尾張の一土豪出身であり、戦功を挙げて大名に上り詰めた「蜂須賀氏」(はちすかし)が所有した「刀 無銘一文字」。「一文字派」とも呼ばれ、一口に一文字と言ってもいくつかの流派に分かれており、その歴史や特徴は異なっています。国宝に指定されている一文字も数多くあるため、名前を知っている方も多いでしょう。蜂須賀氏が大名になるまでの歴史や蜂須賀氏が所有した一文字と、一文字各流派の特徴、一文字の派生元である「古備前派」について解説します。
豊臣秀吉
「羽柴秀吉」のちの「豊臣秀吉」に仕えていた「蜂須賀氏」(はちすかし)は、様々な功績を挙げたことで近世大名にまで成り上がった日本の氏族のひとつです。
その歴史の始まりは、尾張国蜂須賀郷(現在の愛知県あま市)を治めていた一士豪からと言われています。
織田氏のもとに仕える過程で、羽柴秀吉と出会い、縁の下の力持ちとして様々な功績を挙げ、ついには阿波一国(現在の徳島県)を治める大名の地位を与えられることになったのです。
もともと「蜂須賀」という名前は名乗っておらず、尾張国蜂須賀郷を治める国人になったことから、蜂須賀と称するようになったとのこと。織田氏の配下となる前までの蜂須賀氏は、農業経営を主な仕事としていました。
蜂須賀氏が世間に名を馳せるようになるのは、織田氏の配下となったあと、羽柴秀吉と出会ってからです。
墨俣城
羽柴秀吉に仕えてから蜂須賀氏の地位は大きく変わることになります。蜂須賀氏が挙げた数々の功績のなかでも、今なお語り継がれているのは、「墨俣城」(すのまたじょう:現在の岐阜県大垣市)の築城です。
もともと墨俣城の築城は、「織田信長」の家臣達が受けていたのですが、ことごとく失敗。低湿地帯、そして敵を眼前に見据えながらの築城という過去に例のない工事ということもあり、困難を極めたのです。
その難工事を引き継いだのが羽柴秀吉。当時は「木下藤吉郎」と名乗っていました。羽柴秀吉は、蜂須賀氏を含めた野武士を集めて工事を開始。築城予定地の傍を流れる長良川の上流で、あらかじめ城の各部位を作っておき、長良川下流の築城予定地まで筏(いかだ)に乗せて流す、という計画を立案。築城予定地で1から城を建築するよりも早く、また敵に築城することを悟らせないこの作戦は見事に成功し、一夜にして城を築きあげたのです。
これはのちに「墨俣の一夜城」とも言われる有名な逸話で、諸説あるうちのひとつですが、蜂須賀氏は野武士の頭領として大きく活躍したことにより、その地位を大きく高めました。それ以降も羽柴秀吉に従って戦功を挙げていき、ついに阿波一国の大名にまで上り詰めたのです。
時代は過ぎ、「関ヶ原の戦い」へ。このとき、蜂須賀氏は西軍の「石田三成」の挙兵に応じていました。しかし、「小笠原秀政」(おがさわらひでまさ)の娘を「徳川家康」の養女として妻に迎えていたことから、蜂須賀氏は最終的に東軍に属することに。その結果、蜂須賀氏は、天下分け目の一戦を生き延びることに成功しました。
そののち「大坂の陣」でも大きな戦功を挙げ、関西にも勢力を拡大。江戸時代を大名として華々しく駆け抜けます。
近世大名として多くの功績を残した蜂須賀氏。彼らが所有していたと言われる刀剣の一文字は、その名の通り「一文字派」が作刀した物です。そして、その一文字派は「古備前派」を祖としています。
古備前派は、平安時代中期から始まる、備前国(現在の岡山県)を拠点にしている刀工集団のこと。そのなかでも、特に平安時代に活躍した刀工達の作品を「古備前物」と呼称します。この古備前物には、古刀最上作にも数えられるほど質の高い刀剣が多く存在することが特徴です。
古備前派の流れを汲む一文字派は、備前国で栄えた一大流派のひとつで鎌倉時代前期から盛り上がり、複数の流派へと枝分かれしていきました。一文字派のなかでも特に有名な流派を3つご紹介します。
一文字のなかでも最も古い流派が「福岡一文字」です。祖は「則宗」(のりむね)とし、鎌倉時代前期から始まった流派で、現在の岡山県邑久郡(おくぐん)長船町福岡で繁栄したと言われており、「福岡」の由来もこの地名から来ています。
鎌倉時代中期の作品は、大丁子乱れの作風を取り入れ、福岡一文字の特徴のひとつとして作り上げていました。そのため、姿が非常に華やかで凛々しいのが魅力の流派です。
鎌倉時代の正応頃から始まり、南北朝時代まで続いた流派が「吉岡一文字」。赤磐郡吉岡(あかいわぐんよしおか:現在の岡山県岡山市)で広く盛り上がりをみせた流派で「左兵衛尉助吉」(さひょうえのじょうすけきち)がこの流派の祖として知られており、福岡一文字で活躍した「助宗」(すけむね)という刀工の孫に当たる人物であると言われています。
吉岡一文字の特徴は、純然たる直刃(すぐは)です。刃文の模様がやや控えめな印象ではあるものの、全体的に穏やかな姿をしており、古風ゆかしい風格が備わっています。
鎌倉時代後期から始まったとされる「岩戸一文字」。備前国和気郡岩戸庄(現在の岡山県東部)を中心に繁栄したため、「岩戸」と名付けられました。
刀工としては「吉氏」、「宗氏」、「吉信」を輩出しており、多くの作品を作ったと言われていますが、現存する刀剣が他の流派と異なり、多くはありません。作風は、吉岡一文字と似ている部分が多いです。