日本刀の変遷

蕨手刀の歴史と広がり
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蕨手刀の歴史と広がり 蕨手刀の歴史と広がり
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「蕨手刀」(わらびてとう)は、7世紀後半から9世紀前半まで東北地方で暮らした「蝦夷」(えみし)の人々が主に用いた刀剣です。蕨手刀は蝦夷の発祥とされていますが、古代史は謎の多い時代であり、そうと決めることはできません。「蕨手刀の歴史と広がり」では、蕨手刀の発祥、蝦夷がどのように使用していたか、蝦夷平定後の蕨手刀について解説しています。

蕨手刀の歴史

蝦夷発祥ではなかった蕨手刀

蕨

蕨手刀

蕨手刀

蕨手刀は、7世紀後半の古墳時代末期から9世紀前半の平安時代初期に東北地方や北海道を中心に使用された刀です。「刀身」(とうしん)は40cm程度の反りのある湾刀(わんとう)、あるいは反りのない「直刀」(ちょくとう)。そして「」(つか:手で握る部分)が刃と一体化した「共鉄造」(ともてつづくり/[共鉄柄:ともてつづか]とも)になっています。最大の特徴は、柄の終端が早蕨(さわらび)のように刃先に向かって丸く渦を巻いていること。「」(なかご:柄に収める部分)をそのまま柄としており、日本刀のように木製の柄を付けていません。蕨手は、見た目の印象から近代になって付けられた名称です。

蕨手刀の出土分布図

蕨手刀の出土分布図

そして、主に東北地方の「大和政権」(朝廷が成立する前の、有力豪族による共同支配体制)に従わない部族・蝦夷らが編み出して用いたとされてきた蕨手刀でしたが、近年こうした認識は変わりつつあります。

蕨手刀は東北地方の他に現在の茨城県や群馬県、長野県からも出土しており、こちらの方が早期に作成された蕨手刀だと考えられているからです。と言うのも7世紀から9世紀の本州は、大和政権の支配が及ぶ範囲と蝦夷との国境がはっきりしており、現在の岩手県より南が大和政権で、その北が蝦夷の支配地でした。そのため蕨手刀の発祥は蝦夷ではなく大和政権だとされています。それを示すのが、最も有名な蕨手刀とされる「正倉院」(しょうそういん)宝物の「黒作横刀」(くろづくりのたち)です。

黒作横刀の場合は、鋒/切先(きっさき)に近い部分のみ剣のように両刃になっている「切先両刃造」(きっさきもろはづくり)ですが、柄が蕨手となっています。少なくとも大和政権側も7世紀から9世紀の間に蕨手刀を所有していたのです。それがなぜ、発祥の地ではない蝦夷側で相当数の蕨手刀が出土したのか次の項で解説します。

蕨手刀 黒作横刀
蕨手刀 黒作横刀
時代
奈良時代
鑑定区分
御物
所蔵・伝来
正倉院

蝦夷が蕨手刀を用いた2つの理由

蕨手刀が東北地方を中心に用いられた理由は「刀剣の作刀技術」と「狩猟文化」が関係していると考えられているのです。この2つの理由について解説していきます。

刀剣の作刀技術

刀剣の作刀技術は、刀身だけではなく「」(こしらえ)などの刀装具を含めた技術を指します。現在の日本刀と呼ばれる刀剣は、刀工の作刀以外に、刀剣を研ぐ「研師」(とぎし)・「」(はばき)や「」(つば)を作る「金工師」(きんこうし)・「」(さや)を作る「鞘師」(さやし)など多くの職人が分業して制作に携わってきた技術の結晶です。

7世紀から9世紀の大和政権は、中国の隋や唐に「遣隋使」(けんずいし)や「遣唐使」(けんとうし)として使節を派遣して新たな技術や制度を取り入れていました。すでに刀剣類の生産体制を整え、「兵仗」(ひょうじょう:戦闘用の武器・武具)や「儀仗」(ぎじょう:儀礼用の武器・武具)の作り分けなども行われていたと考えられます。さらに中国の体制にならい、ある程度の刀剣規格も定められていました。大和政権が法による律令国家への道を歩んでいたことに反し、蝦夷は集落ごとの統治であり、まだ統一された国家と呼べる状態ではなかったのです。

