13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

木曽義仲
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「木曽義仲」(きそよしなか)は、平安時代末期の武将で、平氏から源氏の時代へと変わる転換期に平氏と戦った人物です。そして「源義経」(みなもとのよしつね)と鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)とは親戚関係にあります。木曽義仲は、源義経と源頼朝らよりも先に、平氏を追い詰め、上洛を果たすなど、源平合戦「治承・寿永の戦い」で華々しく活躍。ここでは木曽義仲の歴史を追い、そのゆかりの地について紐解いていきます。

木曽義仲(きそよしなか)の生い立ち

木曽義仲

木曽義仲

木曽義仲は、幼少期に父を亡くし、生まれ故郷である武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、神奈川県の一部)から信濃国(現在の長野県)に移り住むことになります。

育ての父となる「中原兼遠」(なかはらかねとお)から勉学を学び、その地に住む子供達と遊び絆を深めました。そして信濃の雄大な大地に育まれながら、優しく義に厚い青年へと成長していきます。

源氏同士の争いで父を亡くす

「木曽義仲」は、源頼朝や源義経の従兄弟にあたる人物で、1154年(久寿元年)に関東の武蔵国秩父(現在の埼玉県秩父市)で誕生しました。幼名を「駒王丸」(こまおうまる)。

父は「源義賢」(みなもとのよしかた)と言い、源頼朝の父「源義朝」(みなもとのよしとも)の弟にあたります。源義賢が、関東へ下向する以前は京都で東宮(とうぐう:皇太子)を警護する長に就いており、その役職名から「帯刀先生」(たちはきのせんじょう)と呼ばれていました。

そのあと、部下の不始末により職を辞すことになった源義賢は、武蔵国へ行くことになったのです。と言うのも、それは木曽義仲の祖父で源氏の棟梁「源為義」(みなもとのためよし)の考えによるものでもありました。

京都は平氏が力を付けてきているところで、新たな勢力圏として関東の豪族との結びつきを画策。そこで源義賢は、武蔵国秩父の秩父氏に婿入りし、その娘との間に生まれたのが木曽義仲だったのです。しかし父・源義賢は、1153年(仁平3年)に同じく関東で勢力を広げつつあった兄・源義朝に現在の埼玉県比企郡にあった館・大蔵館で命を奪われてしまいました。

この事件を「大蔵合戦」と言い、これは武蔵国で大きな力を持っていた秩父氏に源義賢が婿入りをし、源義賢の力が増してしまうことに源義朝が恐れを抱いたからだと伝わります。このとき、まだ幼少だった木曽義仲は、母と共に信濃国へと逃れました。

青春期を過ごした信濃国で得た仲間

信濃国では、木曽義仲の母と知り合いだった豪族で、信濃国府の権守(ごんのかみ:国府の長官)を務める中原兼遠によって庇護されることになります。

木曽義仲の名前は、このとき源姓ではなく「木曽次郎」と名乗ったことから始まったとされているのです。そして中原兼遠の息子で、のちに木曽義仲の家臣となる「今井兼平」(いまいかねひら)と「樋口兼光」(ひぐちかねみつ)とは兄弟同然のような関係で育ちました。

そして「根井行親」(ねのいゆきちか)、「楯親忠」(たてちかただ)と呼ばれる家臣とも信濃国で出会います。この4人は「木曽義仲四天王」と呼ばれるまでに成長し、木曽義仲とは固い絆で結ばれ、最期まで忠誠を尽くしました。のちに女武将とも呼ばれ木曽義仲の妾「巴御前」(ともえごぜん)も、中原兼遠の娘だったと伝わる人物です。

ただ木曽義仲四天王は、公家「九条兼実」(くじょうかねざね)が当時のことを書いた日記「玉葉」や、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」にも登場しますが、巴御前はそのどちらにも登場しません。鎌倉時に書かれた軍記物語「平家物語」にしか出てこないのです。

