後鳥羽上皇と御番鍛冶
後鳥羽上皇の生涯
後鳥羽上皇と御番鍛冶
後鳥羽上皇の生涯

文字サイズ

2019年(平成31年)4月30日、天皇の譲位によって、「上皇」(じょうこう)が現代日本にも登場しました。これは、1817年(文化14年)に譲位(じょうい)した「光格天皇」(こうかくてんのう:1771年[明和8年]~1840年[天保11年])以来、実に202年ぶりのことです。

平安から鎌倉時代、国政を動かした「上皇」とは?

天皇が存命中にその地位を後継者へ譲ることを「譲位」と言いますが、譲位した天皇の尊称(そんしょう)として律令に定められたのが「太上天皇」(だいじょうてんのう/だじょうてんのう)であり、その略称が上皇となります。

かつて天皇は終身在位する地位でした。日本の歴史上で最初の譲位は、645年(大化元年)に行なわれた「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)から、「孝徳天皇」(こうとくてんのう)への譲位とされています(※異論・諸説あり)。

さらに上皇の誕生は、697年(文武元年)に「持統天皇」(じとうてんのう)が「文武天皇」(もんむてんのう)に譲位し、太上天皇となったのが始まりです。

では、歴史に名を残し、数々のドラマを彩った著名な上皇には、どのような人物がいたのでしょうか。

院政を本格化した「白河上皇」(しらかわじょうこう)に続いて、「鳥羽上皇」(とばじょうこう)、「後白河上皇」(ごしらかわじょうこう)、「崇徳上皇」(すとくじょうこう)、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)などが名を連ねます。

後鳥羽上皇の時代、武士の時代の幕開け

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

1184年(元暦元年)9月4日、第82代天皇に即位した、のちの後鳥羽上皇こと「後鳥羽天皇」(1180年[治承4年]8月6日~1239年[延応元年]3月28日)の生涯について、大きく時代背景から探ってみました。

後鳥羽天皇が在位した平安時代から鎌倉時代初期にかけては、天皇や上皇を中心とした貴族が京都の朝廷を動かしてきた時代から、「平清盛」(たいらのきよもり)や「源義朝」(みなもとのよしとも)などの有力な武士が台頭する時代への、移り変わりの只中にありました。

平安時代中期、天皇との親族関係を結び、摂政関白(せっしょうかんぱく)となった「藤原氏」(ふじわらし)が政治の実権を握ると、摂関政治(せっかんせいじ)の時代が訪れます。

しかし、1068年(治暦4年)、「後三条天皇」(ごさんじょうてんのう)が即位すると、藤原氏の専権(せんけん:思うままに権力を振るうこと)を抑え、自ら政治を行なう体制へと刷新。「荘園整理令発布」(しょうえんせいりれいはっぷ)や「記録荘園券契所」(きろくしょうえんけんけいじょ)の設置などを実施しました。天皇家との外戚(がいせき)関係の構築に失敗した藤原氏の力は次第に衰え、かつての勢いを失ってゆきます。

続いて皇位を継承した後三条天皇の皇子「白河天皇」(しらかわてんのう)は、皇位を退いたあとも上皇として政治を主導する「院政」(いんせい)を敷き、この頃から院政の時代が本格化しました。

院政とは、上皇または法皇(出家した上皇のこと)によって政治が行なわれることで、多くは幼くして即位した天皇の父や祖父が国政の実権を担うこと。歴史書などでは、白河天皇が譲位した1086年(応徳3年)から、平家滅亡の1185年(文治元年)までを「院政時代」と呼ぶこともあります。

院政時代には、朝廷の人事権や政治の実権を天皇が握る一方、「源氏」や「平氏」に代表される武士を、政権の警護にあたらせるために従えました。実力集団である武士達に一定の役割を担わせたことは、のちに朝廷や政権そのものをおびやかすほどの、強大な軍事力を与えることにもつながっていきます。

