代表的な甲冑(鎧兜)
大鎧①
代表的な甲冑(鎧兜)
大鎧①

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平安時代に入ると「短甲」(たんこう)、「挂甲」(けいこう)に代わって「大鎧」(おおよろい)が登場します。その理由は、戦い方の変化。騎馬武者が戦いやすいよう改良が加えられた結果、鎧は日本独自の進化を遂げていきました。現存する大鎧の中で、最古の物とされているのは愛媛県「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)所蔵の「沢潟威鎧」(おもだかおどしよろい)。この一領が、国内外において古美術品や工芸品として高く評価されている「日本式甲冑」の出発点であると評価することができるのです。ここでは、鎌倉時代より前に制作された大鎧の中で、国宝に指定されている物を中心にご紹介します。

大鎧とは

大鎧出現の背景

騎射戦

騎射戦

平安時代から鎌倉時代にかけて、主流となっていた戦い方が「騎射戦」(きしゃせん)です。これは、1対1で向き合った騎馬武者がお互いに名乗り合って弓を引き、すれ違いざまに矢で射るという戦い方。この形式の戦いが盛んに行なわれたことで、それまでの短甲や挂甲などの甲冑(鎧兜)とは違うことが要求されるようになります。

馬上において動きやすいこと、弓を引く動作がスムーズにできること、相手が放つ矢に対する防御に優れていることが要求されるようになりました。

なかでも、防御力を要求されたことで大鎧を特徴付けることに。具体的には、肩を守るための「袖」(そで)、脇の隙間を守るための「脇楯」(わいだて)、胸部を守るための「鳩尾板」(きゅうびのいた)、「栴檀板」(せんだんのいた)、「吹返」(ふきかえし)などで矢を弾き返す工夫が施された「兜」、隙間を少なくして腰から下を守る「草摺」(くさずり)などが挙げられます。

古墳時代まで実戦で用いられていた、短甲や挂甲は、大陸の影響を受けた甲冑(鎧兜)。これらが大鎧という「日本式甲冑」に変化していった背景には、文化的な影響もありました。すなわち、調和の取れた日本的な美を重んじる「国風文化」(こくふうぶんか)の下、仏具制作の手法を甲冑(鎧兜)制作に応用するなど、独自の発展を遂げていったのです。その結果生まれたのが、大鎧だったと言えます。

式正の鎧

大鎧は、「式正の鎧」(しきしょうのよろい)とも呼ばれます。「式正」とは本式、正式のこと。すなわち、大鎧こそが最も格の高い正式な鎧であるということを意味しているのです。

その後は、歩兵戦重視など、戦法の変化に伴って軽量化、簡略化が図られたことで、室町時代の終わり頃には大鎧は戦場から姿を消しました。しかし、江戸時代に入り戦のない世の中になると、甲冑(鎧兜)は装飾品の側面が重視され、美術品としての価値が評価されると共に、武家の象徴として「復古調」の大鎧が制作されるようになったのです。このように大鎧は、最も「鎧らしい鎧」であると位置付けることができると言えます。

平安時代前期の大鎧

沢潟威鎧

大山祇神社

大山祇神社

現存する最古の大鎧は、愛媛県大山祇神社が所蔵している国宝「沢潟威鎧」(おもだかおどしよろい)。袖や「錣」(しころ:首筋を覆う部分)に描かれた三角形の模様が、オモダカ科の水生植物「沢潟」(おもだか)に似ていることからこう呼ばれています。

オモダカ科の栽培品種(農業や園芸のために創られた品種)である「クワイ」は、その形状において芽が出ることを連想させることから、縁起物として好まれました。また、群生している沢潟の葉は、鏃(やじり)を並べたように見えることから、「勝ち草」として重宝され、多くの武家において家紋などにも取り入れられているのです。

大山祇神社の沢潟威鎧は、完全な形で遺されている物ではありませんが(残欠:一部分が欠けていて不完全なこと)、三手組糸を用いて垂直に威していく(結び付けていく)手法は、古墳時代や奈良時代の挂甲と共通。大鎧が挂甲の延長戦上に位置していることを表しています。

また、付属する兜は12枚の鉄板をつなぎ合わせて鉢(はち)を形成。この作りは、短甲や挂甲に付属する兜に見られる特徴でもありました。この点からも、古墳時代からの甲冑(鎧兜)の進化を見て取れるのです。

