織田有楽斎
織田信秀の十一男・織田有楽斎(おだうらくさい:本名・織田長益[おだながます])は、織田信長の異母弟として、織田信長の妹・お市の方(おいちのかた)と同年である1547年(天文16年)に生まれた武将です。
織田有楽斎の傅役(かしずきやく/もりやく:お守役)は、織田信長と同じく平手政秀が担い、その影響から、文化や学問を尊ぶ気質が育まれました。
のちに、平手政秀の娘を正室に迎えるなど、その関係や影響力は深かったと言われています。学問や文化教養に秀でた織田有楽斎の才能を、いち早く見抜いたのは織田信長。
織田有楽斎は、実戦よりも交渉役や文化交流、小姓達の教育係などに重用され、徳川家と豊臣家の和睦にも務めていました。
歴史的な合戦に参戦してきたものの、武将の野心とは遠いところで、戦国の世を生き抜いたのです。また、織田有楽斎は、豊臣秀吉に仕えていた頃より千利休に師事。
「利休十哲」のひとりとして、茶道「有楽流」を興し、現在の京都市東山区にある「建仁寺」(けんにんじ)の正伝院(しょうでんいん)再興に尽力。そこに建てた茶室「如庵」(じょあん)は、国宝に指定されています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1547年(天文16年) | 1歳 | |
1567年(永禄10年) | 21歳 |
織田信長による美濃攻め・稲葉山城の戦いの前哨戦となる森部の戦いにて、初陣を飾る。
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1572年(元亀3年) | 26歳 |
甥にあたる織田信長の長男・織田信忠が元服。その旗下に付く。
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1574年(天正2年) | 28歳 | |
1581年(天正9年) | 35歳 |
織田信忠、織田信雄(おだのぶかつ)、織田信包(おだのぶかね)、織田信孝、津田信澄(つだのぶずみ)らに続き、織田信長主催の京都御馬揃えに加わる。
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1582年(天正10年) | 36歳 | |
1582年(天正10年) | 36歳 | |
1586年(天正14年) | 40歳 | |
1588年(天正16年) | 42歳 | |
1590年(天正18年) | 44歳 | |
1600年(慶長5年) | 54歳 | |
1614年(慶長19年) | 68歳 |
大坂冬の陣では穏健派として豊臣家を支える。同合戦後、穏健派の大野治長と共に、徳川家との和睦、和平交渉の中心人物となる。
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1615年(慶長20年/ 元和元年) |
69歳 |
大坂夏の陣を前に再戦の気運が高まるなか、もはや戦が避けられないことを知る。そのあと、許可を得て豊臣家から離れ大坂城を去り、京都に隠棲。
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1622年(元和8年) | 76歳 |
茶の湯に専念し、趣味人としての余生を過ごす。
京都で死去。 |