「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)は、9代水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の長男です。父・徳川斉昭は藩政改革に尽力し、「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国を排斥しようとする思想)を掲げるなど、高い理想を持ち江戸幕府の政治を導こうとした人物。そして弟は、第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)という日本の歴史に大きく名を残した最後の将軍です。そんな偉業を成し遂げた2人に挟まれつつも、徳川慶篤は10代水戸藩主として幕末の動乱に揺れる水戸藩の舵取りを行いました。また徳川慶篤は、作刀を行った藩主でもあるのです。父・徳川斉昭も作刀しており、徳川斉昭の作刀例は20振ほどあるものの、徳川慶篤は10振に満たないとされています。そんな徳川慶篤が遺した刀と、その生涯について紐解いていきましょう。
徳川慶篤
徳川斉昭
「徳川慶篤」(とくがわよしあつ)は、1832年(天保3年)に9代水戸藩藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の長男として誕生。幼名を「鶴千代麿」(つるちよまろ)と言い、母は徳川斉昭の正室「登美宮吉子」(とみのみやよしこ)で、「織仁親王」(おりひとしんのう)の第12王女です。
徳川斉昭には正室の他9人の側室がおり、計37人の子女がいます。そんな徳川斉昭は、長男以外の息子をすべて有力大名家へ養子に出すつもりでした。実際に七男の徳川慶喜は、「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう:徳川将軍家の分家)の一橋家へ養子に行き、のちに徳川将軍家に迎えられ将軍へと就任。
九男「池田茂政」(いけだしげまさ)は岡山藩の池田家へと養子に出ています。他の息子らも同じように徳川家の分家にあたる松平家などに養子に出されました。
長男だけが水戸徳川家に残るという大きな重圧のなか、徳川慶篤は1844年(弘化元年)にわずか13歳にして10代水戸藩主に就任することとなります。
それは父・徳川斉昭が、軍事力強化など急進的な藩政改革を推し進めようとした結果、謹慎を命じられたからです。
徳川慶篤は幼年であったため、水戸藩の分家となる高松藩藩主「松平頼胤」(まつだいらよりたね)、守山藩藩主「松平頼誠」(まつだいらよりのぶ)、常陸府中藩藩主「松平頼縄」(まつだいらよりつぐ)らが後見役となり、政務は水戸藩の重臣が補佐しました。
徳川斉昭の謹慎自体は、翌年1845年(弘化2年)に解除。そして藩政に参与するのを許されたのはさらに4年後の1849年(嘉永2年)のことでした。
徳川慶篤は1852年(嘉永5年)12月に、12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)の養女「線姫」(いとひめ)と婚姻。線姫の実父は「幟仁親王」(たかひとしんのう)であり、徳川慶篤の母・登美宮吉子は大叔母にあたります。そして1854年(嘉永7年)、徳川慶篤と線姫の間には、長女となる「随姫」(よりひめ:または[随子:よりこ])が誕生しました。
随姫が生まれる前年の1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国から「東インド艦隊」提督「マシュー・ペリー」が軍艦4隻を率いて浦賀(神奈川県横須賀市)へ来航。マシュー・ペリーは、アメリカ大統領からの親書を携え江戸幕府に開国を迫りますが、徳川家慶が病床にあったことを理由に、開国を決定できないと返答します。
アメリカ合衆国と日本は翌年の1854年(嘉永7年/安政元年)に日米和親条約を結び、難破船の救助と食料・水・薪の補給のみを認めました。その他、通商については海上防衛を任されていた徳川斉昭が強く反対したことで見送られることになります。