沢潟威鎧は「延喜の鎧」(えんぎのよろい)と呼ばれ、大山祇神社の社伝においては延喜の治世(901~923年)に制作された物であるとされていますが、現代では「天慶の乱」(てんぎょうのらん)から「前九年の役」(ぜんくねんのえき)の間に制作されたというのが通説になっています。

平安時代後期の大鎧

赤糸威鎧

赤糸威鎧

赤糸威鎧

「赤糸威鎧」(あかいとおどしよろい)は、平安時代末期に制作され、1191年(建久2年)に「畠山重忠」(はたけやましげただ)によって、武蔵国(現在の東京都青梅市)の「武蔵御嶽神社」(むさしみたけじんじゃ)に奉納されたと言われています。

重忠は、鎌倉幕府の有力な御家人。1204年(元久元年)の「畠山重忠の乱」で討たれ、その生涯を閉じましたが、その清廉潔白な人柄から「坂東武士(関八州で活躍していた武士)の鑑」と称されました。

この鎧は、「小札」(こざね:革や鉄などを小さな板状にした物)を植物染料である「茜」(あかね)を用いて鮮やかな赤色に染めた絹糸でつなぎ合わせた物。現在ではこの方法による染色技法は廃れており、再現することが不可能になっているのです。兜を含め、制作当時のまま、残欠ではない形で現存している大鎧のなかでは、最古の物のひとつと言われています。

小桜韋威鎧

「小桜韋威鎧」(こざくらがわおどしよろい)は、山梨県甲州市にある「菅田天神社」(かんだんてんじんしゃ)に伝えられている武田家ゆかりの一領。この鎧は、敵の矢や日本刀(刀剣)などの攻撃を防ぐための楯が不要だと思わせるほどの重厚さを感じさせています。このことから、「楯無鎧」(たてなしのよろい)という異名を有しているのです。

小桜韋威鎧は、甲斐源氏の始祖「新羅三郎義光」(しんらさぶろうよしみつ=源義光)から武田家に伝えられ、日本初の「日章旗」と言われている「御旗」(みはた)と共に、武田家の家督(かとく:跡目を継ぐ者)の証として伝承されました。

1582年(天正10年)の武田家滅亡の直前に、「武田勝頼」(たけだかつより)は嫡男・信勝が元服を済ませていなかったことから、陣中にあったこの鎧を着せ、儀式を行なったあと父子で自刃。その後、鎧は家臣の手によって「向嶽寺」(こうがくじ)の庭に埋められましたが、後年「徳川家康」によって掘り起こされ、菅田天神社に納められたと言われています。

紺糸威鎧(厳島神社蔵)

紺糸威鎧(厳島神社蔵)

紺糸威鎧(厳島神社蔵)

広島県にある「厳島神社」は、「平清盛」(たいらのきよもり)によって社殿が整備されるなど、平家から厚い信仰を受けた神社。そんな平家の「氏神」とでも言うべき神社に奉納されたのが、「紺糸威鎧」(こんいとおどしよろい)です。

清盛の子「平重盛」(たいらのしげもり)によって奉納されたこの紺糸威鎧は、小札を結び付けていく威毛(おどしげ)に傷みがあるものの、欠けた部分は見られません。一見、派手さに欠けますが、格調高く精緻に制作されている点で、奉納者・重盛の人柄が表れている一領だと言えます。

重盛は、平家が隆盛を極めるきっかけとなった「保元・平治の乱」において武功を挙げ、父・清盛を盛り立てたのみならず、温厚・誠実な人柄で、武士はもちろん、貴族・朝廷からも厚い信頼を集めていました。武人としての能力に加えて抜群の人柄をも併せ持っていた重盛に対しては、絶対的権力者だった清盛も一目置いており、「平家」政権内で清盛に対して意見することができるのは、重盛しかいなかったとも言われていたのです。

自他共に認める清盛の後継者・重盛の人柄を垣間見られたのが、1177年(安元3年)に発覚した「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)らによる、平家打倒の陰謀「鹿ケ谷の陰謀」(ししがたにのいんぼう)が発覚したあとの振る舞いでした。法皇と清盛間の調整役を担ってきた重盛は、法皇に激怒し、対決も辞さない姿勢の清盛に対して、涙ながらにこう訴えました。

