日本刀の刀匠・刀工

天下三作とは

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日本には、古くから「鍛冶屋の魂」と「匠の技」を持ち、名刀を作り上げた刀工達が各地にいました。その中でも、山城国(現在の京都府)の「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)、相模国(現在の神奈川県)の「正宗」(まさむね)、越中国(現在の富山県)の「郷義弘」(ごうのよしひろ)の3刀工は、特に名刀工として挙げられる人物です。
江戸時代、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)に命じて編纂させた「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう:世に名高い名刀を収録した台帳)に、この「吉光」・「正宗」・「義弘」の3刀工とその作刀を「名物三作」として記載。吉光・正宗・義弘の3刀工と、その作刀は、名刀の熱心な収集家としても知られる天下人「豊臣秀吉」が愛したことでも知られ、「天下三作」(てんがさんさく)と呼ばれるようになったと言われています。

日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

粟田口吉光(鎌倉時代/山城国)

通称「吉光」と呼ばれる粟田口吉光は、鎌倉中期の人物で、山城国粟田口に住み作刀をした刀工です。「享保名物帳」には16振、焼失した刀剣を含めると34振の刀剣が掲載されています。

名は「藤四郎」(とうしろう)で、「平野藤四郎」(ひらのとうしろう)、「厚藤四郎」(あつとうしろう)、「信濃藤四郎」(しなのとうしろう)、「秋田藤四郎」(あきたとうしろう)といった国宝重要文化財を生み出しました。

  • 刀工「吉光」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

  • 刀剣女子に人気の刀剣をご紹介します。

「短刀」の名手

吉光は、享保名物帳で正宗、郷義弘とともに名物三作に挙げられる以外でも、正宗に並ぶ刀鍛冶と言われ、特に短刀の名手として高く評価されていました。

作風は小板目(こいため)鍛えで、刃紋はほとんどが直刃(すぐは)、腰に「互の目」(ぐのめ:規則正しく繰り返す波状の文様)を連ねるところに特徴があります。

刀剣ブログ「主役をしのぐ名脇役刀工・粟田口吉光の短刀」をご紹介します。

吉光の代表的な刀剣「平野藤四郎」

平野藤四郎
平野藤四郎
吉光
鑑定区分
御物
刃長
30.3
所蔵・伝来
木村常陸介 →
豊臣秀吉 →
前田利家 →
明治天皇 →
宮内庁

名工・吉光作の、短刀の中でも最も大振りな代表作が「平野藤四郎」です。江戸時代に大阪の豪商「平野道雪」(ひらのどうせつ)が所持していたことから、その名が付いています。

安土桃山時代の武将で、「千利休」の弟子としても知られた「木村重慈」(きむらしげこれ)が買い取り、豊臣秀吉に献上。そののち、豊臣秀吉は初代加賀藩(現在の石川県)藩主「前田利長」(まえだとしなが:[前田利家]の息子)に下賜します。

江戸時代になり、前田利長が隠居する際、2代将軍「徳川秀忠」に献上したものの、のちに前田家を訪れた徳川秀忠に、跡継ぎの前田利常(まえだとしつね)が拝領。

再び前田家に戻ってきた「平野藤四郎」は、明治天皇に献上されるまでの200年間に渡り、前田家にて大切に保管されてきました。

皇室・公家に関連する刀剣の歴史などをご紹介します。

吉光の代表的な刀剣「一期一振」

一期一振
一期一振
吉光
鑑定区分
御物
刃長
68.8
所蔵・伝来
毛利輝元 →
豊臣秀吉
短刀作りの名手・吉光が作った唯一の太刀であることから、「細川忠興」(ほそかわただおき:安土桃山時代から江戸時代の武将で茶人)が名付けたとされる「一期一振」。

幾人もの所有者を経て、豊臣秀吉の愛刀となりました。身幅が広い割には長さが短く「猪首切先」(いくびきっさき)と呼ばれる「鋒/切先」(きっさき)が重厚さと力強さを醸し出しています。

豊臣秀吉が詠んだ辞世の句、「露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」とあり、意味は「露が落ちて、すぐに消えてしまうかのような人生。何もかも夢の中で夢を見ているかのようだった」です。この歌のように一期一振は「大坂夏の陣」で「大坂城」(のちの大阪城)落城の際に焼けてしまいます。

しかし、名刀がなくなるのを惜しんだ「徳川家康」の命により再刀され、現在は皇室の所蔵となり、御物として保管されています。

吉光の代表的な刀剣「蜘蛛切丸藤四郎」

蜘蛛切丸藤四郎

蜘蛛切丸藤四郎

御物/脇差 推定制作年代
蜘蛛切丸藤四郎(くもきりまるとうしろう) 愛知県指定文化財 鎌倉時代
刃長 所蔵
32.6cm 熱田神宮

江戸時代中期編纂の「張州雑志」(ちょうしゅうざっし:尾張藩によって編纂された地誌)には、1560年(永禄3年)、「織田信長」が「今川義元」との「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)に臨むにあたり「熱田神宮」に奉納。

かつては、「木曽義仲」として知られる「源義仲」(みなもとのよしなか:[源頼朝]の従兄弟)、そして「源頼光」(みなもとのよりみつ:平安時代の武将)が所持してきました。

「蜘蛛切丸」の号は、持ち主が蜘蛛の妖怪に襲われそうになったときに、蜘蛛切丸藤四郎がひとりでに動き、鞘から抜け出て持ち主を救ったことに由来します。

正宗(鎌倉時代末期~南北朝時代/相模国)

正宗」は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活躍した名工です。「正宗五郎入道」、「岡崎正宗」とも称され、正宗が打った刀剣には様々な伝説があり、同時代の他の刀工だけでなく、後世の人々にも多大な影響を与えました。