それは蝦夷による刀剣の作刀技術にも影響していました。蕨手刀が共鉄造なのは、大和政権のような分業体制が整っていなかったことの表れです。また、大和政権の刀剣類が60cm前後と長くなっていくことに対し、蝦夷の蕨手刀が40cmほどしかない短寸のままだったのは金属加工の技術が未熟だったことが挙げられます。

狩猟文化

蝦夷は農業以外に、狩猟によって食料を調達していました。しかし東北地方の寒冷な風土は農耕に不向き。江戸時代頃から昭和時代初期頃まで、東北地方は「やませ」(東北地方・北海道に吹く冷たく湿った風)の影響で、繰り返し凶作になり飢饉に見舞われたことが記録に残ります。それだけに蝦夷にとって狩猟は生活する上で欠かすことのできない技術でした。そのお陰とも言うべきか、蝦夷は大和政権の武人らの弓術を凌駕していたと言います。

7代「斉明天皇」(さいめいてんのう)の時代、遣唐使は男女2名の蝦夷を連れて行き、唐の第3皇帝「高宗」(こうそう)に謁見しました。蝦夷を伴った理由は「我が国[大和政権]にも、貢ぎ物をする異民族がいる」ということを唐に示すためだったと考えられています。同行した蝦夷は、人の頭に載せた瓢箪を約40歩分離れた位置から見事射抜いて高宗を驚かせました。このことは日本の歴史書「日本書紀」(にほんしょき)と、中国の歴史書「通典」(つうてん)にも記されているできごとです。

蕨手刀は弓術の高かった蝦夷が、狩猟に出る際の補助として使用していました。その他、戦いになった場合、蕨手刀は戦闘に用いられるなど複合的に活用。この時点で蕨手刀が爆発的に増加することはありませんでしたが、蕨手刀は蝦夷と付かず離れずの距離で7世紀から9世紀にかけて、少しずつ東北地方に普及していきます。

なお、遣唐使が伴ったのは大和朝廷に従う蝦夷で毎年、朝貢(ちょうこう:朝廷に貢ぎ物をすること)をした「熟蝦夷」(にきえみし:おとなしい蝦夷)です。大和朝廷に降伏した蝦夷は「俘囚」(ふしゅう)と呼ばれ、関東への移住や、畿内で兵役を勤めるなどしました。

騎乗戦闘で変化する蕨手刀

馬上使用に向かなかった蕨手刀

蝦夷は馬を操る騎馬民族とされています。蝦夷が馬を入手したのは7世紀から8世紀初頭と年代に開きがありますが、中国、朝鮮半島を経由して大和朝廷へ、そこから交易などで蝦夷に渡りました。当初、蝦夷は馬を軍馬として使用する意識はなかったとされ、重要な食料調達である狩猟も、騎馬ではなく徒歩によるものだったと言います。

それが東北の気候や風土が合ったのか、馬の飼育に成功し良馬を産出するようになりました。次第に狩猟で馬が使用される機会も増え、戦闘などにも導入。蕨手刀ももちろん使用されますが、矢を打ち尽くしたあと組み合っての格闘戦に使われるなど、主要武器ではなく最後の手段として使われていたと推測されます。というのも短寸の蕨手刀では長さが足りず、馬上から斬り込むのが物理的に難しく、馬から下りた場合に突く・刺すのが効果的でした。蕨手刀が斬撃ではなく刺撃用として用いられた点については、考古学研究者「津野仁」(つのじん)氏が論文にて語っています。

蝦夷と大和朝廷の「三十八年戦争」

大和朝廷による弾圧に抵抗を続けていた蝦夷でしたが、大和朝廷の方は防衛拠点の最北端として724年(神亀元年)に「多賀城」(現在の宮城県多賀城市)を設置。大和朝廷は蝦夷に次々と征討軍を送り込んでいました。しかし、力による弾圧に反発はつきもので、大和朝廷の武力制圧は蝦夷の結束力を高める結果となり、戦いは過激化していきます。大規模な戦につながったのは49代「光仁天皇」(こうにんてんのう)が、774年(宝亀5年)に「大伴駿河麻呂」(おおとものするがまろ)に蝦夷征討を命じたのがきっかけ。以降、蝦夷が平定される811年(弘仁2年)までの38年に及ぶ戦いを「三十八年戦争」と称します。