平家物語は歴史的資料というよりも、創作物語としての位置付けにあるため、巴御前が実在したかどうかは判断が難しいと言われています。木曽義仲が、少年から青年へと成長する最中にも政局は大きく変動。1156年(保元元年)の「保元の乱」の内乱で祖父・源為義と伯父・源義朝が対立した結果、祖父・源為義が負け、命を落とします。

そして1159年(平治元年)の「平治の乱」では、平氏と対立した源義朝が負け、命を落としました。このとき、源頼朝は伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)へ配流、その弟・源義経は乳飲み子だったため長じたのち、出家することを義務付けられます。

平氏を倒すべく立ち上がった以仁王と源氏

1180年(治承4年)に「以仁王」(もちひとおう)が、「平氏打倒」を呼びかける令旨(りょうじ:皇族が用いる命令書)を発しました。

平氏打倒の狼煙、以仁王の令旨

以仁王

以仁王

以仁王とは「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の第3皇子です。父・後白河法皇の幽閉や、自身の領地没収など、平氏の棟梁「平清盛」(たいらのきよもり)の横暴に耐えかね「源頼政」(みなもとのよりまさ)と挙兵を決意。

これに対し、木曽義仲の叔父「源行家」(みなもとのゆきいえ)が全国の源氏のもとを訪ね挙兵を促します。伊豆国に配流となった源頼朝、そして木曽義仲のもとにも源行家は訪れました。

1180年(治承4年)の5月に、以仁王は源頼政と京都へ向かいましたが、あえなく平氏に討ち取られてしまいます。同時期に伊豆国で挙兵した源頼朝も命を落とすことはありませんでしたが、「石橋山の戦い」で平氏の軍勢に敗北してしまいました。

快進撃を続ける源氏の軍勢

実は挙兵するかどうかを迷っていた木曽義仲でしたが、1180年(治承4年)の9月に平氏と手を組んだ笠原氏が、長野県善光寺平を領地としていた栗田氏と村山氏に襲いかかります。援軍を求められた木曽義仲は、ついに決心して戦に赴きました。

この笠原氏を破った戦を「市原合戦」と言います。この戦がきっかけとなり、木曽義仲は信濃国全域の武士団を配下におさめ勢力を固めました。さらに父・源義賢に仕えていた家臣達もその活躍ぶりを聞き木曽義仲のもとに駆け付け、軍の勢いは増大。

1180年(治承4年)の10月には、敗北から体制を立て直した源頼朝が「富士川の戦い」で、京都から派兵された平氏の軍勢に勝利しました。さらに翌年の1181年(治承5年)に、木曽義仲の勢力拡大に危機感を募らせた平氏は、越後国(現在の新潟県)から越後平氏・城氏を派兵し、そして木曽義仲に1度負けた笠原氏も信濃国に攻め入ります。

6月に横田河原(現在の長野県長野市)で激突。平氏側は60,000、対する木曽義仲はその半分以下の軍勢でしたが、見事に「横田河原合戦」でも勝利をおさめます。木曽義仲は、越後国(現在の新潟県)から北陸道へ進み、現在の富山県朝日町に逃れていた以仁王の遺児「北陸宮」を保護。木曽義仲は、志半ばで討たれた以仁王の遺志を叶えるため、北陸宮を次期天皇に就けようと考えました。

叔父を救うため息子を人質として差し出す

木曽義仲のもとには、源頼朝と仲違いした叔父「志田義広」(しだよしひろ:[源義広]とも)と、源行家が身を寄せていました。源頼朝は、叔父2人が木曽義仲を頼ったことを快く思っておらず、加えて勢力を拡大しつつある木曽義仲のことを危険視していたのです。

そんな折に、源頼朝か木曽義仲かどちらの側に付くか迷っていた甲斐源氏の武田氏が、息子を婿入りさせるよう木曽義仲に要求してきました。これを断った木曽義仲に腹を立てた武田氏は、源頼朝に付くことを決め、あろうことか「木曽義仲は平氏に通じて息子を婿入りさせようとしている」と讒言。

