江戸時代
大坂冬の陣・夏の陣
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大坂冬の陣・夏の陣

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1614年(慶長19年)11~12月と、1615年(慶長20年)4~5月。大坂で豊臣軍と徳川軍(幕府)が対峙する合戦が発生しました。「大坂冬の陣・夏の陣」です。戦いに敗れた豊臣宗家は滅亡し、徳川家を頂点とした長期安定的な政権が本格化することになりました。なお、「大阪」は明治以前「大坂」と表記されており、本稿では大坂と表記します。

大坂冬の陣・夏の陣が起きた背景

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で、石田三成率いる西軍を下した徳川家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に就任。江戸城を拠点として政権作りに着手しました。家康は、関ヶ原の戦い後の処理において、太閤直轄地を東軍への恩賞として分け与え、220万石のほぼ4分の3を削減。豊臣家の所領は、摂津・河内・和泉の約65万石にまで削られてしまったのです。

もっとも、徳川家にとって豊臣家はなお主君筋に当たり別格的な存在。徳川家を頂点とした安定政権を目指した家康にとって、都合の悪い事態でした。そこで家康は、秀吉の子・秀頼を服属させることを考え始めました。1605年(慶長10年)4月、家康は将軍職を秀忠に、自らの官位・右大臣を秀頼に委譲。このとき、将軍・秀忠の官位は右大臣よりも低い内大臣でしたが、秀忠が2代将軍となったことで、これからは徳川家が天下に君臨することが示されたと言えます。

1611年(慶長16年)、当時69歳だった家康は、後水尾天皇の即位の儀式に立ち会うため、駿府城から4年ぶりに上洛。孫娘・千姫の婿だった秀頼(当時17歳)と、二条城において会見することを要請しました。二条城での家康と秀頼の会見は穏便に終了しましたが、同年に浅野長政、加藤清正が、1613年(慶長18年)に池田輝政らが、さらに1614年(慶長19年)には前田利家らが死去。秀吉時代からの側近たちが次々と死去し、秀頼の母・淀君ら「反徳川」の強硬派が豊臣家の実権を握ったことで、豊臣家の孤立が深まっていったのです。

関ヶ原の戦い後に行き場を失っていた浪人を集め、兵糧の確保に奔走するなど徳川家(幕府)に対する対決姿勢を前面に押し出し始めた豊臣家とは対照的に、徳川家(幕府)がとっていたのは、融和政策。しかし、それは表面上のことで、水面下では戦いに向けた準備を進めます。大坂城攻めの兵器として、国友鍛冶に大鉄砲や大筒の制作、石火矢(いしびや)の制造を命じ、イギリスやオランダに大砲などの注文を行なうことにより軍備を増強。こうして、豊臣家と徳川家(幕府)の対決が避けられないところまで緊張関係は高まってきていました。

引き金は8文字の鐘銘? ~決戦前夜~

豊臣家と徳川家(幕府)の対立が決定的となったのが、1614年(慶長19年)に豊臣家が再建していた「方広寺」の鐘に刻まれた、わずか8つの文字でした。「国家安康」、「君臣豊楽」。家康の2文字を割り、豊臣を君主とする句を彫った鐘銘について、家康は執拗に追及。ここで両家の間の亀裂が表面化したのです。

豊臣軍の準備

豊臣家は旧恩のある大名や浪人などに声をかけ、戦いの準備に突入。浪人を含めた豊臣家の兵力は約10万人で、その中には真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永らの「五人衆」が含まれていました。しかし、諸大名で大坂城に馳せ参じる者はありませんでした。豊臣家に協力的だったと言えるのは、豊臣家が兵糧を蔵屋敷から接収するのを黙認した福島正則のみ。全国の諸大名は江戸幕府の体制下に組み込まれており、主君はあくまでも家康(幕府)であって、秀頼にしたがって徳川と戦う理由がなかったのです。

