刀工による様々な作刀工程を経て、その仕上がりが完璧なまでに美しい物となる日本刀。その刀身に肉感を持った立体的な彫刻を施すことで、さらなる美しさが引き出されています。刀身彫刻の種類は、刀の強度はそのままに、重量を軽くする実用性のある物から、宗教への信仰心、制作者や所持者の自由な思いが込められた物まで、実に様々です。ここでは、個性的な意匠が用いられた刀身彫刻の具体的な種類をご紹介すると共に、実際に行なわれている刀身彫刻の工程についてもご説明します。
江戸時代以前の刀工には、簡単な彫刻であれば自身で施す人もいました。そのためか、専門の彫師(ほりし)に関心を向けられることはなく、刀身の制作を行なった刀工のように、後世にまでその名を残している人はほとんどいません。
しかし、江戸時代に入って、日本刀に武具よりも美術品としての価値が見出されるようになると、刀身彫刻もその装飾性が高まり、より専門的で高度な技術が求められるようになりました。
そして、刀工と彫師の分業が明確化されるようになり、例えば江戸時代初期の名刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)の作刀には、金工彫物師の著名な一派である「記内」(きない)派が、「喜内」や「木内」と言うような銘を切るようになったのです。
柳村仙寿
刀工と同じように自身の銘を切ることで、その技術の高さを後世にまで伝えられるようになった彫師。現代の著名な彫師には、無鑑査、及び岡山県指定重要無形文化財保持者の「柳村仙寿」(やなぎむらせんじゅ)などがいます。
彼らもまた、先人達と同様に、刀身彫刻の彫師になりたい人達はもちろん、装剣金工(そうけんきんこう:彫刻技術を用いて、金や銀などの材料で鍔[つば]をはじめとする刀装具を制作する職人のこと)を目指す人、そして、自身で刀身彫刻を行ないたい刀工などに対して、広くその技術を伝えているのです。
日本刀の刀身を制作する刀工になるには、刀匠のもとで一定期間の修行を経て、文化庁主催の研修会で行なわれる試験を受け、文化庁からの「作刀承認」を受けなければなりません。
一方で刀身彫刻の彫師は、特別な資格や免許は不要。独学で1年しか経っていないような職人であっても、宣言してしまえばプロを名乗ることはできます。
しかし「不動明王」(ふどうみょうおう)が刀身彫刻の代表的な意匠であることからも分かるように、刀身彫刻は、宗教的な意味合いが色濃く映し出されている物。そのため、宗教関連の文献を読んだり、自ら寺院や神社に赴いて住職や神職の方にお話を伺ったりするなど、その背景にある精神性を学ぶことが重要です。
また、刀身彫刻には厳格な決まりごとがあるため、正確な技術を身に付けるのに、やはりプロの彫師のもとに弟子入りする人も多くいます。独学にしても、師のもとで修業を積むにしても、本当の意味で周囲から「プロ」と認めてもらうには、最低でも5年はかかると言われているのです。
実際の刀身彫刻の工程において使われる主な道具は、刀身に痕跡を付けながら彫り進めていくための「鏨」(たがね)と呼ばれる工具と、それを叩くために用いられる「豆鎚」(まめつち)や「福鎚」(ふくづち)です。
使用される鏨は、意匠などによって先端の形状が異なる物が使い分けられ、ひとりの彫師が所有している数は、なんと約50~数百種類にまで及びます。彫師が自身でやすりを掛け、使い勝手の良い形状の鏨を手作りしているのです。この鏨のなかには、1度使ったらそれきりという物もあります。
下絵となる図案を和紙に描いてから、それを参考にして刀身に直接墨で写す、言わば刀身彫刻のための下準備。絵付けに墨を用いるのは、爪楊枝など細い物で擦ると剥がれるため、あとからでも修正が利くということが、その理由のひとつ。
また、絵付けした墨が消えてしまうのを防ぐため、墨の上から油を塗ることもあります。
絵付けした線に沿って、4分鏨(しぶたがね:彫った跡が毛のように細いことから[毛彫り鏨]とも呼ばれる)を用いて、アウトライン(輪郭)を彫ります。
ここから本格的に彫っていきますが、まずはアタリの通りに掘り下げ、大まかな形を作っていく「荒彫り」を行ないます。
鏨で彫った跡は、光って見づらくなることが難点。そのため、「切下げ」(きさげ)という道具で削り、つやを消しながら作業します。切下げを掛けて彫り跡をならすことで、彫りの状態をよく把握しつつ、必要があれば、彫りの粗(あら)などを再び彫り下げていくのです。切下げを掛ける作業は、このあとの工程でも随時施される物。
また、この段階で肉取(にくどり:彫りの高さの膨らみ具合から生じる量感)などの最終的な彫りの姿を決定します。
粗い目の砥石なども交えながら、荒削りと切下げ掛けを繰り返して彫りの形を決めたあと、細かな部分を彫っていきます。この「上彫り」は、刀身彫刻の工程の中でも最も繊細さが求められる緻密な作業です。
上彫りのあとは、最後の仕上げとなる磨き(研磨)。荒削りと同様、ここでも切下げを掛けて細かな部分まで鏨の跡をならします。
刀身彫刻の研磨で用いるのは、セラミック砥石や樹脂(レジン)が材質に含まれる「レジノイド砥石」。これらを薄く切って細かく砕き、削って尖らせた割り箸の先に瞬間接着剤で止め、600番ぐらいの砥石から、徐々に目が細かい砥石に変えて磨いていきます。