孝明天皇は、江戸幕府の断行である日米修好通商条約の締結を許さず、江戸幕府を非難し幕政改革を指示する勅書「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)を水戸藩に下賜。これに対し江戸幕府は、天皇の臣下である将軍を差し置いて、水戸藩に直接指示が出されたことで政権転覆の可能性があると考えます。そして天皇と和解の上で、水戸藩に勅書返納を求めました。
幸いにも徳川慶篤の登城禁止は、1858年(安政5年)9月に解除。けれど水戸藩は勅書返納を巡り、藩主に従う改革派「天狗党」(てんぐとう)と、江戸幕府との関係を守る保守派「諸生党」(しょせいとう)の派閥に分かれてしまいます。主に下士官出身からなり、徳川斉昭の藩主就任によって出世した者達を中心とするのが天狗党。代々水戸藩主に仕えており、天狗党の出世により官職を取られた意識の強い重臣達が諸生党になります。こうした背景もあり、天狗党と諸生党は反目し合っていました。
桜田門外の変
さらに徳川斉昭を信奉し、勅書返納に反対する天狗党によって、1860年(安政7年)3月に井伊直弼を暗殺する「桜田門外の変」が引き起こされます。井伊直弼が亡くなったことで勅書返納の件はうやむやになりましたが、藩士が事件を起こしたため徳川慶篤は、その後の対応に追われることとなるのです。同年8月、この混乱のなか徳川斉昭は病没します。
桜田門外の変に続き、1862年(文久2年)の「坂下門外の変」など江戸幕府重臣の襲撃事件を起こしていた天狗党。徳川慶篤はそんな天狗党を諌めつつ、弟・一橋慶喜(のちの徳川慶喜)と共に14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)を支えていたのです。それが1864年(元治元年)、徳川家茂は開港している横浜港から外国船の出入りを禁ずるよう朝廷から命を受けます。
しかしなかなか実行に移せない江戸幕府に対し、天狗党はしびれを切らしてついに挙兵。同年、天狗党と攘夷に賛同する農民や浪士が筑波山(茨城県つくば市)に集結し、「水戸城」(現在の茨城県水戸市)を急襲する「天狗党の乱」(てんぐとうのらん)が起きます。このとき江戸にいた徳川慶篤は討伐隊を出すものの、水戸城への入城は諸生党によって阻まれ、ここに天狗党まで紛れ込む抗争へと発展。徳川慶篤の討伐隊は、天狗党と同じ暴徒として扱われることとなり、諸生党に加えそのあとやってきた江戸幕府軍によって追い払われてしまいました。
天狗党一行は、直接、孝明天皇に攘夷の志を訴えようと、京都へ向かうもののその途上で他藩の討伐隊に追い込まれ降伏。そして水戸藩の実権は、水戸城に居座る諸生党によって握られ、徳川慶篤は藩主でありながら藩政からはじき出されてしまうのです。
1866年(慶応2年)に徳川慶篤の弟・一橋慶喜が、徳川慶喜と名を変え15代将軍へと就任します。翌年、江戸幕府は政権を天皇に返上する「大政奉還」(たいせいほうかん)を行うものの、朝廷との戦「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)へと発展。徳川慶篤には、朝廷から諸生党の討伐が命じられました。
そもそも水戸藩主の徳川慶篤を差し置いて、諸生党が実権を握っている状態は反逆であるとして朝廷は藩政の正常化を求めてきたのです。判断に迷った徳川慶篤は、徳川慶喜に相談し、その助言通り朝廷の命令を受けることとしました。これにより水戸徳川家は、朝廷との対立を防ぎ、すでに発足していた明治政府による討伐を受けずに済んだのです。
このとき徳川慶喜は、自らも江戸幕府の代表である将軍として朝廷と対立していたにもかかわらず、徳川慶篤と水戸藩の行く末を案じていました。側室の多い父・徳川斉昭でしたが、徳川慶篤と徳川慶喜は母を同じくする兄弟。立場は違っていても、心の通じ合う仲の良い兄弟だったことがうかがえます。
徳川慶篤は、すぐさま諸生党を討伐するため軍を整え水戸へと向かいますが、体調が思わしくなく1868年(慶応4年)4月、そのまま水戸城で死去。享年37です。水戸徳川家は、徳川御三卿の清水徳川家当主となっていた徳川慶篤の異母弟「徳川昭武」(とくがわあきたけ)が継ぎ、それが最後の水戸藩主となりました。