兵を集めると同時に、豊臣家は秀吉が大坂城内に遺していた莫大な金銀を元手に、大量の兵糧や武器の買い入れに加え、総構(城や砦の外郭)の修理や櫓の建築なども実施。これに加えて、浪人にも金銀の支給があったとも言われています。このことから分かるように、豊臣家の準備は金銀を使ってできることが大半。権力の頂点に君臨するのは家康(幕府)であり、豊臣家にとっては、秀吉が遺した大量の金銀を使って準備を進める以外に有効な手立てがなかったのが実情だったのかもしれません。

徳川軍の準備

1614年(慶長19年)10月11日、家康は兵を率いて駿府を出発し、23日に二条城に入りました。同日、秀忠が約6万の軍を率いて江戸を出発しています。徳川家(幕府)が動員した兵力は約20万人。豊臣家の約2倍の大軍が大坂に集結しました。

しかしその中に、関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)の勝利に尽力した福島正則や、黒田長政らの姿はありませんでした。家康から、江戸城に留め置きとされたのです。福島、黒田らが関ヶ原で東軍についたのは、不仲だった石田三成を討つため。豊臣家への忠誠心が残っていた場合、戦いの最中に豊臣家に寝返るおそれがあると考えられていました。

徳川家についた諸大名は、江戸から揃って出発した訳ではなく、当主が江戸から帰国し、各々の国許から指定された瀬田・大津・京都郊外・大坂付近などの基点に集結。11月15日、二条城を出発し大坂へと向かった家康は、18日先着していた秀忠と茶臼山陣城で軍議。いよいよ決戦の火ぶたが斬って落とされるときがきました。

大坂冬の陣

1614年(慶長19年)11月19日、木津川口の砦での衝突をきっかけに、豊臣軍と徳川軍(幕府)の戦いが始まりました。その後「鴫野・今福の戦い」、「博労淵の戦い」、「野田・福島の戦い」を経て数ヵ所の砦が陥落し、豊臣軍は開戦からわずか10日あまりで大坂城に撤収。早々に籠城戦を始めました。

真田丸の戦い

真田幸村

真田幸村

豊臣軍の籠城を受け、徳川軍(幕府)は約20万人の軍で大坂城を包囲。しかし、大坂城は堅固な守備力を誇っていました。当時大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を平野川・大和川・淀川、東横堀川などが流れており、自然の川が堀のように取り囲んで城を守っていたのです。豊富な兵力を誇り、歴戦の大名が数多く参戦している徳川軍(幕府)と言えども、大坂城に攻め入ることは容易なことではありませんでした。

難航不落の大坂城にも唯一、欠点がありました。地続きとなる南方だけは空堀のみで防御が手薄となっていたのです。そこで真田信繁(幸村)は、ここに出城(真田丸)を築くことで弱点を補強。また真田丸の背後には、幅200mに及ぶ深い谷がありました。信繁は、仮に徳川軍(幕府)によって真田丸が落とされたとしても、その谷によって大坂城を守ることができると考えていました。小さな出城である真田丸は、信繁の知力を結集した砦だったのです。

信繁を筆頭に5,000人の兵が配置された真田丸の正面には、徳川軍(幕府)の前田利常率いる1万2,000人の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千の軍が布陣。12月4日の夜、前田勢は先鋒の本多重政、山崎長徳らが真田丸前方の「篠山」(ささやま)と呼ばれる丘に攻め上がったものの、真田隊はすでに撤収済み。夜明けとともに真田隊の挑発を受けた前田勢が突撃しましたが、これは敵勢を引き付けた上で攻撃し、一網打尽にするという真田隊の作戦でした。真田隊は、前田勢が城壁に十分に近づいてきたところで、火縄銃で射撃。大きなダメージを与え、前田勢らを撤収に追い込んだのです。

徳川劣勢?

