日本の剣(けん/つるぎ)は、装飾だけでなく刀身そのものが美術品として認められており、西洋の剣とは一線を画す存在です。「刀剣ワールド財団」では、美術的価値はもちろん、歴史的な資料としても高く評価されている日本の剣を数多く所蔵。貴重な日本文化を受け継ぎ、後世へと伝えていく役目を担っています。刀剣ワールド所蔵の剣では、日本の剣のなかから「特別重要刀剣」、「重要刀剣」、「特別保存刀剣」、「保存刀剣」に認定されている歴史的名品をピックアップしました。「太刀」や「刀」とは、また一味違う日本の剣の魅力に注目していきます。
刀身彫刻が目を惹く本剣(けん/つるぎ)は、平安時代頃に作刀されたと考えられています。全長46.3cmと、やや大振り。鎬筋(しのぎすじ)が刃側に付いた「切刃造り」(きりばづくり)で、身幅(みはば)は広めながら先身幅の張りはありません。
剣身の鍛肌(きたえはだ)は、板目肌と柾目肌(まさめはだ)が交じり、よく詰んで地沸(じにえ)付き。直刃調(すぐはちょう)の刃文には、ほつれや二重刃ごころといった働きが見られます。全体として保存状態もたいへん良好です。剣身の中心に彫物があることから、実戦向けではなく、貴族の装身具、もしくは寺社へ奉納された祭神具であると推測されています。
本剣に施された彫物は、二筋の樋(ひ)の一部に幾何学的にも見える文様を組み合わせて透彫(すかしぼり)とし、さらに文字らしき陰刻(いんこく:くぼませて彫る技法)が入っていますが、何を表現しているかは分かっていません。
その造りや彫刻の珍しさと優れた出来により、本剣は1974年(昭和49年)10月3日に特別重要刀剣に指定されました。歴史的な資料としての価値も高い1振です。
平安時代後期から南北朝時代にかけて、大和国(現在の奈良県)奈良で活躍した刀工一派「千手院派」(せんじゅいんは)は、「東大寺」(現在の奈良県奈良市)に属し、僧兵達のために鍛刀を行なっていました。拠点とした若草山麓の地に「千手観音」を本尊とする「千手院堂」が所在したことから、お堂の名前が派号となったのです。
郷義弘(江義弘)
本剣の制作者は、南北朝時代前中期の1345~1352年(貞和元年~文和元年)頃に千手院派の中核を担った「千手院義弘」(せんじゅいんよしひろ)と伝えられています。
この千手院義弘こそ、「天下三作」(てんがさんさく)のひとりにも数えられる「郷義弘」(ごうよしひろ:江義弘とも)と同一人物なのではないかと言われているのです。
天下三作とは、相模国(現在の神奈川県)の名工「正宗」、短刀作りの名手「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)、そして郷義弘の3人を指します。
千手院義弘と郷義弘の作風に共通点が多いこと、郷義弘が大和国から越中国(現在の富山県)へ移住した刀工のひとりであることなどから、同一人物説が囁かれているのですが、しかし郷義弘は作品に銘を残しませんでした。それは「郷[の銘]とお化けは見たことがない」と言われるほどであり、銘のある本剣が郷義弘の作品かどうかは定かではありません。
本剣の銘に関しては、「貞和二年二月日」(1346年2月)と年紀が記されているため、作者である千手院義弘の活動期間を明らかにする物であると同時に、郷義弘を研究する上で貴重な史料となることが期待されています。
本剣を制作した「長船盛光」(おさふねもりみつ)は、室町時代初期の1394~1428年(応永年間)に備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)で活躍。「長船康光」(おさふねやすみつ)と並ぶ「応永備前」の双璧として名高い刀工です。
本剣は、実戦で用いることが目的ではなく、密教(神秘的な要素を含む仏教の教え)の法具として作られました。刀身の表には「不動明王」の梵字(ぼんじ)が記され、裏には、こちらも不動明王の化身である「護摩箸」(ごまばし)が刻まれています。
