名家に代々伝えられた日本刀

波乱万丈な池田家と太刀 吉弘

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安土桃山時代から江戸時代にかけて様々な功績を残した「池田家」(いけだけ)。代々、池田家を護ってきた当主達は、一体どんな人物だったのでしょうか。池田家のルーツから備前岡山藩主になるまでの時代を、戦国3大武将とのエピソードを交えながらご紹介すると共に、備前池田家に伝来した太刀「吉弘」(よしひろ)について見ていきます。

「三英傑」と関係を築いた池田家系譜を辿る

池田家の発祥から信長の重臣・恒興まで

源頼光

源頼光

池田氏は、もともと美濃国池田郷(みののくにいけだごう:現在の岐阜県揖斐郡池田町)に伝来する氏族だと言われていました。しかし、江戸時代に幕府が編纂した、大名や旗本などの系譜集である「寛永諸家系図伝」(かんえいしょかけいずでん)によると、池田氏は摂津源氏(せっつげんじ)の祖である「源頼光」(みなもとのよりみつ)が遠祖だと記されています。

その後、摂津で暮らしていた子孫によって、池田家のルーツにまつわるある逸話が生まれました。「大楠公」(だいなんこう)と称される英雄「楠木正成」(くすのきまさしげ)の嫡男である「楠木正行」(くすのきまさつら)に嫁いだ、とある女性。この女性は正行の子を身籠っていましたが、正行は戦死してしまいます。

女性は正行の子を身籠ったまま、「池田教依」(いけだのりより)と再婚。女性は無事に出産し、正行の子である「教正」(のりまさ)が池田家の継承者となった、というお話です。これを「楠胤説」(なんいんせつ)と言い、代々池田家では誇らしい伝説だと語り継がれてきました。真偽のほどは分かりませんが、池田家は英雄の血を受け継いでいるのかもしれません。

池田恒利

池田恒利

そんな伝説を残した教正の数代あとに、「恒利」(つねとし)という人物が家系図に記されています。恒利は「滝川貞勝」(たきがわさだかつ)の3男(または次男)で、室町幕府第12代将軍「足利義春」(あしかがよしはる)に仕えていました。

その後、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)に移住し「織田信秀」(おだのぶひで)の家臣となり、そのときに「摂津池田氏」の婿養子となったため、滝川氏から池田氏を称するようになった人物です。

1536年(天文5年)、恒利は男児をもうけます。幼名は「勝三郎」(しょうざぶろう)で、のちの「恒興」(つねおき)です。

この頃、主君である信秀にも「吉法師」(きっぽうし)という3歳になる男児がいました。吉法師は癇癪(かんしゃく)を起す子どもだったようで、その気性の激しさは、乳母の乳房を噛み破ってしまうほど。しかし、恒利の妻が乳母になったところ、不思議なことに吉法師の癇癪はぴたりと治まったのです。そのため、恒利の妻は吉法師の乳母として信秀から信頼され、「大御ち様」(おおおちさま)と呼ばれるようになりました。恒利の妻が育てたこの吉法師こそ、のちの「織田信長」(おだのぶなが)なのです。

こうして恒興と信長は幼い頃から共に育ち、1545年(天文14年)、信秀は10歳の恒興を「児小姓」(こごしょう:元服前の小姓)にして「信長之遊相手」という役目を与えています。

このとき恒興には、織田家の「蝶」の紋が入った麻の裃(かみしも)を与えられ、正装着として着用していました。すると、信秀から「よく似合う」と褒められたため、この一件から代々池田家では蝶を家紋にすることとなったのです。

信秀の死後、信長が織田家の家督を継承し、恒興も信長に仕えます。家督となった信長ですが、弟である「信行」(のぶゆき)と尾張の当主争いに発展。信行の謀殺に成功した信長は、この戦いで功績を挙げた恒興に、信行の内室だった女性を娶(めと)らせます。この信長の行動から見ても、恒興が信長の重臣となったことが窺えるのです。

その後も恒興は、信長の重臣として様々な合戦で活躍し、天下統一を目指す信長を支えていきました。

池田家を繁栄させた輝政と不運な人生を送った長男・利隆

池田輝政

池田輝政

信長の死後、恒興は後継者争いで「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの豊臣秀吉)と共闘します。この頃恒興は、妻との間に4人の男児と2人の女児をもうけていました。しかし、恒興と嫡男である「元助」(もとすけ)は、羽柴軍として参戦していた「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)で戦死してしまいます。こうして池田家の未来は、次男である「輝政」(てるまさ)が担うことになったのです。

輝政は秀吉に仕え、数々の主要な戦いで頭角を現します。その勢いは「秀吉子飼いの猛将」である「七将」に選ばれるほど。また、秀吉の命によって「徳川家康」(とくがわいえやす)の次女である「督姫」(とくひめ)を後妻に迎えた輝政は、家康との関係も深めていくこととなります。

秀吉の死後、同じく七将であった「福島正則」(ふくしままさのり)と共に、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で徳川軍の先鋒を任された輝政。この戦いで家康は輝政を労い、播磨国姫路(はりまのくにひめじ:現在の兵庫県姫路市)52万石を与え、輝政は初代姫路藩主となりました。