源頼朝はこの嘘を信じたわけではありませんが、木曽義仲に対して攻め入る口実ができたとばかりに、1183年(寿永2年)3月、信濃国に軍勢を差し向けました。木曽義仲は、本来は平氏を倒すべきで、同じ源氏同士で争う理由はないと考えていたため、軍勢をまとめて領地としていた越後国へと下がります。

この行動に驚いた源頼朝は「戦う意志がないと言うならば、敵対した叔父2人を引き渡すか、もしくは嫡男を人質に差し出すかして証明してほしい」と使者を出しました。叔父2人を引き渡すと考えていた源頼朝は、木曽義仲の行動にさらに驚かされることに。

このとき木曽義仲が差し出したのは、嫡男「木曽義高」(きそよしたか:本名[源義高])だったのです。そのあと、源頼朝の本拠地である鎌倉に木曽義高を送ることで互いの武力衝突を回避し和議を成立。そのあと、木曽義高は源頼朝の娘「大姫」(おおひめ)の婿となります。

重要な跡継ぎである木曽義高を人質としたのには、理由がありました。叔父の志田義広と源行家を引き渡してしまえば、源頼朝の怒りを買っていた2人は命を奪われてしまうことは明白です。しかし、嫡男・木曽義高ならば源頼朝も丁重に扱うだろうと考えての行動でした。

木曽義仲は、人が無駄に命を落とすことを良しとせず、一度懐に入れれば最後まで守り通す情の深さを持っていた証とも言えます。

知略で勝利を手に入れた「倶利伽羅峠の戦い」

信濃国から北陸全土を支配していた木曽義仲を討つべく、1183年(寿永2年)4月に京都から「平維盛」(たいらのこれもり:平清盛の孫)が100,000の大軍を連れて出陣。

平維盛は、加賀国(現在の石川県)で、反平氏勢力が立て籠もる「火打城」(ひうちじょう)の落城に成功します。これが「火打城の戦い」です。平氏側の勝利によって、木曽義仲は越中国(現在の富山県)まで一旦後退しました。

木曽義仲は、別働隊として向かって来ている平氏側5,000人の動きを知ると、家臣の今井兼平に6,000の兵を任せ、平氏が野営している般若野(はんにゃの:現在の富山県砺波市)に奇襲をかけます。そしてこの「般若野の戦い」に勝利します。

そして敗走する平氏を、砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県と石川県の境)へと追い込みました。進退窮まった平氏の軍は、部隊を一旦、能登国志雄山(現在の宝達山から北方の山々)に後退させ、「平通盛」(たいらのみちもり)、「平知度」(たいらのとものり)率いる30,000の兵を配置。砺波山の倶利伽羅峠には、平維盛、「平行盛」(たいらのゆきもり)、「平忠度」(たいらのただのり)らの率いる70,000の兵に分かれて陣を敷きました。

5月11日になって、木曽義仲は叔父・源行家、家臣・楯親忠の兵を志雄山へ、木曽義仲率いる本隊は砺波山へ向かいます。昼は戦を起こさず過ごして平氏軍の油断を誘うと、その間に家臣・樋口兼光の一隊をひそかに平氏軍の背後に回りこませました。

そして、平氏軍が寝静まった夜半、一気に攻め込みます。しかし攻め込んだのは人ではなく、角に松明をくくり付けた牛の大軍。一説によるとその数は400~500頭とも言われています。

暴れ狂う牛達の突然の襲来に、平氏軍は大混乱に陥り、逃げ惑うことしかできません。70,000の平氏軍は我先に逃げ出そうとしますが、その混乱に乗じて木曽義仲本隊は果敢に攻めかかりました。追手をかわそうと逃げる平氏の行く先にあったのは、倶利伽羅峠の断崖が待ち受けていたのです。

退路を断たれた平氏の武将や兵達は次々に崖下へと転落し、峠の下には死者の山が積み重なったと伝わります。そうした歴史的背景から、この崖には「地獄谷」という名称が付けられました。牛の角に松明をくくり付ける奇襲戦法「火牛の計」に関する逸話は、江戸時代に書かれた軍記物語「源平盛衰記」に登場する有名な一場面ではあるのですが、後世に書かれたこともあり事実かどうかは疑問視されているのです。