不動明王とは、魔物を退け、すべての煩悩を断ち切り、生きとし生ける者を救う仏教の守護者です。火焔を背に忿怒(ふんぬ:怒り)の相をたたえ、右手に剣、左手に救済の縄を持つ姿で表され、日本では平安時代から広く信仰されてきました。
本剣には梵字と護摩箸が組み合わせで彫刻されており、法具として大きな意味があることを示しています。地鉄(じがね)は、板目肌に杢目(もくめ)交じりよく練れて、靄(もや)がかかったような直映り(すぐうつり)が立っているのが特徴的。
刃文は匂出来の直刃で小沸盛んに付き、細かな金筋(きんすじ)が入る明るい刃中。応永備前特有の出来栄えが見事な1振となっています。
本剣は、茎先(なかごさき)をわずかに摘んではいるものの、ほぼ作られた当初のまま残る生ぶ茎(うぶなかご)の「大和古剣」(やまとこけん)です。
大和古剣とは、南北朝時代以前に制作された無銘の剣を指します。大和国ではない地域の鍛冶であっても、剣の場合はおおむね大和風の出来になるため、このように呼ばれているのです。室町時代以降の作品は、「古剣」と称されます。
日本の剣のほとんどは、実戦向けではなく寺社へ奉納するための特注品でした。仏教においては、高僧が仏事に用いる魔除けとしての意味合いがあり、剣を制作できるのは、腕のある名工だけだったのです。
南北朝時代に大和国で制作されたと考えられている本剣もまた、その出来栄えは見事としか言いようがなく、姿の美しい刀身の鍛えは、沈みがちでよく詰んだ小板目肌に、柾目(まさめ)交じり、地沸付き。刃文は、細めの直刃湾れ調(すぐはのたれちょう)で小沸が見られ、鋒/切先の刃文である帽子(ぼうし)の先は掃掛(はきかけ)に、刃先まで焼刃が延びた返りのない焼詰(やきつめ)です。
現代になって作られた外装の三鈷柄剣拵(さんこつかけんこしらえ:密教で使用される祭神具の三鈷柄剣を表した刀装)に入っています。
近江大掾忠廣(おうみだいじょうただひろ)は、80歳で他界する直前まで作刀に力を注ぎ、父「忠吉」(ただよし)を祖とする「肥前刀」(ひぜんとう)の基礎を確立しました。
近江大掾忠廣の手掛けた剣は、すべてが寺社への奉納品であったとされることから、本剣も祭祀的な意味合いの強い作品と考えられています。
刀身の表側には、太樋(ふとひ)と神号「天照皇太神」(あまてらすすめおおかみ/てんしょうこうたいじん)の文字、裏面には梵字と護摩箸の彫刻があり、茎に切られているのは、作者銘と年紀銘です。
年紀銘に「辛巳」(かのとみ/しんし)という「十干十二支」(じっかんじゅうにし)が含まれ、年号と干支(えと)の組み合わせで、暦が分かりやすく把握できるようになっています。ただし、年紀銘にある寛文元年は、西暦では1661年、十干十二支は「辛丑」(かのとうし/しんちゅう)であり、なぜ辛巳と切られているのか、この点では謎が残されたままなのです。
槍として制作され、のちに剣として仕立て直された本剣。銘はありませんが、大和国を拠点とした「末手掻派」(すえてがいは)の刀工が鍛えたとされ、岡山県の名刹(めいさつ:由緒ある寺)に伝来しました。
本剣は、「倶利伽羅剣」(くりからけん)と呼ばれる作品で、不動明王が右手に携えている利剣(りけん)を表しています。刀身の先端には不動明王の梵字が刻まれており、最も根本的な煩悩である三毒、すなわち「貪」(とん:貪欲、我愛)、「瞋」(しん:怒り、恨み)、「痴」(ち:無知)を打ち破ることができる智恵の剣と信じられているのです。
地鉄は、小板目肌が流れた柾目肌。刃文は、直刃を基調に浅く湾れ、沸が強く、匂口(においぐち)がやや沈むなど、末手掻派ならではの深みが感じられる出来となっています。
本剣は、先にご紹介した千手院義弘と同じ千手院派が、東大寺などの僧兵に納めていたうちの1振です。寺に属する大和国の刀工達は、作刀に銘を入れないことが一般的でした。本剣も同じく無銘の作品となっています。
鎌倉時代に制作されたと考えられる本剣は、刀身にくびれがあり、茎の角は平面となるよう面取りされているのが特徴的です。刃文の幅が広く、激しい沸付きも見られるなど、古い時代の大和古剣に特有の趣が目を惹きます。
古墳時代に作刀された「古剣」