「石見小笠原家」(いわみおがさわらけ)は、鎌倉時代中期から島根県の石見を拠点として「石見銀山」(いわみぎんざん)という魅惑の山を攻防してきた豪勇な一族です。主を何度も変えながら、猛者揃いの乱世を生き抜きました。今回紹介するのは、石見小笠原家に伝わったという刀剣。石見小笠原家にどんな歴史、特徴があるのかをご紹介します。
石見小笠原家の家紋「三階菱」
「石見小笠原家」(いわみおがさわらけ)は、鎌倉時代前期「小笠原長清」(おがさわらながきよ)が「源頼朝」のもとで武功を挙げたことをきっかけに活躍した名家です。
小笠原長清は、甲斐源氏の「源清光」(みなもとのきよみつ)の子「加賀美遠光」(かがみとおみつ)の次男。
甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)中巨摩郡小笠原村(なかこまぐんおがさわらむら)に住み、はじめて「小笠原」の姓を名乗ったと言われています。
小笠原長清は「源義仲」(木曽義仲)を討伐し、奥州藤原氏を征討。そして、「承久の乱」で武功を挙げたことで、紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県)、阿波国(あわのくに:現在の徳島県)、河内国(かわちのくに:大阪府東部)の3国の守護を任されました。
その小笠原長清の後裔で最も活躍したのが、石見小笠原家初代当主「小笠原長親」(おがさわらながちか)です。小笠原長親は、1281年(弘安4年)「弘安の役」(こうあんのえき)で武功を挙げ、石見国(いわみのくに:現在の島根県西部)の邑智郡村之郷(おおちぐんむらのごう)に領地を得て「山南城」(やまなじょう)を築き、石見小笠原を名乗るようになりました。
石見小笠原家を一言で言うと、激動の一族。3代当主「小笠原長胤」(おがさわらながたね)の時代は、乱世に次ぐ乱世で「南北朝の内乱」へと巻き込まれたのです。その結果、「邇摩郡三久須の戦い」(にまぐんみくすのたたかい)において成果を残し、「温湯城」(ぬくゆじょう)、「赤城山城」(せきじょうさんじょう)の両城を賜ることに。これにより石見小笠原家は、温湯城を居城としました。
石見銀山の町並み
「石見銀山」(いわみぎんざん:別名・大森銀山、佐摩銀山)とは、2007年(平成19年)に「世界遺産」にも登録された、現在の島根県大田市にある銀山です。
1309年(延慶2年)に周防国(すおうのくに:現在の山口県東部)の武将「大内弘幸」(おおうちひろゆき)が発見して以降、江戸時代末期まで、莫大な富を生んだと伝えられています。
この石見銀山をめぐり、石見小笠原家、大内氏、尼子氏、毛利氏の間で、壮絶な領主争いが繰り広げられたのです。
石見小笠原家12代目当主「小笠原長隆」(おがさわらながたか)は、佐波庄領主「佐波秀連」(さわおきつら)の次女を妻としたことで、佐波氏から、石見銀山のある「佐摩」を譲られて領有した人物です。
しかし、1521年(永正18年/大永元年)に「出雲国」(いずものくに:現在の島根県東部)の守護代「尼子経久」(あまごつねひさ)が石見に侵攻し、石見銀山と石見小笠原家は尼子氏に支配されてしまいます。
そののち、1526年(大永6年)石見銀山の価値を知った周防国の守護「大内義興」(おおうちよしおき)が石見へ侵攻。その際に、小笠原長隆は大内氏に寝返り、1528年(大永8年/享禄元年)大内義興の命を受け、小笠原長隆は尼子経久から石見銀山を奪還しますが、その最中に大内義興は病で死去してしまいます。
そして再び、1537年(天文6年)に「尼子晴久」(あまごはるひさ)が石見銀山を奪取。それをまた、1539年(天文8年)に小笠原長隆が、尼子氏の銀山奉行を追放して取り返します。
石見銀山は掘れば富が生まれる魅力のある土地。石見小笠原家は、石見銀山を手中に収めることで、より勢力を拡大しました。
毛利元就
ところがそののち、安芸国(あきのくに:現在の広島県)領主「毛利元就」(もうりもとなり)が石見に侵攻。あまりの脅威に、小笠原長隆は尼子晴久と手を結びます。
1555年(天文24年/弘治元年)、一度は毛利氏から銀山を奪還したものの、1559年(永禄2年)には、毛利元就の次男「吉川元春」(きっかわもとはる)が、石見小笠原家15代目当主「小笠原長雄」(おがさらわながかつ)の拠点とする温湯城に攻め込みます。
尼子晴久は小笠原長雄を救援しましたが、堅牢な毛利軍の包囲網を崩すことができず、ついに力尽きることになりました。小笠原長雄は「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)に頼んで降伏。石見銀山は、1562年(永禄5年)に毛利元就が支配することになり、石見小笠原家は毛利家家臣となったのです。
そののち、1584年(天正12年)毛利元就の嫡孫「毛利輝元」(もうりてるもと)が「豊臣秀吉」に服属することになると、石見銀山は豊臣秀吉が管理するところとなり、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」以降は「徳川家康」の所有となりました。
石見銀山の最盛期は、戦国時代後期から江戸時代初期で、銀の産出量は世界の銀の3分の1と言われたほど、江戸幕府にとって潤沢な財源となりました。しかし、江戸時代末期には銀を採掘できなくなり、現在は閉山しています。
なお、石見小笠原家は雨を降らすことができる神技を持つ一族としても有名です。石見小笠原家12代当主・小笠原長隆は、「後柏原天皇」(ごかしわばらてんのう)の前で雨乞いの能を舞い、見事雨を降らせ、「雩の神面」(あまひきのしんめん)という能面を拝領。現在は島根県の「武明八幡宮」の社宝となっています。
石見小笠原家に伝わる名刀として「太刀 銘 宗恒」があります。「宗恒」(むねつね)とは、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)の古備前派「正恒」(まさつね)系に属した刀工です。
古備前派は、平安時代中期に起こった一派で、正恒は古備前派を代表する刀工でした。正恒が作刀した太刀は「古刀最上作」と高く評価され、その直系である宗恒の作もまた古くより貴重とされてきました。
宗恒は鎌倉時代中期、1222年(貞応元年)から1229年(安貞3年)頃に活躍。「宗弘」(むねひろ)の子と伝えられています。宗恒の在銘作は特別重要刀剣に1振、重要刀剣に2振が指定。どれも風格があり、歴史的に見ても非常に貴重です。
太刀 銘 宗恒は、石見小笠原家16代当主・小笠原長親(※初代と同名)の頃には、小笠原家所蔵であったと伝わる1振。小笠原長親は毛利家の家臣として「毛利秀就」(もうりひでなり)、「毛利綱広」(もうりつなひろ)親子に仕えた実直な人物です。
以後近世まで、本太刀は小笠原家重代の太刀として大切にされました。