「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」

上皇に忠誠を誓いたいと思うと、父・清盛の意に反することになり、その結果として親孝行をすることができないし、反対に清盛の意に沿おうとすれば、親孝行はできるが、上皇への忠誠を誓うことができない…。こうしたジレンマを率直に表した一言によって、清盛は矛を収めたのです。

小桜韋黄返威鎧

「小桜韋黄返威鎧」(こざくらがわきかえしおどしよろい)は、広島県・厳島神社所蔵の大鎧です。小札の幅が極端に広く、それをつなぐ威毛の幅も広く、胴も裾広がりに形作られた雄大な姿が特徴的な一領。厳島神社の社伝では、「源為朝」(みなもとのためとも)所用だったと言われています。為朝は身長2mを超える大男で、五人張の巨大な弓を武器としていた猛将でした。

現存する鎧は、敵の矢から心臓部分を守るための鳩尾板(きゅうびのいた)と、脇腹を守るための脇楯が欠損していますが、全体的な形状は、平安時代の大鎧の特徴を色濃く残している物。その豪壮なつくりは、巨体を誇る伝説的な猛将・為朝の所用と伝えられるのも納得の一領と言えます。

紺糸威鎧(大山祇神社蔵)

紺糸威鎧(大山祇神社蔵)

紺糸威鎧(大山祇神社蔵)

「紺糸威鎧」を所蔵している愛媛県・大山祇神社は、国宝及び国の重要文化財に指定されている甲冑(鎧兜)の約4割を収蔵している神社。武運長久を願う武士からの信仰を集めました。

この紺糸威鎧は、1185年(文治元年)の、いわゆる「源平合戦」において「源義経」(みなもとのよしつね)が総大将を務めた源氏に味方した「河野通信」(こうのみちのぶ)が所用していた物。

通信は合戦後、戦勝御礼の意味を込めて奉納したと言われています。河野氏の武功を象徴する一領です。

通信が率いていた「河野水軍」は、源氏と平家の最終決戦となった「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)における勝利に大きく貢献しました。現地の潮の流れを完璧に予測してみせたことで、源氏が水軍力で勝る平家を下したのです。

この戦いにおいて源氏は、当初は逆流にさらされて劣勢を強いられましたが、河野水軍の予測通り、時間の経過と共に潮の流れが反転。これに乗じた源氏が一気に攻勢に転じ、逆転勝利したと言われています。

赤韋威鎧

「赤韋威鎧」は、源氏と平氏の戦いにおいて、武将が実戦で着用していたと考えられ、その後、備中・赤木家に伝来した物。兜の眉庇(まぎさし)などに、鎌倉時代に補修・改変されたと思われる跡が見られますが、全体としては、制作当初の姿をそのままに伝えていると言えます。

この鎧は、大型の三ツ目札(3枚重ねに補強した小札)を用い、草摺を前後4段、左右5段で構成した上で、前面を2つに分けていない点などにおいて、平安時代後期の大鎧の特徴を有しているのです。

この大鎧の大きな特色は、胴や胸板部分に残る刀傷と見られる傷跡。神社などに奉納することを目的として制作され、社宝として保管されてきた鎧は、実戦において使用されていないのはもちろん、美観維持のために大幅な補修がなされていますが、この赤韋威鎧は、近世以降において大幅な補修が施されることなく、制作時の状況をほぼ残している点においても貴重な一領と言えるのです。現在は、「岡山県立博物館」が所蔵しています。

大鎧①

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大鎧②

大鎧②
日本刀や槍、弓などが攻撃用の武器であるのに対して、甲冑(鎧兜)は自身の身を守る防具(武具)です。平安時代に登場した日本特有の甲冑「大鎧」は、時代を経るにつれて形や性能も変化していきました。当初、大鎧は裾広がりの豪壮な形状でしたが、鎌倉時代頃になると、腰の辺りを絞るように。その目的は、25kgはあると言われている大鎧の重量を肩だけで支えるのではなく、腰の部分でも支えることで、着用者が長時間、馬上で動きやすくすることでした。また、鉄板に絵韋(えがわ)を貼り付けた脇板で左脇の下をカバーすることで隙間をなくし、さらに守りを固めたのです。もっとも、室町時代以降は大鎧の実戦使用は皆無に。ここでは鎌倉時代、南北朝時代に制作された国宝の大鎧、及びそれ以降に制作された代表的な大鎧をご紹介します。

