江戸時代

大坂冬の陣

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1614年(慶長19年)11~12月、大坂で豊臣軍と徳川軍が対峙する合戦が発生しました。「大坂冬の陣」です。開戦後、早々に大坂城での籠城戦を選択し、当初は徳川軍と互角に渡り合っていた豊臣軍でしたが、徳川家康の狡猾な心理作戦に翻弄され、最終的には講和。この講和により、外堀・内堀を埋め立てられた大坂城は「裸城」になってしまうなど、結果的に豊臣宗家滅亡への引き金を引いてしまったのです。

「大坂冬の陣」が起きた背景

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で、石田三成率いる西軍を下した徳川家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍に就任。江戸城を拠点として新たな政権づくりに着手しました。

徳川家康は、関ヶ原の戦い後の処理において、太閤直轄地を東軍への恩賞として分け与え、220万石のほぼ4分の3を削減。豊臣家の所領は、摂津・河内・和泉の約65万石にまで削られてしまったのです。

もっとも、徳川家にとって豊臣家は、なお主君筋に当たり、別格的な存在。これは、徳川家を頂点とした安定政権を目指した徳川家康にとって、都合の悪い事態でした。

豊臣秀頼

豊臣秀頼

そこで徳川家康は、「豊臣秀吉」の子「豊臣秀頼」を服属させることを考え始めました。

1605年(慶長10年)4月、徳川家康は将軍職を「徳川秀忠」に、自らの官位・右大臣を豊臣秀頼に委譲。

このとき、将軍・徳川秀忠の官位は右大臣よりも低い内大臣でしたが、徳川秀忠が2代将軍となったことで、これからは徳川家が天下に君臨することが示されたのです。

1611年(慶長16年)、当時69歳だった徳川家康は、後水尾天皇の即位の儀式に立ち会うため、駿府城から4年ぶりに上洛。孫娘・千姫の婿だった豊臣秀頼(当時17歳)と二条城において会見することを要請しました。

二条城での徳川家康と豊臣秀頼の会見は穏便に終了しましたが、同年に浅野長政加藤清正らが、1613年(慶長18年)に池田輝政らが、さらに1614年(慶長19年)には前田利家らが死去。豊臣秀吉時代からの側近達が次々と死去し、豊臣秀頼の母・淀君ら「反徳川」の強硬派が豊臣家の実権を握ったことで、豊臣家の孤立が深まっていったのです。

関ヶ原の戦い後に行き場を失っていた浪人を集め、兵糧の確保に奔走するなど、徳川家に対する対決姿勢を前面に押し出し始めた豊臣家とは対照的に、徳川家が取っていたのは、融和政策。しかし、それは表面上のことで、水面下では戦いに向けた準備を進めます。

大坂城攻めの兵器として、国友鍛冶に大鉄砲や大筒の制作や石火矢(いしびや)の製造を命じ、その上イギリスやオランダに大砲などを注文し軍備を増強。こうして豊臣家と徳川家の対決は避けられないところまで緊張関係は高まってきていました。

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引き金は8文字の鐘銘?~決戦前夜~

豊臣家と徳川家の対立が決定的となったのが1614年(慶長19年)に豊臣家が再建していた「方広寺」の鐘に刻まれた、わずか8つの文字がきっかけでした。

「国家安康」、「君臣豊楽」。徳川家康の2文字を割り、豊臣を君主とする句を彫った鐘銘について、徳川家康は、執拗に追及。ここで両家間の亀裂が表面化したのです。

豊臣軍の準備

豊臣家は旧恩のある大名や、浪人などに声をかけ、戦いの準備に突入。浪人を含めた豊臣家の兵力は約100,000人で、その中には真田幸村(信繁)、長宗我部盛親、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永らの「五人衆」が含まれていました。

しかし、諸大名で大坂城に馳せ参じる者はありませんでした。豊臣家に協力的だったと言えるのは、豊臣家が兵糧を蔵屋敷から接収するのを黙認した「福島正則」のみ。全国の諸大名は江戸幕府の体制下に組み込まれており、主君はあくまでも徳川家康であったため、豊臣秀頼に従う理由がなかったのです。

