戦国事件の真相
井伊直弼が暗殺された原因は食べ物の恨みだった!?
戦国事件の真相
井伊直弼が暗殺された原因は食べ物の恨みだった!?

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季節外れの雪が降る1860年(安政7年)3月、江戸城の桜田門外で、幕府の老中、井伊直弼(いいなおすけ)が水戸藩士らに暗殺された。「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)と呼ばれるこの事件は、幕府によって行なわれた弾圧「安政の大獄」(あんせいのたいごく)によって引き起こされた。しかし実はその根底には、井伊直弼と徳川斉昭(とくがわなりあき)の間で起きた、牛肉をめぐるいざこざがあったことをご存知だろうか。

「安政の大獄」と「桜田門外の変」

井伊直弼

井伊直弼

ときは幕末、1853年(嘉永6年)、病弱な徳川家定(とくがわいえさだ)が第13代将軍に就任すると、その後継を巡って、紀州藩の徳川慶福(とくがわよしとみ。のちの徳川家茂)を押す南紀派と、水戸藩徳川斉昭の七男、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を押す一橋派が激しく対立するようになった。

さらに幕府には開国を迫る外国勢からの圧力も強まっていた。幕府の大老で南紀派の井伊直弼が勅許(天皇の許可)を得ないまま日米修好通商条約に調印すると、尊王攘夷を推進する一橋派の徳川斉昭が猛反発。

幕府は一橋派や尊王攘夷派(天皇を尊崇し夷狄(いてき、外国)を排斥しようとする思想を持つ派閥)に対して弾圧を行なっていった。これが世に言う安政の大獄だ。

とりわけ孝明天皇(こうめいてんのう)との結びつきが強かった水戸藩への弾圧は激しく、「幕政を変えるには井伊直弼を殺害する他ない」と追い詰められた水戸藩士らによって、桜田門外の変は実行された。

井伊直弼と徳川斉昭の牛肉をめぐるトラブル

安政の大獄と桜田門外の変の経緯は上記の通りだが、実は井伊直弼と水戸藩主、徳川斉昭の間には、牛肉にまつわる根深い確執があった。

お肉の国の彦根藩、第15代藩主・井伊直弼

井伊直弼は1815年(文化12年)に初代井伊直政から代々続く、近江国彦根藩藩主の家に生まれた。

現在でも近江の名物と言えば牛肉だか、それはまだ肉食が解禁されていなかった江戸時代も同じで、彦根藩の井伊家では、幕府や諸大名への毎年の挨拶に、牛肉の味噌漬けを贈る習慣があった。

牛肉

牛肉

彦根藩は武具作りが盛んで、甲冑(鎧兜)に用いる牛革を取るために、唯一、幕府から牛の屠殺を許されていた。そして、残った牛肉の味噌漬けは、滋養強壮の薬「反本丸(へんぽんがん)」として珍重されていたのだ。

ところが1850年(嘉永3年)に、敬虔な仏教徒である井伊直弼が藩主に就任。牛の殺生を禁止し、牛肉の味噌漬けを贈ることもやめてしまった。

彦根藩主就任以降、様々な藩政改革を行なったことから、「名君」と呼ばれた井伊直弼。牛の殺生禁止も藩政改革の一環なのだろうが、毎年牛肉を受け取っていた諸大名のなかには、がっかりする者もいたようだ。

お肉大好き、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭

水戸藩第9代藩主の徳川斉昭は大の牛肉好きだった。九女の八代姫(やしろひめ)が仙台藩へ輿入れする際、乳牛を伴わせたという逸話もある。

そんな斉昭にとって、彦根藩からの牛肉が届かないことは一大事だった。

「水戸藩党争始末」には、斉昭が直弼に使いを送り、牛肉を所望したエピソードが記されている。会話部分だけ抜粋して紹介する。

一度目の使者とのやりとり。

斉昭(使者)「毎年牛肉を楽しみにしているが、今年はまだのようだ。何とぞ送ってほしい」

直弼「今年から牛の殺生を禁じたため、献上することはできません。お断りします」

斉昭は諦めきれず、もう一度使者を送った。

斉昭(使者)「すべての牛を殺すことを禁じたのなら仕方ないが、武具としてはこれまで毎年用いてきた物だし、何より近江の牛肉は格別。私たちのためだけにでも、特別に用意してもらえないだろうか」

直弼「国禁にしたので無理! 断る!」

斉昭の牛肉への情熱もさることながら、頑なな直弼の態度も面白い。真面目で融通のきかない性格であることがよく分かる。

これだけ頼んでも応じない直弼のことを、斉昭はたいそう不快に思ったという。

食べ物の恨みは怖い。桜田門外の変が実行される直前、幕府は、水戸藩士らが直弼を襲撃する恐れがあることを察知していたという。であれば、当然、第9代水戸藩主の斉昭も知っていただろう。

家臣達の暴走を止めるべきか、止めざるべきかと天秤にかけたとき、斉昭の頭の片隅には、牛肉の味噌漬けにまつわる苦い記憶が浮かんでいたに違いない。

もしもあのとき、斉昭に牛肉を贈っていたら、直弼の運命はまた違ったものになっていたかもしれない。

蛇足だが、斉昭には36人の子供がいて、息子の慶喜には21人の子供がいた。こんなに子宝に恵まれたのは、肉のスタミナによるものではないかと言われている。

慶喜は豚肉をこよなく愛し、「豚一殿(ぶたいちさま)」と呼ばれることもあった。父と同じように、豚の産地である薩摩藩の家老、小松帯刀(こまつたてわき)に豚肉をしつこく所望して困らせていたと言うから血は争えない。

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