また、戦術的に牛の頭に松明を取り付けることが困難であることなどが取り沙汰されます。いずれにしても「倶利伽羅峠の戦い」によって平氏側に大損害を与えたことは間違いありません。

木曽義仲、ついに念願だった上洛を果たす

倶利伽羅峠の戦いで平氏を破った木曽義仲は、北陸道周りから京都へ進軍。京都の最後の砦である「延暦寺」(滋賀県大津市)を交渉で突破し、1183年(寿永2年)の7月末に入京を果たします。

木曽義仲と後白河法皇の対立

このときすでに京都で覇権を握っていた平清盛は亡くなり、その三男「平宗盛」(たいらのむねもり)が平氏の棟梁となっていました。迫ってくる木曽義仲の軍勢から逃れるため、平宗盛は、「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)とその孫「安徳天皇」(あんとくてんのう)を連れて西国へ逃げることを計画。

これが有名な「平氏の都落ち」です。このとき後白河法皇は、平宗盛と別行動を取り京都から落ち延び、のちに木曽義仲に保護されています。後白河法皇は、安徳天皇を連れ去り、皇室にとって重要な宝具「三種の神器」まで持ち去った平氏を逆賊として、木曽義仲に平氏追討を命令。

そして新たな天皇を決めることを急務としました。しかしこの皇位継承問題が、木曽義仲と後白河法皇の関係を最悪な形に変えてしまった問題のひとつです。

木曽義仲は、次期天皇には以仁王の遺児である北陸宮がふさわしいと考えていました。源氏が挙兵できたのは以仁王の令旨があったからで、京都を平氏から救った最大の功労者である以仁王の子が次の天皇になるのが当然だと主張。

対する後白河法皇は、孫・安徳天皇の弟となる第4皇子を即位させるつもりでいました。以仁王からの道理を通すべきだと考えていた木曽義仲でしたが、後白河法皇も周りの公家達も理解を示しません。むしろ、木曽義仲が後見人となる皇子を帝位に就ければ、平氏の次は木曽義仲の専横が始まると危惧していました。

実際に平清盛が「高倉天皇」に娘を入内(じゅだい:天皇の后となること)させ、その間に生まれたのが安徳天皇でした。これをきっかけに平清盛は、外戚として政治を思うままに操るようになったのです。

不信感を募らせた木曽義仲、後白河法皇の御所を襲撃

木曽義仲の希望は届かず、1183年(寿永2年)8月20日に第4皇子が「後鳥羽天皇」(のちの[後鳥羽上皇])として即位。そして、後白河法皇は京都まで一緒に戦ってきた源行家など木曽義仲の仲間達を次々と取り込み、木曽義仲を孤立させます。

さらに西国へ平氏追討に向かっている最中に、源頼朝の軍門である源義経らの上洛を許可してしまいました。後白河法皇としては、あまり友好的な関係になれなかった木曽義仲を切り捨てて、意見を聞いてくれる可能性のある源頼朝らを仲間に迎えようとしたのです。

しかし、功績のある自身よりも源頼朝を重宝しようとすることを木曽義仲は許すことはできませんでした。度重なる後白河法皇からの扱いに不信感を募らせた木曽義仲は、西国から引き返し、後白河法皇を討つためその御所である「法住寺殿」(京都市東山区:天台宗の寺院)を襲撃。これが1183年(寿永2年)11月19日に起きた「法住寺合戦」です。

木曽義仲が法住寺殿に到着する頃には、周辺は堀や柵がめぐらされ、武装化した僧兵や諸将に守られていました。すでに後白河法皇は木曽義仲の動きを読んでいたのです。このとき、後白河法皇に歯向かい朝敵(天皇・朝廷に敵対する勢力)になることを恐れ、今まで従っていた兵のなかには木曽義仲の軍を離れて行く者もいたと言います。

