歴史上の実力者

千利休 ~豊臣秀吉の側近~

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侘び茶を確立し、「茶聖」(ちゃせい)とも称される千利休。茶の湯を政治に利用した豊臣政権下では、豊臣秀吉からの厚い信任を得て、政治運営のカギを握るフィクサーとして活躍しました。
しかし、やがて豊臣秀吉と千利休との間に亀裂が生じ、非業の死を遂げることになるのです。

千利休の生い立ち

千利休

千利休

千利休は1522年(大永2年)、和泉国(現在の大阪)堺商人・納屋衆田中与兵衛(なやしゅうたなかよひょうえ)の子として生まれました。

本名は田中与四郎(たなかよしろう)、号は宗易(そうえき)。

17歳で茶の湯を習い始め、18歳で家業を継ぐため、教養のひとつとして当時の第一人者、武野紹鴎(たけのじょうおう)に弟子入りしました。

23歳で初めての茶会を開き、見事成功させています。

千利休の転機

織田信長

織田信長

1568年(永禄11年)、織田信長は将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛したのち、商業の中心地であったに着目し、直轄地にしようと武力侵攻します。

堺は商人の自治を守るため、三好三人衆とともに抵抗しましたが、圧倒的な武力の前に屈服し、織田信長に要求された矢銭(軍資金)2万貫を支払っています。そして堺を鉄砲の供給地とし、重要拠点としました。

堺が織田信長の直轄地となった1569年(永禄12年)、織田信長は堺との繋がりをより強固にするため、政財界の中心人物で茶人でもあった今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうぎゅう)、そして千利休を茶頭(さじゅう・さどう:茶の湯を司る役職)として重用しました。千利休は1573年(天正元年)と1575年(天正3年)の2回、織田信長主催の京の茶会を成功させています。

織田信長は「御茶湯御政道」(おちゃのゆごせいどう:茶の湯の政治利用)を推し進め、臣下にも茶の湯を奨励しました。武功の褒美に高価な茶器を与えたり、許可した家臣にのみ、茶会の開催を許しました。

千利休は、茶湯御政道の有力な協力者として活躍し、その地位は高まっていきました。織田信長の家臣は茶の湯に励み、名物と呼ばれる茶器の収集に奔走、そして茶会開催の許可を得るため、手柄を競います。茶の湯の指南役となる千利休は一目を置かれる存在になりました。茶の湯の指導はもちろん、茶会や茶道具のプロデュース、名物の鑑定など、千利休は茶の湯を通して、織田信長の信頼を勝ち取っていったのです。

1582年(天正10年)、6月2日、本能寺の変が起こります。この日、本能寺では織田信長が自慢の名物茶器を一同に披露する盛大な茶会が催されました。この夜、明智光秀による謀反が起こったのです。

豊臣秀吉の側近となった千利休

豊臣秀吉

豊臣秀吉

千利休は次の天下人となった豊臣秀吉にも乞われて、茶頭を務めます。千利休の茶の湯は政治の道具としての性格を強くしていきました。

豊臣秀吉は千利休を重用し、黄金の茶室を設計させた他、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ:豊臣秀吉が京都北野天満宮境内、北野松原で行なった大茶会)のプロデュースなども任せました。

1586年(天正14年)に豊臣秀吉に謁見するために大坂城に登城した豊後国の大友宗麟(おおともそうりん)は、豊臣秀吉の弟で側近中の側近である豊臣秀長(とよとみひでなが)から、「内々の儀は宗易[千利休]に、公儀の事は宰相[豊臣秀長]存じ候」と伝えられたとか。豊臣政権での千利休の存在の大きさが分かります。

また、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が築城した聚楽第(じゅらくだい)の外郭内には、千利休の邸宅もつくられました。築庭を担当したのも千利休。これにより3,000石の禄も与えられました。

