「東京国立博物館」が設立されたのは1872年(明治5年)。「文部省博物館」として発足しました。その後、1882年(明治15年)現在地の上野「寛永寺跡」に移転し、1889年(明治22年)に「帝国博物館」に改称。そして1909年(明治42年)には、大正天皇の御成婚を記念して建てられた「表慶館」が開館。1923年(大正12年)の「関東大震災」で旧本館が損壊したことを受け、1938年(昭和13年)に現在の本館が開館したのです。
戦後の1947年(昭和22年)に、管轄を文部省に移管した際に「国立博物館」と改称し、1952年(昭和27年)に現在の「東京国立博物館」となりました。その後、最初の東京五輪が行なわれた1964年(昭和39年)には「法隆寺宝物館」(旧館)が開館し、文化庁に移管した1968年(昭和43年)には「東洋館」が開館。1984年(昭和59年)には「資料館」が、1999年(平成11年)には「法隆寺宝物館」や「平成館」が開館し、現在に至っています。
「東京国立博物館」には、「天下五剣」のうち、2振りの日本刀が収蔵されています。ひとつは、「源頼光」が「酒呑童子」(しゅてんどうじ)を切った日本刀とされる太刀「童子切」(どうじぎり)。もうひとつが日本刀の中で最も古い物のひとつと言われている国宝「三日月宗近」(みかづきみねちか)です。
平安時代の刀工「三条宗近」の作であるこの刀は、刃長二尺六寸四分(約80.0cm)、反り九分(約2.7cm)。細身で反りが大きく、刀身の鍔元(つばもと:つばと刀が接するところ)の幅と鋒/切先(きっさき:刀身の最先端)の幅の差が大きい優美な太刀です。「三日月」と言う名前の由来は、刀身に三日月形の打除け(うちのけ:刃文の一種)が数多く見られることによるものと言われています。
国宝に指定されている物だけでも19振りを所蔵するなど、質量ともに日本屈指のコレクションを誇る「東京国立博物館」ですが、「日本刀文化」の存続に、大切な役割を果たしました。それが終戦直後にGHQ主導で行なわれた「昭和の刀狩り」によって発生した「赤羽刀」の保管庫としての役割。当時、米陸軍第8兵器補給廠に集められていた刀剣類は、雨ざらしにされるなど、決して保管状態は良いとは言えませんでした。
赤羽刀のうち、「刀剣審査員」によって美術品としての価値が高いと判定された5,500振余りについては、旧所有者に返還するまでの間、東京国立博物館(当時は国立博物館)で保管されることに。それを主導したのが当時、国立博物館の職員だった本間順治氏、佐藤貫一氏の2人だったのです。