そのため兵の数は後白河法皇の方が勝っていましたが、木曽義仲のもとには信濃国にいた頃から従ってきた信頼の置ける家臣、今井兼平や樋口兼光らがいました。

奮戦する木曽義仲軍は、後白河法皇側の主力部隊であった美濃源氏の「土岐光長」(ときみつなが)と「土岐光経」(ときみつつね)父子を撃破。戦況が悪いとみた後白河法皇は、襲撃の最中、御所を脱出しようとしたところ木曽義仲軍によって捕縛され、摂政「近衛基通」(このえもとみち)の五条東洞院邸に幽閉されます。そして、後白河法皇に味方した僧兵や諸将らも戦死し、法住寺殿は燃やされました。

木曽義仲、源氏で初の征夷大将軍に就任

後白河法皇の敗北で終わった法住寺合戦により、木曽義仲と後白河法皇の関係はより修復不可能なものとなってしまいます。

木曽義仲は、さすがに後白河法皇の命を取ることはありませんでしたが、1183年(寿永2年)11月21日に、後白河法皇の寵臣であり摂政の近衛基通を失脚させました。代わりに「松殿師家」(まつどのもろいえ)を摂政に就任。

木曽義仲は、松殿師家の娘を正室に迎えるなど親交がありました。その他、後白河法皇の側近を朝廷の官職から解任します。さらに同年、12月1日に木曽義仲は院御厩別当(いんのみやまのべっとう:宮廷儀礼、神事に用いる馬の管理をする部署の長官)に就任。

そして翌年の1184年(寿永3年)1月11日に木曽義仲は、源氏で初となる征夷大将軍に就任しました。源氏初の征夷大将軍は源頼朝だとよく言われますが、実は最初の人物は木曽義仲だったのです。と言っても木曽義仲の場合は、就任から約1年後に命を落としているので、ほとんど名前だけの役職だったと言えます。

平家物語「木曽最期」で語られる木曽義仲の終焉

源頼朝は、幽閉された後白河法皇を救うため、軍勢を京都へ向かわせていました。1184年(元暦元年)に、源義経と「源範頼」(みなもとののりより)が京都の宇治、瀬田に布陣し、両側から京都へ攻め込まれ「宇治川の戦い」が開戦します。

平家物語によればその数は60,000騎、対する木曽義仲軍は200騎ほど。ほぼ勝ち目はなく、味方の軍勢が減っていく状況や討たれた人々の名前が、平家物語には書き残されています。少ない手勢で京都を脱した木曽義仲軍は、琵琶湖のほとりに辿り着く頃にはたったの7騎となっていました。

7騎のなかには兄弟同然に育った腹心の今井兼平、女性ながら武将として共に戦った愛妾・巴御前がいました。逃がすなら今しかないと判断した木曽義仲は、巴御前に向かって「木曽殿は最期まで女を連れていたなどと知られるのは良い気がしない。ここから去って、私の菩提を弔って欲しい」と告げたとあります。

長い間付きしたがった巴御前へのあまりの言いようにも思えますが、「生きて帰って欲しい」という木曽義仲の願いが見える場面でもあるのです。巴御前は「これが今生の別れとなるのでしたら、巴の最後の戦いをお見せしましょう」と言い、向かってくる武者らに突進し相手の首をねじ切るという、豪快な技を繰り出します。

そしてそのまま振り向くことなく戦場をあとにしました。当時の戦場を物語る凄惨な場面ですが、巴御前の屈強さと、未来に進もうとする強さが上手く表現されています。巴御前と別れ粟津(現在の滋賀県大津市)に辿り着いた頃、軍勢は5騎にまで減っていました。木曽義仲と、家臣の今井兼平、「手塚別当」、「手塚太郎」、「多胡家兼」の5人です。