蝦夷の騎乗での戦いは増加し、騎乗の状態で刀剣を扱うため蕨手刀も長寸化。ただ、共鉄造の蕨手刀は柄部分が重くなり、斬撃するにはバランスが悪く扱いが困難でした。その対策として柄部分に透かしを入れて軽量化した「毛抜形蕨手刀」(けぬきがたわらびてとう)が作られるようになります。軽量化に成功した蕨手刀でしたが、さらなる長寸化には向かず三十八年戦争が終息し、蝦夷の終焉と共に姿を消していくこととなりました。なお「毛抜形」とは、柄の部分が毛抜に似ていることから付けられた名称です。

毛抜形蕨手刀

毛抜形蕨手刀

東北地方で活動した刀工集団

反りを持つ湾刀である蕨手刀は、時代と共に長寸化し毛抜形蕨手刀へと変化していきます。かつては、この毛抜形蕨手刀が「毛抜形刀」(けぬきがたとう)となり、さらに「毛抜形太刀」(けぬきがたたち)へ推移して、現在の日本刀「太刀」(たち)が誕生したというのが通説でした。しかし現在、日本刀の前身とされているのは「方頭大刀」(ほうとうたち)と言われる、「柄頭」(つかがしら:柄の先端、及びその部分を覆う金具)が分銅形(ぶんどうがた)や鋲頭形(びょうとうがた)、方形の大刀です。

方頭大刀

方頭大刀

一方の蕨手刀は蝦夷の終焉と共にその技術と系譜は失われてしまいましたが、東北地方には平安時代中頃から一関(現在の岩手県一関市)で活動していた「舞草派」(もくさは)と呼ばれる鍛冶集団がいました。当時の遺作はなく、活動開始の時期も曖昧な部分が多いのですが、「たたら製鉄」の跡地が「儛草神社」(もくさじんじゃ/まいくさじんじゃ:岩手県一関市)にあり、そこから鉄滓(てつくず)や鉄片が発見されています。また舞草派は蝦夷の血を引くとも伝わる奥州藤原氏の庇護を受けていましたが、奥州藤原氏の滅亡後は全国へ散り散りとなりました。

平安時代の作例はないものの鎌倉時代に作られた「太刀 銘 舞草」(たち めい もくさ)があります。「身幅」(みはば)の広い刀身に、長さの詰まった「猪首切先」(いくびきっさき)は、武士の時代にふさわしい堂々とした姿をしていると言えるでしょう。

太刀 銘 舞草
太刀 銘 舞草
舞草
時代
鎌倉時代末期
鑑定区分
所蔵・伝来
一関市博物館

その他、東北地方には平泉(現在の岩手県平泉市)を本拠としていた刀工集団「宝寿派」(ほうじゅは)があり、この一派の祖「文寿」(もんじゅ)は舞草派の流れを汲む刀工だと伝えられているのです。宝寿は文寿の子と伝わり、宝寿派当主は代々この名前を継いでいきます。宝寿派が得意とした地鉄(じがね)が、木目が波打つような「綾杉肌」(あやすぎはだ)です。

綾杉肌

綾杉肌

また舞草派の刀工「鬼王丸」(おにおうまる)が出羽国(現在の山形県・秋田県)月山に移住して開いた刀工集団「月山派」(がっさんは)があります。月山派は、宝寿派と同様に地鉄に綾杉肌が見られることから、両者には交流があったと考えられているのです。

宝寿派の方はいつしか歴史の波に埋もれてしまいますが、月山派の方は1,000年以上、その名前を引き継いでいます。特に明治時代に選出された初代「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)のひとり「月山貞一」(がっさんさだかず)は、誰もが知る刀工です。

蝦夷が用いた蕨手刀そのものが引き継がれることはありませんでした。しかし、蕨手刀は東北地方を代表する刀剣として多くの刀工達に影響を与えていたのです。

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