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大鎧の機能

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「大鎧」は、平安時代に登場した「日本式甲冑」。その最大の特徴は、「騎射戦」(きしゃせん)での防御力に優れていることです。大鎧の造りは頑丈で、大きめの箱の中に身体を入れる感じで着用されていました。もっとも、どれだけ頑丈な造りであっても、完全無欠という訳ではなく、隙ができてしまっていたのも、また事実。ここでは、いかにして大鎧の防御力を確保したのかについて、その付属品の機能を通して考察します。

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胴丸鎧

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愛媛県にある「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)には、「大鎧」(おおよろい)と「胴丸」(どうまる)の折衷型のような鎧が所蔵されています。それが国宝「赤糸威胴丸鎧」(あかいとおどしどうまるよろい)。「胴丸鎧」(どうまるよろい)の存在については、「平治物語絵巻」などの合戦絵巻のなかで描かれていることで知られていますが、現存しているのは大山祇神社所蔵の赤糸威胴丸鎧1領のみ。ここでは、幻の鎧とでも言うべき胴丸鎧についてご紹介します。

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胴丸・腹当・腹巻

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平安時代初期まで、武装して甲冑を着る人は「高級武官」が中心でした。ところが、平安時代中期に「武士」が誕生すると、社会体制が変化。武士は武士団を結成し、互いに闘争をはじめます。朝廷は、武士団の実力を認め反乱を抑えようと、宮中や地方などの警護・警備を任せ、治安維持に当たらせるようになるのです。さらに武士は「上級武士」、「一般武士」、「下級武士」へと細分化。ここでは、上級武士が着用した「大鎧」に代替する甲冑として注目された「胴丸」、「腹当」、「腹巻」について詳しくご紹介します。

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当世具足①

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平安時代に登場した「大鎧」(おおよろい)から始まった「日本式甲冑」の系譜は、室町時代末期に大きな転換期を迎えました。それが「当世具足」(とうせいぐそく)の登場です。今の世の中を意味する「当世」と、十分備わっていることを意味する「具足」を呼称としているこの甲冑(鎧兜)は、構造、意匠、素材などにおいて多種多様であり、定まった物がないという風変わりな物。ここでは、それまでに制作されていた日本式甲冑とは一線を画した、新様式の甲冑(鎧兜)である当世具足について概観します。

当世具足①

当世具足②

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「当世具足」(とうせいぐそく)には、槍や鉄砲などのこれまで以上に貫通力の強い武器による敵の攻撃から身を守ることが求められました。そこで胴の材料として、主に用いられていたのが鉄板などの堅固な素材。これらを用いた胴は「板物胴」(いたものどう)と呼ばれ、それまでとは異なる方法で制作されていたのです。ここでは、当世具足の胴制作の主流となっていた板物胴について詳しくご紹介します。

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当世具足③

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「当世具足」(とうせいぐそく)における胴の主流は、(鉄)板を用いた「板物胴」(いたものどう)でしたが、それ以外の材料でも制作されていました。その他の代表的な材料として挙げられるのが、鉄や革などで作られている「伊予札」(いよざね)。この札の両端を浅く重ね合わせて綴じていく手法は、従来に比べ、つなぎ合わせる作業を簡易に行なえることもあり、当世具足制作の現場でも用いられていたのです。ここでは伊予札製の胴をはじめとした、板物胴以外の制作について考察します。

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変わり兜

変わり兜
中世においては、初期の兜である「星兜」(ほしかぶと)に改良を加えた「小星兜」(こぼしかぶと)や「筋兜」(すじかぶと)、「頭形兜」(ずなりかぶと)が出現しました。そして、室町時代末期から江戸時代にかけては、鉄板を打ち出したり、紙や革で様々な物を形作ったりした「形兜」(なりかぶと)や、「張懸兜」(はりかけかぶと)など、従来の兜の概念に収まりきらない兜も登場。武将達は、自らの思想・信条を兜に込めた「変わり兜」を身にまとって戦場に立ったのです。ここでは、数多くの個性豊かな作品が作られた当世具足に付属していた、変わり兜について考察します。

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