皆、戦ううちに討ち取られ、最後は木曽義仲と今井兼平の2人となってしまいます。ついに木曽義仲も敵の矢に射られ命を落としてしまうと、それを見届けた今井兼平もあとを追うように自害を遂げました。こうして木曽義仲軍は粟津ヶ原の「粟津の戦い」で滅亡し、源頼朝が勝利したと平家物語には記されているのです。木曽義仲は、31歳の短い生涯でしたが、短くとも壮絶な生涯を全うしました。

木曽義仲の人物像

木曽義仲と言うと、「粗野な田舎人」、「戦好き」、「女性好き」と言った三拍子の人物像を思い描く人が多いかもしれません。実際、平家物語にも好戦的で怒りっぽい性格だと解釈され、そのように書かれているのです。

実のところ木曽義仲は、戦うことがあまり好きではなかったと言われています。自ら進んで戦を起こしたことは少なく、木曽義仲が参戦した戦である「市原合戦」、「横田河原合戦」、「倶利伽羅峠の戦い」、「法住寺合戦」、「宇治川の戦い」がありますが、どれも敵方から仕掛けてきた戦ばかりです。また誰かが悲しい思いをするなら「自分が犠牲になる」、と言った自己犠牲の精神も持ち合わせていました。

それが最もよく現れているのが、叔父2人の代わりに嫡男である木曽義高を源頼朝に人質として差し出した場面。叔父2人を源頼朝に引き渡してしまえば命を奪われるのは分かっていたためで、人質として生かされるであろうことを計算した上で木曽義高を差し出したのです。

のちに木曽義仲は、叔父2人の妻達から夫の命を救ったことを感謝されました。またそのために木曽義仲が我が子と別れたことにも、その妻達は思いを寄せたと逸話に残されています。誠実で義に厚い木曽義仲だったからこそ、家臣達は絶望的な状況でも裏切ることなく、最期まで戦い抜くことを選んだのかもしれません。

木曽義仲ゆかりの地

平氏打倒を掲げて挙兵し、征夷大将軍にまで登りつめた木曽義仲には、数々の伝説を残した土地があります。ここでは木曽義仲ゆかりの地についてご紹介します。

義仲館

「義仲館」(長野県木曽郡)は、木曽町で育った木曽義仲と巴御前の歴史を現在に伝える資料館となっています。1992年(平成4年)に開館し、2021年(令和3年)7月に心機一転、リニューアルオープンしました。

館内は、初めて木曽義仲や巴御前に触れる人にも分かりやすいよう、絵画、映像、パネルなどの体験型芸術作品を展示。その他、文献の紹介や、木曽町にある木曽義仲が過ごした地への案内など、木曽義仲を深く知ることのできる資料館となっています。

興禅寺

興禅寺」(長野県木曽郡)は1434年(永享6年)に、木曽義仲の末裔と称した木曽家12代「木曽信道」が木曽義仲を供養するため、旧寺を改築した寺院です。境内には、巴御前が木曽義仲から託された遺髪を埋めたとする「木曽義仲公の墓」があります。

さらに、叔父・源行家が以仁王の令旨を持って木曽へ訪れた際に通った門「勅使門」が残されているのです。その他、観音堂の脇にある枝垂れ桜は、木曽義仲が自らの手で植えたと伝わります。しかし1927年(昭和2年)に起きた火事で焼失。現在の桜は、地中で芽吹いていた芽から成長した2代目だとされています。

義仲寺

義仲寺

義仲寺

義仲寺」(ぎちゅうじ:滋賀県大津市)は、木曽義仲の墓所があり、また最期の地である粟津ヶ原に建立された寺です。寺の詳しい創建については不明なことが多いのですが、巴御前が付近に庵を建てて供養したことが始まりだと伝わります。

その他、義仲寺には巴御前の物と伝わる墓があり、木造の木曽義仲像などが安置されているのです。そして境内には、江戸時代の俳人「松尾芭蕉」(まつおばしょう)の墓もあります。

松尾芭蕉は木曽義仲のことをとても尊敬していたことから、度々、義仲寺を訪れ、死後は義仲寺に墓を作って欲しいとまで言っていたのです。その遺言により松尾芭蕉の没後は、木曽義仲の墓の隣に葬られました。

