「東郷平八郎」と言えば、日露戦争の日本海海戦で大勝し、日本の勝利を確実なものにした人物として世界的に有名です。
東郷平八郎は、日清戦争後に佐世保鎮守府司令長官、舞鶴鎮守府初代司令長官等を歴任。日露開戦前の緊迫期には、第一艦隊兼連合艦隊司令長官となった、自他共に認める「海戦のプロ」でした。
その東郷平八郎が日露戦争で佩用(はいよう:腰から下げること)した日本刀「吉房」は、嘉仁親王(のちの大正天皇)が下賜した物。そして、この「吉房」は時代を超えて「日本海」と縁がありました。
ここでは、日露戦争前の日本をめぐる状況と、東郷平八郎が日露戦争で身に付けていた刀をご紹介します。
日清戦争後、日本は朝鮮を保護国(属国)にしたいと考えていましたが、朝鮮はロシアの支配下へと近付いていきました。その後、「大韓帝国」(韓国)と国名を改め、次第に自立へと動き始め、日本とロシアの対立は本格化します。
このときロシアは満州を事実上占領しており、さらに南下しようとしていました。韓国をめぐる日本の立場は厳しいものになっていたのです。ロシアと組んで事態を解決するか、欧米諸国を代表するイギリスと組んでロシアと徹底的に対抗するか。時の内閣、桂太郎(かつらたろう)内閣は後者を選びます。1902年(明治35年)日英同盟を結び、ロシアをけん制する方法を採ったのです。
ロシアは、満州から兵を引き揚げる様子も見せず、日本国内では次第にロシアとの戦争を主張する声が高まります。そして、1904年(明治37年)2月、いよいよ日露戦争の開戦となりました。
1904年(明治37年)の開戦時、皇太子(のちの大正天皇)から海軍を指揮する東郷平八郎へ、1振の日本刀が下賜されます。「刀 額銘 吉房」(かたな がくめいよしふさ)、鎌倉時代中期の作品でした。
東郷平八郎は、70cm以上あった太刀を63cmに詰め、佩用して日露戦争に向かいます。
日露戦争の開始時、ロシアの戦力は圧倒的に日本を上回っていました。しかし、1905年(明治38年)5月27日、日本海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍のバルチック艦隊が日本海で戦闘、「丁字戦法」(ていじせんぽう)等を使った東郷平八郎の作戦もあり、「日本海海戦」は日本が勝利を収めます。
丁字戦法
当時の海軍軍艦は、工業の発達もあって近代的な蒸気エンジンを装備した船に始まり、5,000mの射程距離を誇る軍艦へと進化を遂げていました。
そして、火砲のある船の側面を前面にする、つまり軍艦を縦方向に並べる戦法が主流となっていました。そこで考え出されたのが、丁字戦法です。
敵の戦艦より速く前方に出て、敵軍の戦艦の進行をさえぎるように、味方の軍艦を縦に並べます。そして、敵軍の先頭の艦にむかって砲撃を集中する戦法です。
敵軍も自軍も走りながらこの形を作るのは簡単ではありません。敵軍が左右に曲がってしまえば、簡単に崩れてしまいます。そのため、機敏な対応と敵軍を上回る速度であることが欠かせません。
日本側の戦史では、日本海海戦時に「まず、すれ違うかのように装い、急に左折して敵の先頭を斜に圧迫する」、「その後、敵軍は右折することで併走になったが、連合艦隊が速度で勝ったため、前方に出て敵軍を圧迫した」、「敵軍も右折したが、最終的には完全に敵の前に出ることができた」と書かれており、最初の左折を「東郷ターン」と呼んだことが記されています。
ロシア国内の混乱もあり、日本は日本海海戦によって軍事上の勝利を手にしました。その後、アメリカの仲介で「ポーツマス条約」が結ばれます。
日露戦争勝利の決定打となった日本海海戦での東郷平八郎の指揮は、世界中の賞賛を浴びました。国内では「陸の大山、海の東郷」(陸軍の大山巌元帥陸軍大将)。海外では「アドミラル・トーゴー」(Admiral Togo:東郷提督の意味)、「東洋のネルソン」と呼ばれ、世界三代提督としてジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎の名があがりました。