姫路城

姫路城

このとき、姫路城は輝政によって現在の「白鷺城」(はくろじょう/しらさぎじょう)と呼ばれる美しい姿に修築されたのです。

その後、輝政は池田家を播磨、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県東部)、淡路国(あわじのくに:現在の兵庫県淡路島)を支配する西の大大名へと成長させ、池田家を大きく繁栄させました。この頃に「備前池田家」の基盤ができたと言えます。

そんな輝政には、正室との間に「利隆」(としたか)という子がいました。しかし、輝政は徳川家との政略結婚を命じられたため、利隆の母である先妻とは離縁しているのです。利隆は輝政の嫡男でしたが、輝政の後妻・督姫との間に生まれた男児達が優遇されていたのは言うまでもありません。

池田利隆

池田利隆

輝政が亡くなり、利隆が家督を相続してもなお、播磨、備前、淡路に広がる池田家の領地は、家康の命により孫達を厚遇するかたちで分配されました。家康は、先妻の子である利隆には冷たくあたっていたのです。

さらに、利隆が徳川家から疎まれるような事件が起こります。徳川家が豊臣家と争った「大坂冬の陣・夏の陣」において、「豊臣秀頼」(ひでより)から、豊臣軍へ付くよう嘆願する書状が利隆のもとへ届いてしまったのです。利隆は徳川家への忠誠を誓うため、京都所司代(きょうとしょしだい)を務める「板倉勝重」(いたくらかつしげ)に通報します。

しかし、この書状が開封されていたことから、利隆は勝重に疑われてしまうことに。利隆は何とか身の潔白を示しましたが、もともと肩身が狭かった利隆をますます追い込むような出来事となりました。

こうして利隆は不遇な人生を送り、33歳という若さで亡くなってしまいます。生前、利隆は家康の後継者である第2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の養女を娶っており、2人の間には「光政」(みつまさ)という子がいました。以後、この光政が池田家宗家として、備前池田家の将来を担っていくこととなります。またしても池田家の運命は、幼い子に託されていったのです。

備前岡山藩初代藩主となった光政

池田光政

池田光政

利隆から家督と遺領を引き継いだ光政は、このときまだ9歳という若さでした。姫路藩主となった光政ですが、「播磨はまだ子どもに任せられない」と判断され、因幡国(いなばのくに:現在の鳥取県東半部)、及び伯耆国(ほうきのくに:現在の鳥取県西半部)へ国替えを命じられたのです。

ここで光政と日本刀にまつわる逸話をご紹介します。光政がまだ3歳の頃、祖父である徳川家康と初めて対面し、脇差(わきざし:小型の日本刀)を拝領したのです。すると、家康に呼ばれ膝元に座った光政は、その脇差を勢いよく抜いて「本物じゃ」と言い放ったそう。これに驚いた家康は、「あの眼光の鋭さ、只者ではない」と感嘆したということです。

光政が本当にこのような発言をしたのか定かではありませんが、このエピソードが語り継がれていたことから、光政は幼い頃から賢く聡明な一面を見せていたと伝わっています。

1623年(元和9年)、秀忠は将軍職を退き大御所(おおごしょ)となり、徳川家将軍は3代目の「家光」(いえみつ)が継承。この頃から、光政は家光との親交を深めていたようで、江戸と鳥取を行き来するように。さらに光政が20歳になると、秀忠の養女を嫁に迎え、徳川家とより強い絆で結ばれました。

1632年(寛永9年)、そんな光政に転機が訪れます。光政の叔父で、備前岡山藩(びぜんおかやまはん:現在の岡山県岡山市)の当主であった「忠雄」(ただかつ:家康の孫にあたる池田家の人物)が亡くなり、忠雄の嫡男がまだ幼かったことから、光政は岡山への国替えを命じられたのです。こうして光政が池田宗家初代岡山藩主となり、岡山藩は、光政の子孫が代々継いでいくこととなりました。

第8代将軍・吉宗から池田家へ贈られた太刀 吉弘

1717年(享保2年)、光政の孫にあたる「継政」(つぐまさ)が家督を継承するにあたって、当時の江戸幕府将軍である「徳川吉宗」(とくがわよしむね)から、太刀「吉弘」を拝領しています。この出来事は、江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書である「徳川実紀」(とくがわじっき:明治以前は[御実紀]という名称)にも記載されているのです。

太刀 銘 吉弘

太刀 銘 吉弘

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
南北朝時代 特別重要刀剣 池田家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

吉弘は、南北朝時代に活躍した九州を代表する名工「筑前国左文字」(ちくぜんのくにさもんじ)の子、または門下と言われている刀工。現存する吉弘の在銘刀は、本太刀1振だけであるため、非常に希少な作品となっています。

また、江戸幕府に刀の鑑定や研磨で仕えていた「本阿弥家」(ほんあみけ)の13代当主である「光忠」(こうちゅう)による「折紙」(鑑定書)が附帯しており、継政が賜った「享保2年」(1717年)の年号が入っているのです。

本太刀の刃文を見ると、金筋や砂流しが細かにかかり、匂口(においぐち)がやや明るいといった、左文字一派の特徴がよく表れています。それまでの九州鍛冶の作風から脱却し、新しい作風を築き上げた左文字派。将軍達と共に戦国から江戸時代を駆け抜けた池田家のように、挑戦を恐れない力強さが感じられる1振です。

波乱万丈な池田家と太刀 吉弘

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