茶の湯から茶道へ

千利休の茶の湯は政財界において多くの知己を得て「道」の域まで高まっていきました。
「茶道」は芸術性を求める「侘び、寂び」に変化していきます。

千利休は茶の湯を「政治の道具」、「権力の象徴」として従来通りに使い続ける豊臣秀吉と徐々に考え方を変えていったのです。

豊臣秀吉を感心させた千利休の逸話

もちろん豊臣秀吉は千利休の芸術家としての審美眼も買っていました。農民から一気に天下人へと駆け上がった豊臣秀吉にとって、芸術・文化面の素養は充分でなかったはず。豊臣秀吉と千利休の関係は、主君と側近であると同時に、弟子と師匠でもあったのです。

一輪の朝顔

豊臣秀吉と千利休の逸話で最も有名なのは朝顔のエピソードです。ある日、豊臣秀吉は千利休の屋敷の庭に美しい朝顔が咲き乱れているという噂を耳にします。

「ぜひ見てみたい」と豊臣秀吉が千利休の屋敷を訪れてみると、庭には一輪の朝顔も咲いていません。がっかりして茶室に入ると、ひときわ立派な朝顔が床の間に一輪。

一輪の朝顔の美しさを際立たせるために、他のすべての朝顔を切り取ったことを知り、豊臣秀吉は千利休の美学に感嘆したと言います。

大きな鉢と紅梅

つづいては豊臣秀吉が千利休に仕掛けたちょっといじわるないたずら。

水を張った大きな鉢に紅梅を一枝だけ生けてみよ、と豊臣秀吉。そのまま鉢に枝を差しこめば、鉢の中でだらしなく倒れてしまうことは必至です。すると千利休は涼しい顔で枝を取ると、花びらとつぼみを鉢の中にしごき入れ水面に浮かべました。その風情はたいそう美しく、「何とかして千利休を困らせたいが、まったく困らんやつじゃ」と豊臣秀吉はご機嫌になったと言います。

豊臣秀吉の怒りを買った千利休の死の真相

ところが豊臣秀吉と千利休の良い関係は長くは続きませんでした。1591年(天正19年)に千利休が豊臣秀吉の逆鱗に触れ、切腹させられてしまったのです。豊臣秀吉を怒らせた原因は様々取り沙汰されています。

大徳寺山門の木像説

もっとも有名なのがこの説です。大徳寺の山門を改修する際、スポンサーとなった千利休。大徳寺の住職は感謝を込めて、千利休を模した雪駄履きの木像を山門に安置しました。

すると豊臣秀吉は、これでは山門を通るたびに、足で踏み付けられているも同じであると激怒。千利休像は山門から降ろされ、京都一条戻橋(いちじょうもどりばし)のたもとで磔にされます。そののち、切腹を申し付けられた千利休の首は、その木像に踏み付けられるようにして一条戻橋にさらされました。

茶道具の売買で暴利を得た説

茶道の茶器

茶道の茶器

本能寺の変で多くの名物茶器が失われたことにより、名物茶器が圧倒的に不足していた。そこで千利休は積極的に鑑定を行ない、新たな名品を生み出していきました。

千利休の目利きは全国に轟き、千利休が良いと言う物は、何でも高値が付いたのだとか。

これを利用して千利休は暴利を貪っていたとされ、それが豊臣秀吉の怒りを買ったのではないかという説があります。

石田三成黒幕説

石田三成

石田三成

1591年(天正19年)1月に豊臣秀長が病死し、豊臣秀吉の家臣達のパワーバランスが崩れ始めます。

豊臣秀吉子飼いの奉行、石田三成にとってみれば、千利休は目の上のたんこぶ。豊臣秀長の死によって、側近としての千利休の存在価値がさらに高まっていくことを危惧し、豊臣秀吉に対して「千利休は危険人物である」と告げ口したのではないかとも考えられます。

千利休の娘との縁談決裂説

無類の女好きと言われる豊臣秀吉は、千利休の弟子に嫁いでいた次女を気に入り、側室として奉公するように命令しました。しかし千利休はこれを拒絶。この縁談話の決裂も、千利休切腹の遠因になっているのかもしれません。

豊臣秀吉と千利休

どの説も決定的な切腹の理由としては弱いように思われます。

「師と弟子」、「主君と家臣」、「権威と道」など、様々な思惑が重なり、2人の関係性を取り返しの付かないものにしてしまったのかも知れません。

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