武家権力が増大し、「保元の乱」(ほうげんのらん)や「平治の乱」(へいじのらん)、「源平争乱」(げんぺいそうらん)から鎌倉幕府の誕生へと続く間も、院政そのものは保たれてきましたが、後鳥羽上皇の命運を分けた「承久の乱」(じょうきゅうのらん)による敗北からは、院政は形骸化(けいがいか:実質的な意味を失い、形式ばかりになること)し、天皇の選定すら自由に行なえない時代が訪れました。

ここからは、保元・平治の乱から、後鳥羽上皇の生涯までを、時代を追ってさらに詳しく述べていきます。

武家勢力の存在感を示した保元の乱と平治の乱

平安時代後期の1155年(久寿2年)、院政を続ける「鳥羽法皇」(とばほうおう)が、その皇子である後白河天皇を即位させると、政治の実権を握ることを望んでいた兄・崇徳上皇はそれに反発。鳥羽法皇の崩御を機に、皇位継承をめぐり対決するも、1156年(保元元年)、保元の乱によって、後白河天皇に従う平清盛、源義朝らに敗北。崇徳上皇は、讃岐(さぬき:現在の香川県)に配流(はいる:流罪にすること)されてしまいます。

そして1159年(平治元年)、今度は「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の側近同士の対立が要因となる平治の乱が勃発。平清盛に源義朝が討たれ、この頃より、平清盛と平家一門の力と地位が一気に高まります。

高倉天皇

高倉天皇

一時は朝廷の内乱を鎮めた功労者として、武家で最初の太政大臣(だいじょうだいじん)にも任命された平清盛ですが、次第に権力をほしいままにし、やがては朝廷の人事権にまで影響を及ぼすようになりました。

清盛の娘で、のちの「建礼門院」(けんれいもんいん)こと「徳子」(とくこ)を「高倉天皇」(たかくらてんのう)に入内(じゅだい:中宮・皇后となるべき人が、正式に内裏に入ること)させ、1172年(承安2年)には中宮となるなど、重要な官職も一門で独占しはじめます。

反清盛派による「鹿ヶ谷事件」(ししがたにじけん:平氏討伐の謀議)が1177年(安元3年)に起きたのもこの頃でした。

1179年(治承3年)の政変において清盛は、それまで仕えていた後白河法皇を鳥羽殿(平安京の南につくられた離宮)に幽閉(ゆうへい)。ついには都を制圧してしまいます。

日本初の武家政権とも言われる(※異論・異説あり)平家政権ですが、このような清盛と平家一門の専横ぶりに、公家や寺社、他の武士集団の多くが反発。平家打倒の気運がじわじわと広がっていきます。

異母兄弟、安徳天皇の即位と後鳥羽上皇の誕生

安徳天皇

安徳天皇

1180年(治承4年)、平清盛は、娘・平徳子と高倉天皇の間に生まれた、わずか2歳の幼き皇子を第81代「安徳天皇」(あんとくてんのう)として即位させて「高倉院政」を始める一方、平家はさらに強大な権力を持ち続けました。

清盛の政略によって高倉天皇の第1皇子・安徳天皇が即位したまさにその年の8月6日、高倉天皇の第4皇子として、「尊成親王」(たかひらしんのう)、すなわちのちの後鳥羽上皇が誕生します。

母は、高倉天皇の後宮「藤原殖子」(ふじわらのしょくし:院号・七条院)。後鳥羽上皇は1178年(治承2年)12月生まれの安徳天皇の異母弟にあたり、共に後白河天皇の孫同士という関係です。

のちの運命を暗示? 内乱の年に生まれた後鳥羽上皇

後鳥羽上皇が誕生した1180年(治承4年)は、不穏な時代の到来を予感させる年でした。後白河法皇の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)が、平家打倒の令旨(りょうじ:皇太子・皇后などの命令を伝える書)を出すのです。

背景には、平家の力によって弟の高倉天皇が院政を行ない、その皇子・安徳天皇の即位によって自身が天皇に即位する可能性が失われたことへの不満がありました。そして、平家討伐を計画するものの、その計画はすぐに平家の知るところとなり、あえなく討たれてしまいます。

しかし、以仁王の令旨に共鳴する武士達も、各地に存在していました。平治の乱で父・源義朝を討たれて積年の恨みを抱く「源頼朝」(みなもとのよりとも)を筆頭に、平家打倒の武士達が挙兵します。

