甲冑(鎧兜)と武将
関ヶ原の個性的な甲冑対決(西軍)
甲冑(鎧兜)と武将
関ヶ原の個性的な甲冑対決(西軍)

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全国の大名の運命を左右した「天下分け目」の合戦である「関ヶ原の戦い」。「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将とし、「石田三成」(いしだみつなり)を中心に結成された西軍は、軍全体の結束力不足や、幾人もの武将による裏切りなどが要因となり、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍に敗れる結果となりました。そんな中でも最後まで豊臣家に忠義を誓い、戦い抜いた武将達がいたのです。ここでは、その中の代表的な3人の武将の人となりを、彼らが愛用していた甲冑を通して見ていきます。

豊臣家の忠臣石田三成の甲冑

まるで鬼か夜叉か、振り乱す髪と長い角の兜

乱髪天衝脇立兜

乱髪天衝脇立兜

「万民がひとりのため、ひとりが万民のために尽くせば太平の世が訪れる」の意味を表す「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)の家紋を掲げ、関ヶ原の戦いに挑んだ石田三成

三成の兜として有名なのは、「乱髪天衝脇立兜」(らんぱつてんつきわきだてかぶと)です。天高く伸びる2本の脇立と、鬼か夜叉を連想させるような黒い乱れ髪が特徴で、ドラマなどで見られた方も多いのではないでしょうか。

額を守る鉢以外は、全体を髪で覆われているため、まるで地毛のようにも見えます。この髪は、「ヤク」と言うチベットに生息するウシ科の動物の毛を黒く染めた「黒熊」(こぐま)と呼ばれる物で、当時は高級品として扱われていました。

現在、関ヶ原町歴史民俗資料館に複製品が展示されていますが、本物は現存せず、関ヶ原の戦いで着用されたかどうかも明確には分かっていません。

真面目で実直、冷静に状況を読む文治派の武将

豊臣秀吉」(とよとみひでよし)政権を支えた石田三成。生まれは近江(おうみ:現在の滋賀県)の土豪の次男で、子供時代は貧しく、寺小姓(てらこしょう:住職のそばに仕えて、身のまわりの世話などの雑務を請け負った少年)をしていました。

三成と秀吉の出会いには、「三献の茶」(さんけんのちゃ/さんこんのちゃ)と言う有名な逸話があります。鷹狩を終えた秀吉が寺に立ち寄ったとき、当時15歳だった佐吉(=三成)少年が茶を出しました。それは、大きな茶碗にたっぷり入ったお茶。喉が渇いていた秀吉はすぐに飲み干し、おかわりを頼むと今度は先ほどより少し熱いお茶が出てきました。そして、さらにもう1杯を所望すると、小ぶりの茶碗に熱い茶が出てきたのです。秀吉は、この気遣いに感心し、三成を召し抱えるきっかけになったと言われています。

このエピソードは創作との説もありますが、三成が常に状況を読み、知恵を働かせる人物だったことが、よく伝わってきます。戦国の世において三成は、武勲を挙げる「武闘派」ではなく、政治的に優れた「文治派」でした。秀吉が全国統一の際に行なった太閤検地も、三成を中心に進められ、合戦においても武器や食糧補給をする後方支援で活躍したのです。

政策や経済に強い頭脳派の三成には、こんな名言もあります。「残すは盗なり。つかひ過して借銭するは愚人なり」。これは、「必要とする予算は、すべて使い切るべきだ。正しく使わず残せば私腹を肥やすことになり、それは盗みに等しい。しかし、使いすぎるのは愚かとしか言いようがない」という意味です。三成がいかに実直で、真面目に政治に取り組んでいたのかが、分かる言葉とも言えます。秀吉はそんな彼を信頼し、秀吉の勢力が拡大していくのに伴って、三成の活躍の場が広がっていきました。

秀吉への忠義と、最後まで諦めない志

徳川家康

徳川家康

豊臣政権には2つの派閥がありました。石田三成を中心とし、秀吉が考える中央集権国家を築くことを目標とした「集権派」と、「徳川家康」(とくがわいえやす)を軸とした地方分権を掲げる「分権派」の大名連合です。

