「岡山城」が完成したのは、1597年(慶長2年)。築城者は「宇喜多秀家」です。宇喜多秀家の父「宇喜多直家」(なおいえ)は、戦国乱世の「備前国」(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)を統一した戦国大名で、1573年(天正元年)、岡山平野の中ほどに居城のための石山の城を構えました。
しかし、1581年(天正9年)に病死。当時、宇喜多秀家は8歳と幼少でしたが「織田信長」に所領を安堵され、織田信長の死後は「豊臣秀吉」に従って57万石の大大名へと成長し、父の石山の城を取り込んだ大規模な岡山城を新たに築いたのです。
岡山城天守閣は、黒漆塗りの瀟洒(しょうしゃ:すっきりとした)な外観で、別名が「烏城」(うじょう)。織田信長の安土城を模して造られた日本を代表する城郭建築で、天守閣が3層6階建になり、初層の平面が不等辺五角形の特異なたたずまいです。
まさに、宇喜多秀家が8年の歳月をかけて完成させた、こだわりの城。宇喜多秀家は、翌年「五大老」のひとりにも抜擢され、このまま順風満帆の人生を歩むかと思われましたが、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に加勢したため、敗軍の将となり、八丈島に流刑になってしまいました。
突然、城主を失った岡山城ですが、代わりに「小早川秀秋」が入城。しかし、約1年半後に急死します。その後、姫路藩(現在の兵庫県姫路市)初代藩主「池田輝政」(いけだてるまさ)の次男「池田忠継」(いけだただつぐ)が入城しましたが、またすぐに病死。
その後は、池田輝政の三男「池田忠雄」(いけだただかつ)と、その長男「池田光仲」(いけだみつなか)が城主となりましたが、1632年(寛永9年)に池田輝政の長男「池田利隆」(いけだとしたか)の長男で、鳥取藩主だった「池田光政」(いけだみつまさ)が国替えとなり、以後この家系が続きました。
池田家は、のちに「日本三名園」と称される広大な庭園「後楽園」を築庭。1869年(明治2年)に版籍奉還で、12代藩主「池田章政」(あきまさ)が岡山藩知事に任命されるまで、岡山藩は雄藩として存続しました。
しかし、明治維新後の1873年(明治6年)の「廃城令」により、天守閣・月見櫓・石山門・西之丸西手櫓以外は取り壊されることに。さらに、1945年(昭和20年)の太平洋戦争による空襲で、天守閣・石山門が焼失してしまいます。
無事だった月見櫓・西之丸西手櫓は、重要文化財、本丸跡は史跡になっています。現在の天守閣は、1966年(昭和41年)に再建された物です。
-
織田信長と刀
織田信長のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。
-
織田信長
歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!
-
豊臣秀吉と刀
豊臣秀吉のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。
-
豊臣秀吉
歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!
-
小早川秀秋と刀
小早川秀秋のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。
-
小早川秀秋
歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!
-
鳥取藩
江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。
-
岡山藩
江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。
岡山城由縁の日本刀として有名なのは、何と言っても、国宝の太刀「大包平」(おおかねひら)。平安時代に、備前伝の古備前派「包平」(かねひら)が作刀した太刀で、大原安綱作の太刀「童子切安綱」と肩を並べる「日本刀最高傑作」と呼ばれています。「大包平」は、代々池田家に伝来しましたが、現在は「東京国立博物館」に所蔵。
岡山城では、同じく備前伝の鵜飼派「雲類」の祖である「雲生」(うんしょう)が作刀した太刀を観賞することができます。それは、岡山県指定有形文化財の「太刀 銘 雲生」。
雲生は、鎌倉時代から南北朝時代頃に、宇甘庄(うかんしょう:現在の岡山市北区)で活躍し、「後醍醐天皇」の勅命により作刀したと言われる人物です。他の備前物とは異なり、京風で洗練されているところが特徴。旧国宝や重要文化財にも数多くの作品が指定されており、美しい太刀姿、詰んだ地鉄(じがね)は必見です。
天守閣の2~5階は展示室になっており、初代城主宇喜多秀家の家老「花房正成」所用の甲冑「錆地塗弦走付紺糸縅二枚銅具足」も見ることができます。
花房正成は、1582年(天正10年)の「備中高松城の戦い」で水攻めを考案、豊臣秀吉による「朝鮮出兵」でも武功を挙げた名将です。宇喜多秀家が流刑となったあとも、徳川家の旗本となった花房家が旧主君の支援をするようにした忠臣。
天守閣では、他にも関ヶ原の戦いでの宇喜多秀家や他の武将の想定模造甲冑が陳列され、殿様・姫様着付けや備前焼の土ひねり体験などもでき、楽しめます。