前田勢の攻撃を知った徳川軍(幕府)の井伊直孝率いる4,000人の兵力を誇る井伊勢と、松平忠直率いる1万人の兵力を誇る松平勢も、つられる形で八丁目口・谷間地口を攻撃。対する豊木村重成、後藤基次、長宗我部盛親などを中心とした1万2,000人の豊臣軍は、城壁に殺到する徳川軍(幕府)に応戦します。真田丸における前田勢らに続いて、徳川軍(幕府)は大ダメージを被りました。

惨状を知った家康は、退却を命令。真田丸の戦いからの一連の戦いにおいては、豊臣軍の完全勝利と言っても良い結果でした。もっとも、圧倒的な数的優位にある徳川軍(幕府)の油断があったのも事実。この戦いにおいて、徳川軍(幕府)は守りのための竹束(盾)や鉄盾を持たず攻め込んでいたのです。退却後、家康は各部隊の将を呼び、軽率な行動を叱責。以後の戦いでは、竹束や鉄盾を必ず使用するように厳命したと言われています。

大坂城への一斉砲撃~家康の心理作戦~

大坂城への一斉砲撃

大坂城への一斉砲撃

真田丸の戦いで打撃を受けた徳川軍(幕府)でしたが、攻略のための準備を着々と進めていました。この時点で大坂城を守っていた淀川の流れを尼崎に流す長柄橋の工事が完了。大和川があるため淀川が干上がることはありませんでしたが、川の深さはひざ下まで下がり、自力で渡ることが可能でした。この頃から、南方から大坂城の総構を標的とした、大砲による砲撃も本格化しました。

12月16日から、徳川全軍は大坂城への一斉砲撃を開始。大坂城北方の備前島からは大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からは、これまでの総構から本丸南方の表御殿ご対面所に目標を変更して砲弾が打ち込まれ続けました。豊臣軍は、近づいてくる徳川軍(幕府)に火縄銃で対抗。兵糧だけではなく、弾薬も底を突き始めていました。断続的に行なわれる徳川軍(幕府)の櫓や陣屋などへの砲撃で、豊臣軍の疲労は心身ともにピークに。これは家康の心理作戦だったと言われています。

徳川軍(幕府)による本丸への砲撃では、悲惨な事件も発生していました。淀君の侍女8人に砲弾が命中して8人全員が死亡。当初、淀君は「大坂城は10年でも持ちこたえられる」として籠城戦に自信を見せていますが、あまりに悲惨な光景を目の当たりにしたことで、徳川軍(幕府)との和議に応じることを決めました。徳川軍(幕府)の一斉砲撃開始から2日、籠城戦開始から約1ヵ月のことでした。

和議 ~家康主導?~

徳川軍(幕府)には豊臣軍による買い占めによる兵糧不足、豊臣軍には兵糧と弾薬不足の状況があり、加えて真冬の戦いで両軍が極度に疲弊。「冬の陣」の戦局は、こう着状態でした。1614年(慶長19年)12月18日に始まった交渉は、19日に講和条件合意。20日に誓書が交換されて講和が成立し、冬の陣が終わりました。

豊臣側の主な条件は、①本丸を残して二の丸・三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋める、②淀君を人質としない代わりに大野治長、織田有楽斎により人質を出すことの2点。対する徳川側の主な条件が、①秀頼の身の安全と本領の安堵、②城中諸士について不問とすることの2点でした。この講和条件で合意したことにより、大坂城に籠城していた豊臣軍を悩ませていた、徳川軍(幕府)による砲撃がようやく停止されました。

講和の合意に基づき、講和内容が実行されます。二の丸の破壊と堀の埋め立ては豊臣側、三の丸の破壊と外堀の埋め立ては徳川側が担当。徳川側の動きは迅速でした。松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行として、大坂城を包囲していた軍勢に加え、地元住民を動員した突貫工事で外堀をすべて埋め立てました。さらに諸大名が大坂から帰国する際、門や櫓も徹底的に破壊したことで、大坂城は内堀と本丸のみを残した裸同然の無防備な姿をさらすことになったのです。