しかし、このパワーバランスが秀吉の死によって崩れます。事務方として秀吉に評価され出世した三成を快く思わない、武闘派であり分権派でもあった「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)、「黒田長政」(くろだながまさ)らが三成襲撃事件を起こすのです。

運良く逃れた三成でしたが、奉行職を辞して「佐和山城」(さわやまじょう:現在の滋賀県彦根市)へ引退することになりました。この事件により徳川家康らの分権派が、より力を持つことになっていったのです。

そして、秀吉への忠誠を誓っていた三成は、「豊臣家を守る」の大義のもとに挙兵し、「毛利輝元」(もうりてるもと)・「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)らと組んで、関ヶ原の戦いに挑むことになります。この合戦は本来、三成を中心とした公儀(西軍)が、徳川家康率いる賊徒(東軍)を討伐する図式でしたが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)らの裏切りによって西軍は敗れ、その正当性すらも剥奪されることになりました。

他にもこんな逸話があります。関ヶ原の戦いのあとに逃走するも、結局捕縛された三成は、大阪や堺の町を引き回される辱めを受けました。その姿を見た「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が、「こんな生き恥を晒し、なぜ死ななかったのだ」と問うと、三成は、「生きていなければ再起はできぬ」と言ったのです。

また、処刑場へ向かっている際、喉の渇きを訴え、水を求める三成に対し、役人が柿を与えると、「柿は痰の毒だから食わない」と拒否をします。これから処刑されるのに身体のことを気にする三成を役人があざ笑うと、「人生を投げるのは志を失うことだ。私は生がある限り志は失わない」と答えたのです。

優れた知力と政治力で戦国の世を生き抜いた三成。処刑される寸前まで自分の信念を曲げず、諦めなかったその心のなかには、乱髪天衝脇立兜を思わせる、鬼神のような強い魂が宿っていたのかもしれません。

大坂の陣で一躍英雄になった真田信繁の甲冑

戦乱を越えて仙台に残る信繁の具足

真田の赤備え

真田の赤備え

真田幸村」(さなだゆきむら)の名で親しまれ、戦国武将の中でも人気の高い真田信繁(さなだのぶしげ)。信繁と言えば、真っ赤な兜に真田家の旗印である六文銭の前立(まえだて)、脇立には大きな鹿の角が伸び、胴から袖、籠手(こて)、草摺(くさずり)まで朱色に塗った「真田の赤備え」(さなだのあかぞなえ)の姿を思い浮かべます。

しかし、実際に信繁が用いたと伝えられる兜や甲冑は、黒色が主体となっていました。兜は雑賀鉢(さいかばち)形状で、金箔を施した小さな鹿の角の前立が付けられていますが、ゲームやアニメに出てくるほど大きな物ではありません。この兜は、父・昌幸(まさゆき)から譲り受けたと伝えられています。胴は南蛮胴ですが中央部は曲面に近い形です。

信繁は、「大坂夏の陣」で討ち死にする前、すでに死を覚悟していたのか、事前に自分の子供達を、敵方である伊達家の家臣「片倉重長」(かたくらしげなが)に預けます。重長は、敵方ながらも信繁が男気を感じた人物で、重長もその気持ちを汲んだのか、信繁の家族を受け入れました。そして信繁の死後には、甲冑も伊達家に送られたのです。

そのあと、信繁の次男は、「片倉守信」(かたくらもりのぶ)と名乗って伊達家に仕え、その子孫が真田姓を復活させました。現在は、仙台真田家が信繁の甲冑を所蔵しています。

わずかな期間に大きく輝いて戦国の英雄へ

大坂城

大坂城

真田信繁は、真田家当主・真田昌幸の次男として、1567年(永禄10年)に信濃国(しなののくに:現在の長野県)で生まれました。真田家は武田家の家臣でしたが、武田家が滅亡すると、武田領をめぐる戦乱の渦に巻き込まれます。信繁は、越後国の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)へ人質として送られ、そのあとは、大坂の羽柴秀吉のもとに移されました。

大坂では秀吉の世話役を務めますが、秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは石田三成側に付いたため、家康の命令で父・昌幸と共に、高野山山麓の九度山(くどやま)に蟄居(ちっきょ:武士に科された刑罰のひとつで、自宅などに閉じ込めて謹慎させること)します。