後鳥羽上皇誕生の年に起こった大規模な内乱は、1180年(治承4年)~1185(元暦2年)の「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)と言われ、「源平合戦」の時代から鎌倉幕府創設まで続くのです。

清盛の死と平家の都落ち。安徳天皇も「三種の神器」と共に

平清盛

平清盛

平家を嫌う京の大寺社と距離を置くように、清盛は一時的に平安京(現在の京都府)から福原京(現在の兵庫県神戸市)へ遷都。依然幽閉されたままの後白河法皇は、幼い2歳の孫・安徳天皇と共に、行幸するという形で福原京に移ります。

兄の安徳天皇と弟の尊成親王(のちの後鳥羽上皇)は、共に幼くして苛酷な時代の中で育ち、権力を手にした武士達に2人の皇子の命運が握られてしまうのでした。

平家に反旗をひるがえす勢力が予想以上に激しいことを知った清盛は、福原京から再び都を平安京に戻します。そして、1181年(治承5年)、高倉天皇が亡くなると、後白河法皇を一時的に幽閉から解き、平清盛は形ばかりの院政を復活。

一方で、3男「平宗盛」(たいらのむねもり)を都とその周辺国を支配する惣官(そうかん)に任命しますが、同年、平清盛自身が病により急逝します。

宗盛には清盛ほどの強い支配力はなく、後白河法皇に政治の主導権を返上するしかありませんでした。その後、源氏に対抗しようとする宗盛でしたが、「源義仲」(みなもとのよしなか)に追われ、1183年(寿永2年)、安徳天皇と天皇の位を示す三種の神器、「八咫鏡」(やたのかがみ)、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を持って京を離れ、都落ちします。

神器なき即位。2人の天皇が2年間在位

1183年(寿永2年)7月、平家と安徳天皇が都を逃れたあと、京に残った後白河法皇は、公卿達と平家への対応を協議しますが、平家追討に加わるべきか、和平交渉を通じて安徳天皇と三種の神器を取りもどすかで意見が分かれました。

翌8月、後白河法皇は、三種の神器なきままに新たな天皇に皇位を践祚(せんそ:天皇の位を受け継ぐこと)すべきか、安徳天皇に皇位を継続させるかをめぐって、卜占(ぼくせん:占い)を行なわせます。

一度は安徳天皇に皇位を継承という結果が出たものの、後白河法皇は再び占わせ「吉凶半分」の結果を得て、当時4歳だった尊成親王を即位させることに決めました。そのとき、後白河法皇の胸の内には、天皇を支配してきた平家への遺恨と討伐への決意が固まったのです。

同年8月20日、尊成親王は後白河法皇(太上天皇)の院宣(いんぜん:上皇または法皇の命により、院庁の役人の出す公文書のこと)を受け践祚し、第82代天皇に即位。1184年(元暦元年)7月28日には、三種の神器のないままに即位式を行ない後鳥羽天皇となります。

安徳天皇は退位しないまま平家と共にあり、そこへ新たに後鳥羽天皇が即位したため、1183年(寿永2年)から平家滅亡の1185年(文治元年)までの2年間は、2人の在位期間が重なり、天皇が2人存在することになりました。

平家滅亡。安徳天皇と三種の神器は何処へ?

1185年(文治元年)、「壇ノ浦の戦い」で、圧倒的な源氏の攻勢を前に平家はついに滅亡の時を迎えます。

「[波の下にも都のさぶらふぞ]となぐさめたてまつつて、千尋の底へぞ入り給ふ。」
「平家物語」より。

「波の下にも都がございます」との言葉に導かれ、8歳の安徳天皇が小さな手を合わせて入水する悲哀に満ちた物語は、その後も幾度となく語り継がれました。壇ノ浦では、母の建礼門院も入水。彼女は救助されますが、そのとき、三種の神器の草薙剣が海に沈んだと伝えられています。

鏡・玉・剣に宿る力。天皇の権威を象徴する三種の神器

三種の神器

三種の神器

伝統が重んじられる宮廷において、皇位の象徴である三種の神器は、単なる財産や貴重品ではなく、天皇家の権威や威厳、存在の高貴さと信頼を象徴する威信材(いしんざい:格式のある物を持っているからこそ権威がある)として守られてきました。