大坂夏の陣

冬の陣は講和によって一応の決着をみましたが、豊臣家と徳川家(幕府)の間には、依然として火種がくすぶっていました。家康は駿府へ、秀忠は伏見へ戻りましたが、国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、次なる戦いへの準備を開始。豊臣家も金銀を浪人衆に配布したり、武具の準備をしたり、戦いの準備に着手していました。そうした中、1615年(慶長20年)4月、「夏の陣」が開戦。

開戦

冬の陣で両陣営が合意した講和条件の実行により、大坂城は裸城同然になっており、冬の陣と同様の籠城戦では徳川軍(幕府)に勝つ見込みはゼロ。豊臣軍には籠城ではなく、野戦によって徳川軍(幕府)に決戦を挑む他に選択肢は残されていませんでした。徳川軍(幕府)の15万5,000人に対して、豊臣軍は7万8,000人。数的不利に加えて、大坂城という守りの要も失っていた豊臣軍にとって、徳川軍(幕府)の総大将・家康の首を取ることが勝利への唯一の道でした。

開戦直後は豊臣軍が優勢。「郡山城の戦い」で大野治房隊が大和郡山城を落とし、兵器の供給や修理など徳川軍(幕府)の総合的な軍事業務を行なう基地だった堺を焼き討ちにしました。しかしそのあとは劣勢に。「樫井の戦い」、「道明寺の戦い」、「八尾・若江の戦い」で敗れた豊臣軍は、大坂城近郊に追い詰められていきました。対する徳川軍(幕府)は豊臣軍の本丸である大坂城に向けて進軍。そして最終決戦となる「天王寺口の戦い」、「岡山口の戦い」を迎えることとなったのです。

真田隊壊滅

5月7日未明、最後の決戦に向け大坂城から出陣した豊臣軍は、天王寺口・岡山口で徳川軍(幕府)と対峙していました。天王寺口では茶臼山に真田信繁・幸昌親子らが布陣した真田勢が、天王寺口の徳川軍(幕府)の松平忠直勢と交戦。真田勢の陣を抜き、大坂城へ直進した松平勢と入れ違う形で家康本陣方向へ進出した真田隊は、寝返りの虚報を流布して徳川軍(幕府)の動揺を誘うなどして家康本陣へ接近。信繁によって先鋒・次鋒、本陣など数段階に区分された真田隊は、3回にわたって突撃を繰り返しました。真田隊の攻勢で、家康本陣は大混乱。信玄率いる武田軍に敗退した「三方ヶ原の戦い」以後倒れたことのなかった家康の馬印が倒された上に、家康は騎馬で逃げる事態に陥りました。この時家康は2度、自害を覚悟したと言われています。

当初、豊臣軍が優位に戦局を展開していた最終決戦は、思わぬところから風向きが変わりました。信繁と大野治長は秀頼の出馬は今しかないと相談の上、治長が大坂城に帰り、秀頼への上申を決定。このとき、治長が秀頼の馬印を掲げたまま帰城しようとしたため、豊臣軍の兵は治長が撤退したと勘違いして戦意を喪失してしまいました。これに加えて大坂城に火の手が上がったことで、さらに動揺。徳川軍(幕府)はこれに乗じて攻撃を仕掛け、豊臣軍は総崩れとなり、一気に決着が付きました。

真田隊も決死の突撃で死傷者が増加。数が減ってしまったことで追撃不能となり、家康を追い詰めながら撤退せざるを得ませんでした。信繁は、四天王寺近くの安居神社で傷付き疲弊した身体を休めているところを松平勢の西尾宗次に発見され、討ち取られました。享年49歳。徳川軍(幕府)の松平忠直率いる越前勢の前に真田隊は壊滅、共闘していた毛利勢も四方からの集中攻撃を受けて大坂城内に撤退しました。