ここまで信繁は父の陰に隠れ、大きな功績も挙げていません。信繁が真田幸村と名乗り、歴史の表舞台に登場するのは、大坂冬の陣・夏の陣のことです。1604年(慶長9年)、徳川家と豊臣家の関係が悪化すると、信繁は豊臣家の防衛のために大坂城へ入城し、浪人達をまとめて徳川の軍勢を迎え撃ちます。これが「大坂冬の陣」です。

そのあと、豊臣家と徳川家の間で和議が成立しますが、翌年には再び対立して、大坂夏の陣に突入。この戦で、豊臣家は不利な状況に陥り、信繁は意を決して家康の本陣に突撃を開始。家康の目前で徳川の援軍に阻止され、大坂城近くで最期を遂げました。わずか半年の間に2度も繰り広げられた大坂の陣で、信繁は本来の知略と決断力を発揮。不利な形勢でも敵に向かう姿勢や出で立ちは、衝撃的なインパクトを残したのです。

家康を慌てさせた真田の赤備え

真田信繁は、大坂冬の陣で徳川勢を迎え撃つ際、自分の部隊に赤備えを身にまとうよう指示しました。部隊と言っても浪人達の集団だったため、連帯感を持たせて全員の士気を上げるために用いたと推察されます。

赤備えの甲冑は、もともと武田信玄の先発隊が使用したのが始まり。その先発隊が勇猛で強力な部隊だったために、赤備えは「強者達で組織された精鋭部隊」のイメージが付いていたのです。真田家は、信繁の祖父の代から武田家に仕えていたため、「武田の赤備え」の戦いぶりを信繁も知っていたと考えられます。

大坂冬の陣で、徳川家康は多くの武士を味方に付けて大坂城を包囲。豊臣側に付いた武将は少なく不利な状況でしたが、信繁はひるむことなく敵と対峙して家康を脅かしました。このとき信繁が参戦した目的は、勝敗やお金のためでなく豊臣家への恩義、そして家康に一泡吹かせて真田の名前を天下に知らしめることにあったとされます。赤備えは戦場で目立つ策のひとつでもあったかもしれません。

兜が知らせた信繁の死

真田信繁の死が判明したできごとについては、かつて信繁が武田家に仕えていた頃の同僚「原貞胤」(はらさだたね)がかかわっています。大坂冬の陣で貞胤は信繁の敵方でしたが、和議が結ばれると、2人は再会して旧交を温めました。しかし信繁は、和議は一時的なことで再び戦になると予想し、貞胤に「そのときは父から譲られたこの兜を被って、討ち死にするつもりだ」と語ったとされています。

そのあとに起きた大坂夏の陣では、豊臣側にとって有利に進んでいた戦の形勢が、途中で逆転し、秀吉の3男「豊臣秀頼」(とよとみひでより)と、秀吉の側室で秀頼の母であった「淀君」(よどぎみ:「淀殿」[よどどの]とも)は自害。大坂城は落城しました。

落城した大坂城に貞胤が入ると、同じ隊の「西尾宗次」(にしおむねつぐ:通称「仁左衛門」[にざえもん])が、主君「松平忠直」(まつだいらただなお)を探しているところに遭遇します。その手には、見覚えのある兜を被った首がありました。貞胤は同じく徳川勢だった信繁の叔父「真田信尹」(さなだのぶただ)を探して確認を取り、その首が信繁であると判明。仁左右衛門は、相手が誰か知らずに討ったと言われています。写真のなかったこの時代、兜がなければ貞胤の目に留まらず、信繁と分からなかったかもしれません。信繁の最期については十分に解明されていませんが、こうした逸話が語り継がれているのです。

民を愛した、直江兼続の甲冑

兜の前立、愛の文字の意味とは

金小札浅葱糸威二枚胴具足

金小札浅葱糸威二枚胴具足

「長高く、姿容美しく、言語晴朗なり」(たけたかく、しよううつくしく、げんごせいろうなり)と言われた「直江兼続」(なおえかねつぐ)。彼の甲冑は「金小札浅葱糸威二枚胴具足」(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく)です。

そして、「愛」の文字が前立に付いた「六十二間筋兜」(ろくじゅうにけんすじかぶと)は、変わり兜としても有名。兼続はどのような思いで、この愛の文字を掲げて戦場に赴いたのでしょうか。その理由には、3つの説があると考えられています。