平家が安徳天皇と共に、即位の儀に不可欠な三種の神器を携え都落ちしたのも、天皇の任命権を掌握(しょうあく)し、保持し続けるためだったと解釈することができます。

ましてや三種の神器は、鏡(八咫鏡)、玉(八尺瓊勾玉)、剣(草薙剣)と、いずれも霊力を持つと考えられている宝物ばかりです。それら、権威の象徴をはじめから手にしていなかった後鳥羽上皇。「神器を持たない天皇」の烙印(らくいん)は、終世心の片隅に陰りを残すこととなります。

それは、為政者として力を発揮し、文武両道に秀で、文化芸術を愛した多才ぶりを発揮した後鳥羽上皇の生涯と表裏を成すものでした。

19歳の若さで譲位。院政は3代

後鳥羽天皇が4歳で即位したあとも、後白河法皇による院政は続きます。

1192年(建久3年)に後白河法皇が亡くなると、朝廷の実権を関白の「九条兼実」(くじょうかねざね)が握りました。同年、後鳥羽天皇は、鎌倉の源頼朝を征夷大将軍に任命。それは、平安京の朝廷とは別に、頼朝による武家政権である鎌倉幕府を認めることにもつながりました。征夷大将軍任命の陰には、頼朝と近しく彼の後押しで摂政に任命された九条兼実の働きがあったとも言われています。

平家に焼かれた東大寺大仏殿再建の法要のため京に上った頼朝は、娘の「大姫」(おおひめ)を後鳥羽天皇の妃にすべく工作を図りますが、入内計画はうまく運ばず、その後、大姫の死により頓挫(とんざ)。

征夷大将軍に任命された頼朝の心には、娘を天皇家に入内させた平清盛と同様に、朝廷との関係を深め、天皇家の一員となることで、支配力をさらに強化したいというねらいがあったのです。

1198年(建久9年)1月、後鳥羽天皇は19歳という若さで「土御門天皇」(つちみかどてんのう)に譲位し、後鳥羽上皇となります。その後、「順徳天皇」(じゅんとくてんのう)、「仲恭天皇」(ちゅうきょうてんのう)と3代23年間に亘って院政を敷きました。

魅力あふれる後鳥羽上皇の人物像

後鳥羽上皇は、過去の上皇に比べると文武両道の多芸多才ぶりで知られています。

通常、貴族は行なわない弓馬の術に秀で、武術の訓練を好み、水練(すいれん)や相撲もこなせば、芸事にも精通。琵琶(びわ)、蹴鞠(けまり)なども楽しみました。あらゆることに先頭に立って意欲的に取り組み、盗賊を捕らえるために自ら出動したという逸話まで残されています。

和歌にも優れ、「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)の編纂(へんさん)を命じ、日本の文学史に大きな功績を残しました。さらに、自ら日本刀(刀剣)を打ち、後世に語り継がれる銘刀(銘の切ってある作品)まで残しています。

ここから見えてくるのは、それまでの天皇や上皇とは全く異なる、自由度の高い型破りな人物像です。何事にも集中して自己研鑽(けんさん)に励むその生き方は、神器を持たずに即位した引け目の裏返しではないかと考えられています。

後鳥羽上皇が編さんを命じた新古今和歌

和歌の三大集として数えられるのが「万葉集」(まんようしゅう)、「古今和歌集」(こきんわかしゅう)、「新古今和歌集」です。

新古今和歌集は、後鳥羽上皇が「藤原定家」(ふじわらのていか)に編纂を委ね、「源通具」(みなもとのみちとも)、「藤原有家」(ふじわらのありいえ)、「藤原家隆」(ふじわらのいえたか)、「藤原雅経」(ふじわらのまさつね)、藤原定家らが撰者(せんじゃ)となった鎌倉時代を代表する勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)で、古今和歌集を上まわる約2,000首がおさめられています。