木曽義仲

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平清盛

平清盛
「平清盛」(たいらのきよもり)は、平安時代末期の貴族社会の中、伊勢平氏の家系に生まれます。当時、武士の身分は政治を司る貴族よりもずっと低く、何をするにも不利なことばかりでした。それでも平清盛は身を立てようと懸命に働き「保元の乱」や「平治の乱」では勝利を収め、武士としては初めての太政大臣に昇格するなど、目覚ましい活躍を見せます。そして興味を持っていた宋との貿易「日宋貿易」で日本国内の経済基盤を整えました。ここでは、平清盛の生涯とかかわってきた出来事についてご紹介します。

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「平宗盛」(たいらのむねもり)は、「平清盛」(たいらのきよもり)の三男として誕生した人物です。父・平清盛の「保元の乱」や「平治の乱」での活躍に伴い、平宗盛や平氏一門で昇進し栄耀栄華を極めるようになります。父の死後は平宗盛が棟梁となりますが、源氏に追われ都落ちをし、戦にも負け続けるなど険しい道のりでした。平氏を滅亡の最後まで背負った平宗盛とはどんな人物だったのでしょうか。ここでは平宗盛の生涯やその評価、墓の場所などについてご紹介します。

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源範頼

源範頼
「鎌倉幕府」初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)が、日本中を巻き込んで、異母弟「源義経」(みなもとのよしつね)と壮大な「兄弟げんか」を繰り広げていたことはよく知られています。しかし、実はもうひとりの異母弟「源範頼」(みなもとののりより)もまた、源頼朝に謀反の疑いをかけられ、悲劇的な最期を迎えていたのです。「源氏」一門として鎌倉幕府における重要な地位を占めていた源範頼が、母親が異なるとは言え、血を分けた兄弟である源頼朝によって命を奪われるまでに至った背景について、その生涯を紐解きながらご説明します。

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以仁王

以仁王
平安時代末期、6年もの間にわたって続いた「源平合戦」の口火を切ったのは、各地に散らばる源氏を蜂起させ、平氏追討の命を下した「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょうじ)です。この追討令を発した以仁王とはいったいどのような人物なのでしょうか。ここでは、源平合戦のきっかけとなった「以仁王」という人物の紹介と、皇族であった以仁王が武士である源氏と手を組み、当時の平氏政権に反旗を翻した理由とその影響について見ていきましょう。

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九条兼実

九条兼実
九条兼実は平安時代末期から鎌倉時代にかけての政治家で、平安末期を知る上での一級資料「玉葉」を記した人物です。五摂家のひとつ「九条家」の祖で、後白河法皇や平氏、源氏に翻弄されながらも、正しい政治体制を採ろうとした厳格さを持ちます。源頼朝と与し、将軍宣下を下した九条兼実がどのような人物なのか見ていきましょう。

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北条政子

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鎌倉幕府を創立した将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の正室として知られる「北条政子」(ほうじょうまさこ)。2022年(令和4年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主役「北条義時」(ほうじょうよしとき)の姉でもある北条政子は、夫・源頼朝亡きあと、その情熱的な性格で、鎌倉幕府のさらなる発展のために尽力しました。北条政子の負けん気の強さが窺えるエピソードを交えてその生涯を追いながら、尼将軍・北条政子が、鎌倉幕府でどのような役割を果たしたのかについてもご説明します。

北条政子

北条泰時

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鎌倉幕府3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)は、鎌倉幕府で実権を握り、多くの御家人を排除して「執権政治」を確立させた「北条氏」の中興の祖。そして、武家政権最初の武家法である「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)、別名「貞永式目」(じょうえいしきもく)を制定したことでも知られる人物です。政務においてカリスマ的な才能を有していただけではなく、人柄も優れていたと言われる北条泰時とは、どのような人物だったのか。ここでは、北条泰時の生涯と、北条泰時が定めた「御成敗式目」についてご紹介します。

北条泰時

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