を続行した吉宗。紀州藩主時代に行なった訴訟箱をもとに「目安箱」(めやすばこ)を設置し、民衆の声を聞いて政策に活かしました。

こうして吉宗は、江戸幕府の財政再建にも貢献し、新田開発や殖産興業などの国家政策にも注力します。吉宗が行なった数々の政策は「享保の改革」と呼ばれ、「江戸の3大改革」として大きな功績を残すこととなったのです。

一方で、農民の年貢を増収する増税政策を布いたことで生活困窮者も増加し、農民一揆の頻発を招く事態に。庶民にも倹約を強要していたため、江戸では遊郭や芝居小屋なども禁じられていました。こういった吉宗の政策には、反発する声も多かったのです。

その後、およそ30年間将軍職を務めた吉宗は、長男の「家重」(いえしげ)を後継者に任命し、大御所として家重を支えながら1751年(寛延4年)、68歳で逝去しました。

紀州徳川家伝来・太刀 豊後国行平

さて、歴代藩主に倹約家が多かった紀州藩ですが、藩政時代の紀州徳川家には名刀「豊後国行平」が伝来したと言われています。豊後国行平は、鎌倉時代初期に豊後国(現在の大分県の大部分)で活躍した、「豊後刀の始祖」として名高い刀匠で、現在13振が国指定品となっています。

行平は、愛刀家で知られる「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)の「御番鍛冶」(ごばんかじ)を務めていたことでも有名です。この御番鍛冶は、上皇が「水無瀬離宮」(みなせりきゅう)に造設した鍛冶場に、全国から名工を集結させて月ごとに交代制で日本刀を鍛えさせていた制度。行平は、各月2人が担当する「二十四人御番鍛冶」の4月を担当していたと言われています。

太刀 無銘 豊後国行平

太刀 無銘 豊後国行平

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
鎌倉時代 初期 重要刀剣 紀州徳川家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

本太刀の刀身は、先幅に比べて元幅が広く踏張り(ふんばり)があり、細身の小鋒/小切先(こきっさき)で、平安から鎌倉時代初期に見られる優雅な物。木の年輪のような板目肌(いためはだ)に、ところどころ丸い杢目(もくめ)が交じった鍛えで、地沸(じにえ)が多く、鍛え肌に沿って地景(ちけい)が細かに入ったねっとりとした肌合い。刃文は直刃(すぐは)に小乱れで、小沸が付き金筋・砂流しがかかり、地鉄(じかね)との境界である匂口(においぐち)がうるんでいます。

これらの特徴は、行平の師である英彦山(ひこさん:福岡県と大分県にまたがる霊山)の僧「定秀」(じょうしゅう)の作風で、2人の作品には多くの共通点が見られるのです。

また、注目すべき点は、行平が得意とする櫃内彫り(ひつないぼり)が施されている佩裏(はきうら)。剣に龍が巻き付いた「倶利伽羅」(くりから)の浮彫りは見事な出来で、こういった彫り物は行平の時代にはまだ珍しく、九州古典派鍛冶の中でも、類稀なる才能を持った刀工でした。

紀州徳川家と太刀 豊後国行平

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