兵を集めると同時に、豊臣家は、豊臣秀吉が大坂城内に遺していた莫大な金銀を元手に、大量の兵糧や、武器の買い入れに加えて総構(城や砦の外郭)の修理や櫓の建築なども実施。これに加えて、浪人にも金銀の支給があったとも言われています。

ここから分かるように、豊臣家の準備は金銀を使ってできることが大半。権力の頂点に君臨するのは徳川家康であり、豊臣家にとっては、豊臣秀吉が遺した大量の金銀を使って準備を進める以外に有効な手立てがなかったのが実情だったのかもしれません。

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戦国武将「真田幸村」

真田丸
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徳川軍の準備

徳川秀忠

徳川秀忠

1614年(慶長19年)10月11日、徳川家康は兵を率いて駿府を出発し、23日に二条城に入りました。また、同じく23日には、徳川秀忠が約60,000の軍を率いて江戸を出発しています。

徳川家が動員した兵力は約200,000人。豊臣家の約2倍の大軍が大坂に集結しました。しかし、その中に、関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)の勝利に尽力した福島正則や「黒田長政」らの姿はありませんでした。

徳川家康から江戸城に留め置きとされたのです。福島正則、黒田長政らが関ヶ原で東軍についたのは、不仲だった石田三成を討つため。豊臣家への忠誠心が残っていた場合、戦いの最中に豊臣家に寝返るおそれがあると考えられていました。

徳川家についた諸大名は、江戸から揃って出発したわけではなく、当主が江戸から帰国し、各々の国許から指定された瀬田・大津・京都郊外・大坂付近などの基点に集結。11月15日、二条城を出発し、大坂へと向かった徳川家康は、18日、先着していた徳川秀忠と茶臼山陣城で軍議。いよいよ決戦の火ぶたが斬って落とされるときがきました。

大坂冬の陣の開戦

1614年(慶長19年)11月19日、木津川口の砦での衝突をきっかけに、豊臣軍と徳川軍の戦いが始まりました。そのあと、「鴫野・今福の戦い」、「博労淵の戦い」、「野田・福島の戦い」を経て数ヵ所の砦が陥落し、豊臣軍は開戦からわずか10日あまりで大坂城に撤収。早々に籠城戦を始めました。

真田丸の戦い

真田幸村

真田幸村

豊臣軍の籠城を受け、徳川軍は、約200,000人の軍で大坂城を包囲。しかし、大坂城は、堅固な守備力を誇っていました。

当時、大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を平野川・大和川・淀川、東横堀川などが流れており、自然の川が堀のように取り囲んで城を守っていたのです。豊富な兵力を誇り、歴戦の大名が数多く参戦している徳川軍といえども、大坂城に攻め入ることは容易なことではありませんでした。

しかし、難航不落の大坂城にも唯一、欠点がありました。地続きとなる南方だけは空堀のみで防御が手薄となっていたのです。そこで真田幸村(信繁)は、ここに出城(真田丸)を築くことで弱点を補強。また、真田丸の背後には、幅200mに及ぶ深い谷がありました。真田幸村は、仮に徳川軍によって真田丸が落とされたとしても、その谷によって、大坂城を守ることができると考えていたとも言われています。

小さな出城である真田丸は、真田幸村(信繁)の知力を結集した砦だったのです。真田幸村(信繁)を筆頭に5,000人の兵が配置された真田丸の正面には、徳川軍の前田利常率いる12,000人の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千の軍が布陣。

12月4日夜、前田勢は先鋒の本多重政、山崎長徳らが真田丸前方の「篠山」(ささやま)と呼ばれる丘に攻め上がったものの、真田隊はすでに撤収済み。夜明けとともに真田隊の挑発を受けた前田勢が突撃しましたが、これは敵勢を引き付けた上で攻撃し、一網打尽にするという真田隊の作戦でした。