新古今和歌集に代表される歌風(かふう:和歌の特徴や傾向)や歌調(かちょう:歌の調子)は「新古今調」と呼ばれ、のちの和歌の作風にも大きな影響を与えました。

「和歌は世を治め 民をやはらぐる道である」と説いた後鳥羽上皇の和歌には、武力ではなく文化力で治世を行ないたいという願いが込められているのです。

【後鳥羽上皇の和歌】
「奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らせん」
(意味:たとえ奥山の藪の中に分け入ろうとも、必ず希望の道があることを人々に知らせたい) 

和歌を愛する後鳥羽上皇は、武家社会にも影響を与えました。貴種(きしゅ:高貴な家柄に生まれること)に憧れる東国の武士達の中には、後鳥羽上皇が発信する雅な王朝文化に惹かれる者も出てきます。鎌倉幕府3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)などはその代表と言え、新古今和歌集をいちはやく手に入れて和歌を学び、藤原定家を師と仰ぎました。東国武士とは対照的な都の文化や気風に憧憬を抱き、後鳥羽上皇とも深く親交を結んだのです。

西の朝廷と東の武士。2つの政権と鎌倉幕府の混乱

北条政子

北条政子

鎌倉幕府成立以降、朝廷の平安京と武士政権の鎌倉幕府、2つの政治が続いていましたが、1199年(建久10年)の源頼朝の死後、鎌倉幕府の体制は少しずつ揺らぎはじめます。

頼朝と「北条政子」(ほうじょうまさこ)の嫡男、2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)は政治力に乏しく、執権「北条氏」と対立。将軍職を追われ幽閉先で暗殺されます。

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

さらに、後鳥羽上皇と親しい間柄だった3代将軍・源実朝も、1219年(承久元年)1月、右大臣昇進の拝賀に参拝した鎌倉鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の境内で、兄・頼家の子で甥の「公暁」(くぎょう)の手により暗殺。

実朝の死後、鎌倉殿の政務は頼朝の正室・北条政子が担い、弟で執権の「北条義時」(ほうじょうよしとき)が補佐に就きます。

北条政子は、後鳥羽上皇のもとへ使者を送り、上皇の皇子である「雅成親王」(まさなりしんのう:六条宮)を将軍として鎌倉へ迎えたいと願い出ますが、上皇は雅成親王が実朝亡き鎌倉幕府で北条方の政治的道具にされることを恐れ、これを拒否。上皇の愛妾(あいしょう)、「亀菊」(かめぎく)に与えた荘園の地頭職を罷免することなどを幕府に要求し、鎌倉幕府の反応を見ます。北条義時は幕府への挑発と捉え、弟「時房」(ときふさ)に1,000騎を与え上洛(じょうらく)させ、武力による恫喝(どうかつ)を試みますが、朝廷はゆらぎませんでした。

そして、後鳥羽上皇は皇子である雅成親王に代わって、摂政「九条道家」(くじょうみちいえ)の子「三寅」(みとら:のちの九条頼経[くじょうよりつね])を鎌倉幕府に送ります。同じ頃、内裏守護(だいりしゅご)の「源頼茂」(みなもとのよりもち)が将軍就任を企てたとして、上皇が討伐にあたりますが、混乱の最中に王権の象徴とも言える大内裏(だいだいり)を焼失してしまうのです。

実朝暗殺にはじまる一連の混乱、不穏な動きの要因がすべて鎌倉幕府と執権北条氏にあると考えた後鳥羽上皇は、北条義時への敵意をつのらせるのです。

後鳥羽上皇は、院の御所(いんのごしょ:上皇の居所)に仕える「北面の武士」(ほくめんのぶし)を重視し、京の警護にあたらせていましたが、新たに「西面の武士」(さいめんのぶし)を制度化。都に滞在する御家人をその任に就かせました。そして、鎌倉幕府から送られてくる京都守護に対しても命令を下すようになり、後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立関係は深刻化していきます。

洗練された都の文化に育ち、「朝廷主導の政治」を願う後鳥羽上皇にとって、身内同士で血を流し合い、将軍が次々暗殺されるような統制なき鎌倉幕府の混乱は、再び朝廷が主導権を取り戻すための好機と感じられました。

