徳川家を支えた武将

徳川義直

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「徳川御三家」筆頭の親藩である「尾張藩」(おわりはん:現在の愛知県)初代藩主を務めたのが、「徳川義直」(とくがわよしなお)です。「徳川家康」の九男である徳川義直は、「尾張徳川家」の家祖として、尾張藩の地盤固めに尽力しました。名古屋のシンボルである「名古屋城」(愛知県名古屋市中区)も、徳川義直が尾張藩主として名古屋入りする際に、徳川家康の指示で新たに築かれた城です。名古屋という新たな拠点で、尾張徳川家を担っていった徳川義直とは一体どのような人物だったのでしょうか。学問と剣術を好み、文武両道な人生を歩みながら、徳川家康の子として誇り高く生きた徳川義直の人生を見ていきましょう。

徳川義直の誕生

お亀の方

お亀の方

「徳川義直」(とくがわよしなお)は、「徳川家康」の側室「お亀の方」のちの「相応院」(そうおういん)の子として、父である徳川家康が関ヶ原の戦いで天下統一を果たした1600年(慶長5年)に誕生。

幼名は「千々世丸」(ちぢよまる)のちに「五郎太丸」と名付けられ、天下人となってからの徳川家康のもとに生まれた初めての子となります。

徳川家康が統治していた甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)は、一時、豊臣氏勢力の領土となっており、1594年(文禄3年)からは「浅井長政」(あざいながまさ)が治めていました。1603年(慶長8年)に徳川家康による天下統一で再領(さいりょう:再び統治する領土になること。)となり、甲斐国府中(かいのくにふちゅう:現在の山梨県甲府市)240,000石が徳川義直に与えられることに。

しかし当時、まだ2歳と幼かった徳川義直は甲斐国には移らず、父・徳川家康と生母・お亀の方と「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)に留まり、父母のもとで育てられました。

尾張藩初代藩主へ

名古屋城

名古屋城

1606年(慶長11年)に元服(げんぷく:成人を示す儀式)した徳川義直は、翌年の1607年(慶長12年)に兄「松平忠吉」(まつだいらただよし)の逝去に伴い、「尾張国清州」(おわりのくにきよす:現在の愛知県清須市)に移封して「清州藩」470,000石の藩主となります。

この当時、清州は尾張の中央に位置する要所でしたが、土地が狭く水害に遭いやすいという問題を抱えていました。

そこで、父・徳川家康は、「熱田神宮」(愛知県名古屋市熱田区)近くの名古屋を、尾張の新たな拠点とすることを命じます。こうして、天下普請(てんかぶしん:江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事)として新たな本拠地である「名古屋城」が築かれたのです。

この間、徳川義直は駿府を離れることはなく、領国経営は家老の「平岩親吉」(ひらいわちかよし)を中心に行われました。徳川義直は、1614年(慶長19年)に大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年、1615年(慶長20年)の大阪夏の陣では天王寺・岡山の戦いに参戦。そして、1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなったあと、徳川義直は初めて尾張へ入国しました。

こうして徳川義直は、619,500石の尾張藩初代藩主、そして「尾張徳川家」の家祖としての人生を歩み始めたのです。

徳川義直の藩政

徳川義直

徳川義直

尾張藩主として名古屋入りした徳川義直は、農業用水の整備や新田開発に注力して、尾張における米の収穫量増加に努めました。

また、城下町整備や税制改革にも積極的に取り組み、尾張藩の基礎を築き上げていったのです。

学問を好んでいた徳川義直は、文教政策にも取り組んでいます。領内で儒教を推奨し、近世儒学の祖と称された儒者「藤原惺窩」(ふじわらせいか)の「門弟四天王」(林羅山[はやしらざん]、那波活所[なばかっしょ]、松永尺五[まつながしゃくご]、堀杏庵[ほりきょうあん])のひとりに数えられる堀杏庵を招いて、城内に「孔子」(こうし)を祀る「孔子廟」(こうしびょう)を建立。

