「前田利家」は、「加賀百万石」と称される加賀藩の礎を築いた人物。若くから小姓として織田信長を仕えた前田利家は、槍の又左の異名で呼ばれるほど勇猛果敢な武将でした。
賤ヶ岳の戦い後、前田利家は豊臣秀吉に仕え、加賀百万石の大名として、五大老のひとりとして豊臣家を支えていきます。
また、正室であるまつもそんな前田利家を懸命に支えます。前田利家とまつの仲も戦国のおしどり夫婦として大河ドラマにもなりました。
ここでは前田利家の経歴やまつのエピソード、前田利家にゆかりのある刀剣をご紹介します。
前田利家
前田利家は、1539年(天文7年)、尾張国(現:名古屋市)の土豪の四男として生まれました。当時ではめずらしい、約180cmの大男。
加えて、喧嘩好き・派手好きで知られ、約6m30cmもある槍を持ち歩いていました。そのため、「槍の又左」(やりのまたざ)と呼ばれて恐れられていたそうです。
この頃「尾張の国の大うつけ」と呼ばれていたのが、尾張国の戦国大名「織田信長」。
前田利家は若くから信長に仕え、数々の戦いで功績を挙げてきました。
前田利家は、当時同じく信長に仕えていた「豊臣秀吉」とともに、信長からの寵愛を受けます。
また、容姿端麗だった前田利家は、織田信長の愛人も務めていたと言われています。
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1559年(永禄2年)、前田利家に人生最大のピンチが訪れます。信長が寵愛していた茶坊主「拾阿弥」(じゅうあみ)に、妻「まつ」からもらった笄(こうがい:髪飾り)を盗まれたとして、拾阿弥を斬ってしまったのです。怒った信長は前田利家を出仕停止とし、前田利家は浪人となってしまいました。
前田利家は、信長からの信頼を取り戻すため、信長に無断で戦場に赴き功績を挙げます。1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)では3つの首を、翌1561年(永禄4年)の「森部の戦い」でも2つの首を取り、やっと信長の許しをもらうことに成功。このとき討ち取った首の中には、素手で首を取るほどの怪力武将「足立六兵衛」(あだちろくべえ)も含まれており、前田利家の強さをうかがい知ることができます。
「大典太光世」(おおてんたみつよ)は、平安時代に筑後三池派の刀工・典太光世の作で、前田家の家宝とされてきた日本刀。元々は足利家の家宝であった物が秀吉に渡り、前田利家に贈られたと言われています。
1792年(寛政4年)に江戸千住の小塚原で大典太光世の試し切りをしたところ、積み重ねた死体の2体を切断し、3体目の背骨で止まったと記録されています。
また、この刀にはこんなエピソードも残っています。秀吉が「加藤清正」(かとうきよまさ)、「黒田長政」(くろだながまさ)から聞いた怪談話。「千畳敷の廊下を深夜に渡ると何者かが刀の小尻を掴んで通れない」という噂を、前田利家は「そんな話ありえない」と取り合いませんでした。皆に「それならば行って確かめてきてくれ」と言われた前田利家に、秀吉が守り刀として渡したのが大典太光世。そのおかげか、前田利家は何事もなく廊下を渡りきることができたそうです。
「大坂長義」(おおさかちょうぎ:短刀 銘 備州長船住長義 正平十五年五月日[たんとう めい びしゅうおさふねじゅうちょうぎ しょうへいじゅうごねんごがつひ])は、備前長船派の刀工・長義作の短刀。同じく長船派の兼光(かねみつ)と比較され、刀文の特徴から長義は桜花、兼光は梅花と喩えられています。
加賀藩の家宝とされてきた大坂長義ですが、「大坂」と付けられている由来は、はっきり分かっていません。秀吉が大坂城で前田利家に譲ったからとも、2代目の加賀藩主「前田利常」(まえだとしつね)が大坂で入手したからとも伝えられています。なお、1812年(文化9年)に「本阿弥長根」(ほんあみながね)が加賀藩の刀剣103振を手入れした際の記録にも、「大坂長義 小」と記されています。
ちなみに前田利家の四男にあたる利常は、父ゆずりの奇人で「鼻毛の殿様」として有名。当時120万石の大大名であった加賀藩は、幕府から厳しい監視の目を向けられていました。そこで、利常は「バカな殿様」を演じるために鼻毛を伸ばし、監視の目をそらしたそうです。
この短刀は16代目の加賀藩主にあたる「前田利為」(まえだとしなり)の名義で、1931年(昭和6年)には旧国宝指定を受けています。