彫り跡の中で黒っぽく見える部分と白っぽく見える部分があるのは、立体感を出すのに磨き方を変えているため。黒くしたい部分はよく磨き込み、白い部分は荒いまま残しています。
そして最後に、砥石の粉を油で溶いた物を使って磨き、ようやく完成となるのです。
以上のような刀身彫刻の工程が完了すると、刀身全体の研磨を行なうため、専門の研師(とぎし)のもとへ回します。
しかしそれは、彫刻完了後、すぐにと言う訳ではありません。研師に渡すのは、しばらく時間を置いてからという彫師も多いのです。
と言うのは、完成直後には分からなかった粗が、時間が経つと、細部に見えてくることがあるため。他人の目では見付けられないほど些細な不具合であっても、最高の作品にするのに、彫師は納得がいくまで修正を重ねていきます。
刀身彫刻は、基本的な工程の流れは共通していますが、その技法については、刀身の強度や意匠などによってそれぞれ使い分けられているもの。ここでは、いくつもある刀身彫刻の技法の中でも、特によく用いられる6種類についてご紹介します。
図柄を線や陰影として簡潔に表しており、刀身彫刻において最もよく用いられています。
陰刻に対して「陽刻」(ようこく)と呼ばれることもあります。
和風建築における、天井と鴨居(かもい)とのあいだに設けられる「欄間」(らんま)にも似ていることから、「欄間彫」とも言われます。
刀身彫刻の中でも、鎬地(しのぎじ)に彫られた溝のような物は樋と呼ばれています。この溝があることにより、刃筋方向に加わる力が吸収されて曲がりづらくなるだけでなく、重量の軽減と強度の増加を両立させる効果があるのです。
最も古い形式は「掻通し/掻流し」(かきとおし/かきながし)と言われる、ごく簡単な物でしたが、日本刀に実用性のみならず、装飾性も求められるようになると、シンプルな中でも工夫を凝らした、様々な意匠が出現するようになりました。
密教(みっきょう)の信仰対象である不動明王の化身「護摩箸」(ごまばし)を表しています。
薙刀(なぎなた)によく掻かれており、その場合は「薙刀樋」と呼ばれています。
実用性を優先した樋から始まった刀身彫刻。しかし、平安時代末期から鎌倉時代初期において、幾度にもわたって戦が繰り返されるようになると、神仏の加護を求めた武士達は、彫刻の意匠にその信仰心を込めるようになりました。
その中でもよく見られた意匠が、当時の武士達が多く信仰していた密教の影響が色濃く現れている物。古くは「梵字」(ぼんじ)に始まり、不動明王などが様々な表現で描かれています。
古くは、鎌倉時代中期の刀工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)による名物「骨喰藤四郎」(ほねばみとうしろう)にあり、新刀期においては、新刀鍛冶の祖と称されながら、刀身彫刻の名手でもあった「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)の作品でも、よく知られています。
もともとは、杵型で両端に突起が付いた古代インドの「バジュラ」という武器で、両端が尖っている物が「独鈷杵」、3つに分かれた物が「三鈷杵」と呼ばれています。
刀身彫刻で彫られるのは、この独鈷杵と、三鈷杵の両端にある三つ股部分の中央が剣になった「三鈷剣」。
三鈷剣は、不動明王が右手に持つとされ、その化身となる物。これを簡略化し、剣の部分のみを表した「素剣」の意匠が広く用いられています。
龍が剣に巻き付く図柄が施されるため「剣巻龍」(けんまきりゅう)とも呼ばれ、仏法と外道が争った末に、仏法が勝利する様子を表しています。
精密度が異なる「真」(しん)、「行」(ぎょう)、「草」(そう)と言う3種類の表現方法は、様々な意匠のある刀身彫刻の中でも、この倶利伽羅に、特によく用いられる物。
最も緻密で写実的な真の倶利伽羅は、櫃内彫が用いられた「不動国行」(ふどうくにゆき)が有名。
行体は「兼光」(かねみつ)などの孕龍(はらみりゅう:龍の腹部が風を孕んだ帆のように表される意匠)がよく見られ、そして、草体については「豊後国行平」(ぶんごのくにゆきひら)が得意としていました。
しかし、龍が単体で彫られている物は、古代中国の「神仙思想」(しんせんしそう:神や仙人に不老不死の願いを見出した思想。道教[どうきょう]の基本となった)における龍神への信仰に基づいており、玉を追って掴もうとする「玉追龍[珠追龍]」や、天を目指して進もうとする「昇龍」がこれにあたるのです。
これらは、地上に降りて来る「降龍」と共に彫り表される物が多く見られます。
三鈷剣の爪を略体化した物で、形状の長い物が「鍬形」と呼ばれています。
上部に彫られている物は不動明王の冠である「蓮華」、下部にある物は、不動明王が座る台座である「蓮台」を表します。
「春日大明神」(かすがだいみょうじん:春日大社の祭神)や「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ:八幡神の称号)など、武士に縁のある名号が多く彫り表されています。
室町時代後期以降、なかでも江戸時代に戦のない平和な世の中が訪れると、刀身彫刻に込められていた信仰心は次第に薄れていき、装飾性の高い物へと移行します。
図柄についても、その題材の自由度が高まり、縁起の良い動植物や人物、日本刀所持者が好んだ和歌や漢詩などが彫られ、より強く個性が発揮されるようになりました。