ひとつ目は、「愛宕権現」(あたごごんげん)説です。愛宕権現とは、仏教の地蔵菩薩「勝軍地蔵」(しょうぐんじぞう)を本尊とし、当時は多くの武将から信仰されていた軍神。兼続に大きな影響を与えた「上杉謙信」(うえすぎけんしん)は、武神である「毘沙門天」(びしゃもんてん)を信仰しており、その「毘」の文字を軍旗に掲げていました。兼続もそれに倣い、愛の文字を兜に付けたと言われています。

2つ目は、「愛染明王」(あいぜんみょうおう)説です。愛染明王とは密教の神で、愛は「愛欲」を、「染」は「執着」を意味し、これらの煩悩が悟りに繋がることを示す明王です。愛染明王は、忿怒相(ふんぬそう:激しい怒りを表す仏画や仏像の表情)で武具を持つ姿であったことから、軍神ともされてきました。兼続は、明王の強さにあやかって、自身の兜に愛の文字をあしらったと考えられているのです。

そして、3つ目が「愛民」説です。兼続のゆかりの地である山形県米沢市(よねざわし)では、「民のために政治を行なう決意を、兜の前立に刻んだ」と古くから言い伝えられています。愛とは民を愛する「仁愛」。

また、兼続が敬愛する上杉謙信は、「義」を重んじる武将でした。儒教の教えである「五常の徳」(仁・義・礼・智・信)の義は「義理」のこと。私利私欲を捨て、義を大切にした謙信のもとには多くの人が集まり、兼続もそのひとりでした。そんな謙信の義の上の位である「仁」を付けるのは僭越とし、仁愛から愛の文字を兜に付けたという解釈もあります。

愛と義に生きる直江兼続

直江兼続は、越後上田庄(えちごうえだのしょう:現在の南魚沼市)で生まれました。幼少より利発だったことから、越後上田城主である「長尾政景」(ながおまさかげ)夫人「仙桃院/仙洞院」(せんとういん)の目に留まり、世継ぎ・景勝(かげかつ)の小姓となります。そして、景勝が叔父・上杉謙信の養子となる際、兼続も謙信のもとへ居を移しました。ここで過ごした数年間で義理と愛民の精神を、謙信から受け継いでいったのです。

謙信の死後、直江家の養子となった兼続が家督を継ぐことになり、上杉景勝の側近として領地経営にも手腕を発揮します。その当時の越後は上杉家のお家騒動である「御館の乱」(おたてのらん:1578年[天正6年])や、家臣が謀反を起こした「新発田重家の乱」(しばたしげいえのらん:1581~1587年[天正9~11年])といった、およそ10年にもわたる内乱で疲弊していた状況。それを兼続は、1590年(天正18年)に成立し、安定していた豊臣政権のもと、新田開発や越後・佐渡の金・銀山支配なども任せられたことで立て直したのです。

豊臣秀吉が亡くなると徳川家康が天下取りを見据え、活発に動き出します。そんな中、景勝が「神指城」(こうざしじょう:現在の福島県会津若松市)の建設を始めると、家康から「武力増強は、豊臣家に対しての謀反では?すぐ大阪城に来て弁明せよ」と詰問を受けました。

しかし、景勝も兼続も家康の行動を秀吉に背く「義に欠ける行為」と考えていたため、兼続は上杉家の立場を示す書状、世に言う「直江状」を送り返すのです。直江状の内容は、「築城は怠っていた部分を補完しただけ。会津は雪国ですから、すぐに上洛はできません。太閤秀吉様の掟に背くのは、言いがかりを付けて上杉家に汚名を着せようとしている家康様では。返答に不満があれば、討伐軍を差し向けて下されば、いつでもお相手しますよ」とかなり挑発的な書状でした。これに激怒した家康は会津征伐を決意したのです。

兼続の運命も左右した関ヶ原の戦い

徳川家康が上杉討伐の軍を興し会津へ向かうその途中、石田三成が挙兵します。その報を受け、家康率いる東軍は会津征伐を中止、急遽軍勢を関ヶ原に戻すことに。家康を待ち受けていた直江兼続も方針を転換、東軍である出羽(でわ:現在の山形県・秋田県)「最上義光」(もがみよしあき)の領地へ出陣します。

しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことが伝わると撤退を決意。最上軍が追撃するも、兼続自らが殿(しんがり:退却する部隊の最後尾を担当し、敵の追撃を防ぐこと)を務めて上杉軍を無事に会津に戻すことに成功するのです。

その後、兼続は景勝と共に上洛。家康に謝罪し忠誠を誓いますが、景勝は会津の領地を没収されることに。しかし、兼続が「私が秀吉様に頂いた米沢30万石は、景勝へ与えて欲しい」と家康に懇願し、それを許されるのです。そして、兼続は景勝に、「責任は私にあります。領地が減りましたが、ひとりでも家臣を召し放つことはしないで下さい。農業振興で米沢藩を潤します」と言ったと伝えられています。

この敗戦をきっかけに、兼続は治水事業や新田の開発、街の整備を徹底的に推進。合戦が中心であった上杉家の方針を、産業や農業へ力を入れることへ変更しました。そして、会津120万石から大減封された上杉家の財政改革を、米沢藩において最後までやり遂げたのです。謙信から受け継いだ義理を大切にし、主君への忠誠、家臣や領民に誠実であった兼続。彼ほど愛の文字が似合う武将はいないと言えます。

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上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続

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「甲冑」(かっちゅう)とは、胴部を守る「鎧」(よろい)と、頭部を守る「兜」(かぶと)からなる武具です。今回は、戦国時代を生きた4武将、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)、「武田信玄」(たけだしんげん)、「伊達政宗」(だてまさむね)、及び「直江兼続」(なおえかねつぐ)と甲冑にまつわる話をご紹介します。

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井伊の赤備え・真田の赤備え・村上水軍

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「甲冑」(鎧兜)などの武具を、同じ色で統一した部隊を「備え」と呼びます。なかでも「赤備え」とは、武具を赤色や朱色を主体とした色彩で整えた精鋭部隊のことです。今回は、「武田の赤備え」と同様に有名な「井伊の赤備え」、及び「真田の赤備え」についてご紹介します。また、甲冑(鎧兜)を使用していたのは、武将だけではありません。「村上水軍」と呼ばれる海賊衆が使用していた甲冑(鎧兜)も、あわせてご説明します。

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戦国武将と甲冑①

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武将の甲冑(鎧兜)は「武具」であると共に、武将としての「威厳」や「地位」の高さを誇示する物でした。特に、個性的で目立つデザインの兜を「変わり兜」と言い、室町時代末期から始まり安土桃山時代に全盛期を迎えます。ここでは、戦国時代に活躍した「武田信玄」、「上杉謙信」、「森可成」(もりよしなり)、「山中幸盛」(やまなかゆきもり)の変わり兜と人物像について詳しくご紹介します。

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戦国武将と甲冑②

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集団の中で目立ち、頭ひとつ抜き出るためには、強い個性が必要でした。それを表現する物こそが、「甲冑」(鎧兜)。特に、前立、脇立、後立という立物に、自分の信条や信念を込め、敵はもちろん味方にも心理的な衝撃を与えたのです。ここでは、その勇猛さで恐れられた「立花宗茂」、「佐竹義重」、「明智光春」、「蒲生氏郷」の変わり兜と人物像について詳しくご紹介します。

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戦国武将と甲冑③

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甲冑は日本刀と同じく、戦功の贈答品として主君から家臣に下賜されることが多かったようです。家臣はそれを誇りに思い、主君は戦場で変わり兜を身に付けた家臣を見付けやすく、その活躍ぶりを伝聞し、恩賞を与える判断にしたのかもしれません。ここでは「豊臣秀吉」、「黒田官兵衛」、「前田利家」が所有し、家臣に贈ったことが伝わる変わり兜について詳しくご紹介します。

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「徳川家康」を率いる「東軍」が勝利を収めたのは、家康が見事な采配を取ったのはもちろんのこと、「武官派」としてその名を轟かせた家臣団が付き従っていたことが、その大きな要因でした。ここでは家康を含め、そのような家臣団の中でも「最強」と評されていた「本多忠勝」(ほんだただかつ)と「井伊直政」(いいなおまさ)について、その強さの秘密を甲冑を通して見ていきます。

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