さて、東郷平八郎が皇太子(のちの大正天皇)から下賜され、この海戦に佩用した吉房。まず、どのような日本刀であるのかをご紹介します。
刀 額銘 吉房
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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吉房 | 鎌倉時代 | 重要文化財 | 大正天皇→ 東郷平八郎→ 東郷神社 |
刃長は63.3cmで、反り1.5cm、鎬造(しのぎづくり)、細身で中鋒/中切先(ちゅうきっさき)は少し詰まっています。地鉄(じがね)は板目でやや肌立ち、刃文は丁子乱れ、中ほどは大房丁子乱れで華やかです。茎は大磨上げ、目釘穴1個、茎先に吉房と額銘で残されています。
現在は、東郷平八郎を祀った東郷神社に納められています。
元寇
吉房は、鎌倉時代中期、備前国(現在の岡山県長船町)の福岡一文字派を代表する名工達。3代に亘って吉房を名乗りました。
「鍛冶銘早見出」(かじめいはやみだし)には、「初代は番鍛冶をつとめ、2代目は宝治、3代目は弘安」と書かれています。「番鍛冶」とは天皇の鍛冶を務めることで、宝治、弘安は当時の元号です。1281年、弘安4年は2度目の元寇が起きた年にあたります。
1274年(文永11年)、1281年(弘安4年)に、フビライ=ハン率いる元が襲来しました。襲来の理由は、元は日本を服属させようとしましたが、執権「北条時宗」が取り合わなかったためです。この二度の戦いを元寇と言います。
元軍は、「てつはう」とよばれた火薬を利用した武器を活用し、それらを見たことがなかった日本軍を悩ませました。しかも、最初の襲来「文永の役」では3万人、二度目の襲来「弘安の役」では14万人もの大軍です。しかし、なんとか上陸を阻んでいる間に暴風雨や元国内での反乱があり、日本が侵略されることはありませんでした。
襲来地の博多港には防塁が作られ、現在でもその跡がのこっています。博多には「鎮西探題」(ちんぜいたんだい:鎌倉幕府が九州の統括、支配のためにおいた役所)が設置され、元軍が引き上げたあとも九州地方の「御家人」(ごけにん:将軍に仕える武士達)を集めて、引き続き警護にあたらせました。
その御家人達のために、たくさんの刀剣や甲冑(鎧兜)も生産されます。この吉房も、そうした元の侵攻から日本と日本海を守る刀の1振だったに違いありません。
おそらくは、元軍から日本を守るために作られた吉房は、700年ほどの時を超えて東郷平八郎に佩用され、日本海海戦を見守っていたことになります。どちらの戦いでも、大国を相手に勝つことができ、自国を守ることになりました。
「日本海で戦い、自国を守る」という不思議な縁が、吉房にはあったに違いありません。
刀 銘 備前国住長船十郎左衛門尉春光
銘 | 鑑定区分 | 刃長 | 所蔵・伝来 |
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表:備前国住長船 十郎左衛門尉 春光作 裏:天文十六年丁未八月吉日 |
重要刀剣 | 2尺2寸1分 (67.1cm) |
東郷平八郎→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
本刀は、海軍元帥・東郷平八郎遺愛の1振です。
本刀を作刀した春光(はるみつ)は、末備前の刀工のひとり。同銘を切る刀工が複数人存在しますが、最もよく知られているのが「十郎左衛門」です。
本刀は天文十六年紀の作であり、時代をよく示した打刀の造込みで先反りが付き、地は板目がよく練れて詰み、地沸微塵に厚く付きます。十郎左衛門尉春光の代表作であり、鍛えの良さが特筆される傑作で、末備前の特色ある作風です。