石田三成と言えば、徳川家康と戦った「関ヶ原の戦い」を思い出す人も多いと思いますが、軍事と言うよりは、豊臣秀吉の政務担当として、政治や経済面で優れた能力を発揮しました。石田三成が15歳だった頃、偶然その寺に立ち寄った豊臣秀吉に見いだされ仕えることになったのが、戦国武将・石田三成の始まりと言えます。石田三成は、27歳で「九州征伐」、32歳で「小田原攻め」に従軍するなど、参謀として数々の戦に参戦しました。しかし、石田三成は戦場で目立った武勲を挙げていませんが、豊臣秀吉は政務や経済面での才能を高く評価し、側近として寵遇しました。石田三成の生涯と石田三成が常に腰にしていた愛刀についてご紹介します。
石田三成
石田三成は、1560年(永禄3年)に近江国坂田郡の土豪、石田正継の次男として生まれました。
幼名は佐吉と言い、幼い頃は寺に預けられていました。
これは貧しかったからという理由ではなく、この頃に生まれた武家の次男や三男は、学問修行として寺入りすることもめずらしいことではありませんでした。
その後、偶然その寺に立ち寄った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に見いだされ、小姓(身分の高い者に仕える者)として、豊臣秀吉に仕えることになりました。
石田三成が15歳だった頃、長浜城主であった豊臣秀吉が領内で鷹狩をしていた帰り道、喉が渇いたため寺に立ち寄って、寺の小姓(石田三成)に茶を所望したところ、小姓(石田三成)が大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて差出し、飲み干した豊臣秀吉が2杯目を所望すると、小姓(石田三成)は1杯目よりも少し熱いお茶を茶碗に半分だけ入れて差し出しました。さらに豊臣秀吉が3杯目を求めると、今度は熱いお茶を小さな茶碗で差し出しました。
豊臣秀吉は、まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、のちの熱い茶を充分味あわせようとする細かい気配りに感動し、そのまま小姓(石田三成)を長浜城に連れて帰り、家臣にしたと伝えられています。
この「三献茶」のエピソードは、現在もその真偽について議論されていますが、石田三成が豊臣政権で五奉行まで昇りつめたことを考えれば、子供の頃から相手が欲している物を瞬時に察する能力に長けていた子供であったということがうかがい知れます。
この豊臣秀吉との出会いが、戦国武将石田三成の始まりとなりました。
現代で言う官僚のような立場だった石田三成も、豊臣秀吉対柴田勝家の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)に参陣して「一番槍」(槍を用いて交戦の口火を切る軍団)を務めた他、27歳で「九州征伐」、32歳で「小田原攻め」に従軍するなど、参謀として数々の戦に参戦しました。
その戦いの傍らにあったのが、鎌倉時代末から南北朝時代に、相模国鎌倉で活躍した刀工「正宗」の日本刀であったと伝えられています。
この正宗の刀は、無銘であるものの、沸(にえ)の美しさを表現した「相州伝」(そうしゅうでん)の作風で、「石田正宗」(いしだまさむね)と言われています。また、刀身の棟に2ヵ所、茎の棟に1ヵ所の切込み(受け傷)があることから、別名「石田切込正宗」(いしだきりこみまさむね)とも呼ばれています。
正宗の作品の中では静かで安らかな作風で、豊臣政権の政務担当として「泰平の世」を目指していた石田三成と通ずる物を感じさせる刀です。
石田正宗は、関白豊臣秀次に仕えた毛利若狭守が所持していましたが、主君を失い流浪の身になったため、岡山城主であった宇喜多秀家(うきたひでいえ)が400貫で買い取り、秀家から石田三成へと贈られたと伝えられています。(享保名物帳より)
その後、朝鮮出陣時の武勲を石田三成が握りつぶしたとして、以前から対立していた加藤清正(かとうきよまさ)・福島正則(ふくしままさのり)らに石田三成が襲撃され、その際、擁護した徳川家康が石田三成を佐和山城(石田三成の居城)へ帰らせる途中、再び襲われることを心配して、徳川家康の次男結城秀康に護衛を命じました。石田三成は、命を賭けて護送してくれた御礼として、自身の日本刀である「無銘正宗」を秀康に贈り、秀康はこれに敬意を表し、石田正宗と名付けて終生大切にしたと言われています。
秀康の死後は、子孫の津山藩主の松平家に伝来し、近年になって愛刀家であった渡邊三郎氏が所持していましたが、子息の渡邊誠一郎氏より「東京国立博物館」へ寄贈され、現在も同博物館に所蔵されています。
石田三成は、石田正宗の他に、相州伝の代表的刀匠「貞宗」の脇差も所持していました。江戸時代の脇差とは異なる平造の「寸延短刀」(刀身の長さが一尺を超えるが短刀の様式を持つ物)で、「腰刀」(こしがたな)とも呼ばれていました。
この脇差は豊臣秀吉から拝領した物で、石田三成が家宝として命の次に大切にしていたと言われています。
その後、石田三成は関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、徳川家康の命で石田三成を探していた田中吉政に捕えられますが、その際、腹痛で病んでいた石田三成に対し、ニラ粥を勧めるなど手厚くもてなしてくれた田中吉政に、豊臣秀吉から給わった脇差を授けたと伝えられています。
石田貞宗
銘 | ランク | 刃長 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 重要文化財 | 約31.2cm | 東京国立博物館 |
石田三成は戦場で目立った武勲を挙げていませんが、それでも豊臣秀吉が側近として寵遇したのは、戦場の後方支援として補給・輸送に腕を振るい、「太閤検地」(田畑の測量とその収穫量の調査)でも大きな成果を挙げるなど、政務や経済面での才能を高く評価していたからと考えられます。豊臣秀吉は、「有能な実務者は豪胆な武将以上に得難い」として、石田三成を「五奉行」のひとりに抜擢しており、人一倍真面目で忠誠心が強かった石田三成も、また豊臣秀吉の「天下統一」と「泰平の世」を築くために終生を尽くしました。
「刀は武将の魂」とよく言われますが、石田三成が最後に捕らえられた際、豊臣秀吉から拝領した脇差を敵方の田中吉政へ渡したのも、自分は朽ちても、豊臣秀吉や自分の魂を「日本刀で後世へ繋ぎたい」という気持ちがあったのかもしれません。