日本史の分岐点? 承久の乱が時代の流れを変えた

後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の打倒を計画。1221年(承久3年)5月、北条義時討伐を宣旨(せんじ:朝廷の命令を伝えること)し、流鏑馬揃(やぶさめそろえ)を名目に、北面、西面の武士や諸国の武士、有力御家人らを集め1,000与騎で挙兵。承久の乱が勃発します。

ところが、味方と信じていた「三浦義村」(みうらよしむら)からの密書を通じて、義時討伐の計画が事前に幕府方へ知られてしまったのです。鎌倉に後鳥羽上皇挙兵の知らせが広まると、朝敵(ちょうてき)となることを恐れる御家人達に動揺が走ります。

そのとき、北条政子は「源頼朝どのが朝敵平家を滅ぼし関東に幕府を作って以来、皆の官位も上がり、収入も増えた。その恩は、山よりも高く海よりも深い。讒言(ざんげん:事実をいつわって悪しざまに告げ口すること)により理不尽な幕府への討伐命令が出された今、朝廷に付いた者を討ち、源氏将軍の恩に報いよ」と演説を行ない、「朝廷が幕府を倒そうとしている」と御家人達を煽動(せんどう)しました。

そうして鎌倉幕府軍には10,000を超える軍勢が集まり、多勢の幕府軍に上皇の軍は大敗。後鳥羽上皇は、義時追討の院宣を取り消しました。

承久の乱は、史上初の朝廷対武士の武力対決となり、武家が朝廷を打ち負かすという、今まで超えてはいけないとされた「一線を越える」動乱だったのです。

この承久の乱以降、朝廷の力は衰え、鎌倉幕府は守護や地頭、六波羅探題(ろくはらたんだい)を配置して、各地を支配する体制を強化し、勢力を拡大します。その支配は、西国にも及び、朝廷の皇位継承にも幕府が関与するようになりました。

そして、将軍に従う武士は御家人となり、領地(御恩・恩地)を与えられる代わりに、戦に参加するなどの義務を負うことになります。武士の時代、封建制度がはじまったのです。

「後鳥羽院」隠岐へ配流。都へ帰らずして崩御

隠岐島の後鳥羽上皇

隠岐島の後鳥羽上皇

承久の乱後、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島(島根県)へ、順徳上皇は佐渡島(新潟県)へ、それぞれ配流されます。討幕計画に参加しなかった「土御門上皇」(つちみかどじょうこう)も、「ひとり都に残るのは忍びない」と自ら望んで土佐国(現在の高知県)へ。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王と「頼仁親王」(よりひとしんのう:冷泉宮)も、それぞれ但馬国(現在の兵庫県)と備前国(現在の岡山県)へ流されます。

後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、「行助法親皇」(ぎょうじょほうしんのう:亀山天皇[かめやまてんのう]の皇子。出家した男子皇族。)に与えられると、幕府が支配権を担いました。

隠岐「中ノ島」には、後鳥羽上皇行在所跡があり、島の人達は現代でも後鳥羽院(後鳥羽上皇のおくり名)のことを「ごとばんさん」と親しみを込めて呼んでいます。

後鳥羽院が隠岐で過ごした19年間の暮らしは、仏への信仰と和歌を詠む日々だったとのことです。都への帰還の夢はついに叶わず、1239年(延応元年)、同地で崩御。享年60歳でした。

後鳥羽上皇の生涯

後鳥羽上皇の生涯をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「後鳥羽上皇と御番鍛冶」の記事を読む


御番鍛冶とは

御番鍛冶とは
日本刀(刀剣)への造詣が深く、自ら作刀も手掛けた「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が設けた「御番鍛冶」(ごばんかじ)とは、どのような制度だったのでしょうか。後鳥羽上皇が心に抱いた志や、御番鍛冶制度が後世に与えた影響など、多角的に述べていきます。

御番鍛冶とは

御番鍛冶の刀工

御番鍛冶の刀工
愛刀家であった「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)により、各月交替で作刀を担当する「御番鍛冶」(ごばんかじ)が任じられました。ここでは、御番鍛冶を務めた刀工について、月ごとに詳しく解説していきます。

御番鍛冶の刀工

注目ワード

ページトップへ戻る