落城

冬の陣の講和で本丸と掘り返した堀以外の堀を埋められた大坂城に、難攻不落を誇ったかつての面影はありませんでした。徳川軍(幕府)は、真田隊を壊滅させ一番乗りした松平忠直率いる越前勢を筆頭に、続々と城内に侵入。本丸台所で徳川軍(幕府)の内通者によって放たれた火は瞬く間に天守閣をも包み込み、7日深夜、ついに大坂城は落城したのです。

秀頼は籾蔵の中で母・淀君らと共に自害。秀吉以来の豊臣宗家は滅亡しました。この戦いで、「応仁の乱」以来、150年近くにわたり続いてきた大規模な戦争が続いた時代が終焉。同年7月、江戸幕府は元号を「慶長」から「元和」に改め、「天下平定」を内外に宣言しました(元和偃武)。

勝敗を分けたポイント

冬の陣、夏の陣では豊臣軍が徳川軍(幕府)と互角以上に戦った場面もあり、豊臣軍に勝機がまったくない訳ではありませんでした。しかし、結果として徳川軍(幕府)に凱歌が上がりました。何が両軍の明暗を分けたのでしょうか。

浪人の寄せ集め軍団

最大10万人いた豊臣軍の兵は、大半が関ヶ原の戦い後に行き場をなくしていた浪人でした。対する徳川軍(幕府)の兵は現役の大名。大軍を率いて戦う術に長けていました。豊臣軍にも真田信繁や長宗我部盛親らの武将や元大名が参加していましたが、彼らは圧倒的少数派。単純な数の上では対抗可能に見えても、「優秀な指揮官」がいなければ、数を生かすことはできません。命のやり取りをする戦場は、ただでさえ混乱しています。指揮系統が明確に確立できていなかったために、混乱に拍車がかかってしまったのではないかと思われます。

特に、冬の陣では豊臣軍が徳川軍(幕府)に勝つチャンスは十分にありました。兵力こそ10万人と20万人の徳川軍(幕府)の半分程度でしたが、地の利を生かすことも可能。この戦いである程度徳川軍(幕府)にダメージを与えられていれば、形勢は変わっていたかもしれません。

しかし、豊臣軍は早々に敵軍の大坂侵入を許し、大坂城での籠城作戦に打って出るより他の手立てがありませんでした。統率の取れた徳川軍(幕府)とは対照的に、寄せ集めの浪人集団だったため、集団的な戦術遂行ができなかったのです。堅固な守備を誇る大坂城という切り札を戦いの早々に使わざるを得なかったことで、豊臣軍の戦いはジリ貧になっていきました。

秀頼の資質

冬の陣において、約1ヵ月間の籠城作戦を経て行なわれた豊臣側と徳川側(幕府)の講和交渉。このとき、豊臣軍が徳川軍(幕府)にある程度のダメージを与えられていれば、交渉を有利に進められる可能性もありました。しかし、秀頼は目先の利益の確保(その時点での和平)を急いだだめに、戦いの切り札としてフル活用すべきだった、大坂城における最大の長所である外堀を埋めるという極めて不利に思われる条件を受け入れる結果に。これにより、豊臣軍は夏の陣で玉砕戦法に近い戦い方を余儀なくされ、数と統率力で勝る徳川軍(幕府)の前に屈しました。

もっとも、これは秀頼だけの問題ではありません。秀頼が生まれたのは秀吉が57歳のとき。その秀吉は、秀頼が5歳のときに亡くなってしまったため、秀頼は偉大な父から人の上に立つ者のノウハウを学ぶことはできなかったのです。具体的には、①人身掌握術、②戦いの仕方、③優秀なブレーンの確保。秀吉が天下統一を果たすために培ってきたこの3つのノウハウこそ、秀頼にとって最も重要な物であったと思われます。秀頼の人身掌握術については明らかではありませんが、大坂の陣の時点で秀頼の実戦経験はゼロ、そして母・淀君の強い影響力ゆえ、自由な意思決定ができなかったと言われています。秀頼が父・秀吉からノウハウを承継していれば、違った結果が出ていたのかもしれません。

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