真田隊は、前田勢が城壁に十分に近づいてきたところで、火縄銃で射撃。大きなダメージを与え、前田勢らを撤収に追い込んだのです。

徳川家康による叱責

前田勢の攻撃を知った、徳川軍の井伊直孝率いる4,000人の兵力を誇る井伊勢と、松平忠直率いる10,000人の兵力を誇る松平勢も、つられる形で八丁目口・谷間地口を攻撃。対する木村重成、後藤基次、長宗我部盛親などを中心とした12,000人の豊臣軍は、城壁に殺到する徳川軍に応戦。真田丸における前田勢らに続いて、徳川軍は大ダメージを被りました。

惨状を知った徳川家康は、退却を命令。「真田丸の戦い」からの一連の戦いにおいては、豊臣軍の完全勝利と言っても良い結果でした。もっとも、圧倒的な数的優位にある徳川軍の油断があったのも事実。この戦いにおいて、徳川軍は守りのための竹束(盾)や鉄盾を持たず攻め込んでいたのです。

退却後、徳川家康は各部隊の将を呼び、軽率な行動を叱責。以後の戦いにおいては、竹束や鉄盾を必ず使用するように厳命したと言われています。

大坂城への一斉砲撃~徳川家康の心理作戦~

真田丸の戦いで打撃を受けた徳川軍でしたが、攻略のための準備を着々と進めていました。この時点で大坂城を守っていた淀川の流れを尼崎に流す長柄橋の工事が完了。

大和川があるため、淀川が干上がることはありませんでしたが、川の深さはひざ下まで下がり、自力で渡ることが可能でした。この頃から、南方から大坂城の総構を標的とした、大砲による砲撃も本格化しました。

12月16日から徳川全軍は、大坂城への一斉砲撃を開始。大坂城北方の備前島からは大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からは、これまでの総構から本丸南方の表御殿ご対面所に目標を変更して砲弾が打ち込まれ続けました。

豊臣軍は、近づいてくる徳川軍に火縄銃で対抗。兵糧だけではなく、弾薬も底をつき始めていました。断続的に行なわれる徳川軍の櫓や陣屋などへの砲撃で、豊臣軍の疲労は心身ともにピークに。これは徳川家康の心理作戦だったとも言われています。

徳川軍による本丸への砲撃では、悲惨な事件も発生していました。淀君の侍女8人に砲弾が命中して8人全員が死亡。当初、淀君は「大坂城は10年でも持ちこたえられる」として籠城戦に自信を見せていたと言われますが、あまりに悲惨な光景を目の当たりにしたことで、徳川軍との和議に応じることを決めました。

これは、徳川軍の一斉砲撃開始から2日、籠城戦開始から約1ヵ月でのことでした。

和議 ~徳川家康主導?~

徳川家康

徳川家康

徳川軍には豊臣軍による買い占めによる兵糧不足、豊臣軍には兵糧と弾薬不足の状況があり、加えて真冬の戦いで両軍が極度に疲弊。「冬の陣」の戦局は、こう着状態でした。

1614年(慶長19年)12月18日に始まった交渉は、19日に講和条件合意。20日に誓書が交換されて講和が成立し、冬の陣が終わりました。

豊臣側の主な条件は本丸を残して、二の丸・三の丸を破壊し、①惣構の南堀、西堀、東堀を埋める、②淀君を人質としない代わりに大野治長、織田有楽斎によって人質を出すことの2点。対する徳川側の主な条件が①豊臣秀頼の身の安全と本領の安堵、②城中諸士についての不問とすることの2点でした。この講和条件で合意したことにより、大坂城に籠城していた豊臣軍を悩ませていた徳川軍による砲撃がようやく停止されました。

裸城となった大坂城

裸城となった大坂城

講和の合意に基づき、講和内容が実行されます。二の丸の破壊と堀の埋め立ては豊臣側、三の丸の破壊と外堀の埋め立ては徳川側が担当。

徳川側の動きは迅速でした。松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行として、大坂城を包囲していた軍勢に加え、地元住民を動員した突貫工事で、外堀をすべて埋め立てました。

さらに諸大名が大坂から帰国する際、門や櫓も徹底的に破壊したことで、大坂城は、内堀と本丸のみを残した裸同然の無防備な姿をさらすことになったのです。

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