また、城内に現在の図書館の走りと言われている文庫を創設しました。この文庫は、のちに「蓬左文庫」(ほうさぶんこ)と呼ばれるようになり、現在も名古屋市東区の「徳川園」で、尾張徳川家の旧蔵書などを所蔵する公開文庫として運営が続けられているのです。

さらに徳川義直は、神道について記した「神祇寳典」(じんぎほうてん:神祇宝典とも表記される)、歴史書の「類聚日本紀」(るいじゅにほんぎ)、教育論を記した「初学文宗」(しょがくぶんそう)など、生涯で多くの著書を発表しています。

そして、1650年(慶安3年)に徳川義直は江戸藩邸で死去。徳川義直は亡くなる直前まで著作に励んでいたと言われています。

徳川家康の精神を受け継いだ徳川義直の人物像

学者肌の印象が強い徳川義直ですが、実は武芸に秀でていた人物でもあるのです。日本武術に関心を寄せ、京都の「蓮華王院[三十三間堂]」(京都市)で行われる「通し」(とおしや:弓術の一種で、堂射[どうしゃ]、差矢[さしや]、堂前[どうまえ]とも言われ、三十三間堂本堂西側の軒下で、南端から北端に向けて、およそ120mの距離を射通し、成功した矢数を競う)に藩士を参加させ、領内で軍学を推奨していました。また、徳川義直自身も剣豪「柳生利厳」(やぎゅうとしよし)から「新陰流」(しんかげりゅう)を学び、剣術槍術、長刀術の相伝を受けていたのです。

このように、徳川義直が文武両道の道を歩んだきっかけは、やはり、父・徳川家康の影響が大きいと言えます。晩年の徳川家康の子として生まれた徳川義直は、天下人として輝く父のもとで、幼少期から英才教育を受けて育ったのです。また、徳川家康が好んでいた鷹狩りにもよく出かけていたと言われています。

名古屋東照宮

名古屋東照宮

父・徳川家康を慕い尊敬していた徳川義直は、1619年(元和5年)、名古屋城三の丸に徳川家康を祀る東照宮を勧請(かんじょう:神仏を請じ高僧を迎え、分霊を他所に移し祭ること)し、「名古屋東照宮」(なごやとうしょうぐう:愛知県名古屋市中区)を創設。

当時建てられていた東照宮の中でも、極めて豪華な社殿だったことから、尾張徳川家の威光と徳川義直の父への思いが窺えます。

尾張徳川家の運命を左右した?徳川義直の思想

徳川義直は、文武に秀でた尾張藩の名君でしたが、最も特徴的な部分と言えるのが、徳川御三家当主でありながら熱心な「勤皇家」(そんのうか:天皇を敬う思想の持ち主)であったということです。

この思想は、徳川義直の子孫にも脈々と受け継がれ、尾張徳川家の家訓として幕末に至るまで継承されました。そのため尾張徳川家は、しばしば徳川宗家にも対抗する姿勢を見せていたのです。徳川義直のこの思想が、江戸時代を通して尾張徳川家から将軍が輩出されなかった理由のひとつとも言えるでしょう。

また、徳川義直は謹厳な性格であるがゆえに、尾張徳川家の誇りをかけて、自身の思想や主張を曲げなかったとも考えられます。徳川家康のもとで、幼少期から培った自尊心の高さは並大抵のものではなく、幕閣や将軍相手にも自身の意見を貫く信念を持っていた人物でした。

特に、徳川家康を崇拝する3代将軍「徳川家光」とは対立することが多く、幕府からの通達を度々拒否していたほど。堅物でプライドの高い徳川義直は、幕府にとっては目の上のたんこぶ的な存在だったと言えるでしょう。そして、この自尊心の高さも尾張徳川家の子孫に継承され、独自文化を築く尾張藩の藩政に活かされていったのです。

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