「享保名物帖」には、粟田口吉光と郷義弘とともに天下三作に挙げられていますが、掲載された数は41振と最も多く、3人の中でも筆頭との呼び声が高い人物です。

刀  無銘  伝正宗
刀 無銘 伝正宗
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
68.3
所蔵・伝来
孝明天皇→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

「相州伝」と称される作風を確立

正宗は、最初に「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の弟子となり、そののち同門の「新藤五行光」(しんとうごゆきみつ)の養子になったと言われています。

なかでも優れた刀剣を作る「五箇伝」(ごかでん)のひとつに「相州伝」(そうしゅうでん)があり、相州の刀作りの作風を確立させたのが、この正宗です。

相州伝は、湾れ刃(のたれば:焼刃が、ゆったりとした波が寄せるように、山と山の間隔を大きく取った刃文)を主体に、互の目を交えた(にえ:刃と地肌との境に現れる、銀砂をまいたように輝いて見える箇所)の激しい乱れ刃の作風。

国宝だけで9振が現存しており、太刀のほとんどは無銘で、正宗のがある刀剣は「不動正宗」(ふどうまさむね)、「大黒正宗」(だいこくまさむね)、「京極正宗」(きょうごくまさむね)、「本庄正宗」(ほんじょうまさむね)の4振の短刀のみ。

豊臣秀吉が家臣への恩賞などに、正宗作の刀剣を盛んに用いたことから「全日本刀工第一」の名工と評価されるようになったと言われています。

日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

正宗の代表的な刀剣「庖丁正宗」

現存する「庖丁正宗」とされる短刀は3振存在し、単寸で重ね、極めて薄く、包丁のような姿が似通っています。いずれの3振も、名のある大名家に所蔵されていた刀剣です。

永青文庫所蔵の庖丁正宗は、忍藩(現在の埼玉県行田市)松平家から伝来。もとは「関ヶ原の戦い」の西軍武将として知られる「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)の所有品であった刀剣です。

松平家に渡ったのち、また人手に渡り、1936年(昭和11年)に細川侯爵家の所有となり現在に至ります。享保名物帳に記載される名刀で、現在は3振すべて国宝となっています。

正宗の代表的な刀剣「日向正宗」

日向正宗
日向正宗
-
鑑定区分
国宝
刃長
24.7
所蔵・伝来
豊臣秀吉 →
石田三成 →
水野勝成 →
紀州徳川家

日向正宗」は、無銘であるものの、正宗の最高傑作として名高い名刀です。

福山藩(現在の広島県東部)初代藩主「水野日向守勝成」(みずのひゅうがのかみかつなり:日向守は官職名。名前は[水野勝成])が所持していたことからその名が付いていますが、実はもとは「石田三成」が所蔵していた刀剣。

「関ヶ原の戦い」の折、石田三成が妹婿の「福原長隆」(ふくはらながたか)に与えていたこの短刀を、水野勝成が策略を弄して福原長隆から奪い取ってしまいました。

当時、福原長隆が守っていたのが「大垣城」(現在の岐阜県大垣市)であったことから「大垣正宗」の異名でも知られている名刀です。

日向正宗は、その後、水野勝成の借金の形(かた)となり、紀州藩(現在の和歌山県)藩主「徳川頼宜」(とくがわよりのぶ)の手に渡ります。以降、紀州徳川家で代々引き継がれ、昭和時代になり三井家に売却。

現在は、三井家が運営する三井記念美術館にて保管されています。

刀剣ブログ「日本刀と包丁」を紹介します。

郷義弘(南北朝時代/越中国)

「郷義弘」は、南北朝時代、越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)に住んだことから「郷」の「義弘」と呼ばれました。

もとは越中国「松倉城」城主の桃井氏の家臣でしたが、刀鍛冶を好み、鎌倉に出て、のちに天下三作のひとりに挙げられる名工・正宗に師事、その秘技を修得。越中国に戻り作刀し、27歳の若さで亡くなっています。

刀 無銘 伝江
刀 無銘 伝江
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
70.1
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

  • 日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

  • 刀工「江義弘」の情報と、制作した刀剣をご紹介します。

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正宗十哲のひとり

鎌倉時代末期の名工・正宗の弟子の中でも、特に優れた技能を持った10人を「正宗十哲」(まさむねじってつ)と呼び、そのひとりが郷義弘です。

なかでも郷義弘の刀剣は、各大名がこぞって手に入れたがったとされていますが、実は、義弘という銘がある刀剣は1振もなく、無銘の作品となっています。

また早くに亡くなっていることもあり「郷とお化けは見たことがない」と称されるほど、郷義弘の作品は、刀剣の中で最も入手困難な刀剣のひとつです。それにもかかわらず、享保名物帳には郷義弘の刀剣は11振、焼失した刀剣を加えると20振も掲載されており、高く評価されていたことが分かります。

鍛えはどれも精美。作風は主に2種類で、直刃を基調とした大和風の刀剣と、湾れ調に沸が深く付いた独自の刀剣です。

「郷」は「江」(発音は同じ)ともされ、代表作の「富田江」(とみたごう)、「稲葉江」(いなばごう)などは国宝に「金象嵌銘 義弘 本阿花押」(きんぞうがんめい よしひろ ほんあかおう)などは重要文化財に指定されています。

郷義弘の代表的な刀剣富田江

富田江
富田江
-
鑑定区分
国宝
刃長
64.8
所蔵・伝来
富田一白 →
豊臣秀吉 →
前田利長 →
徳川秀忠 →
前田家 →
公益財団法人前田育徳会

富田江は、稲葉江とともに、現存する郷義弘の作品中で、出来と健全さの両面から双璧とされています。

江戸時代には、「江戸第一」と称えられた刀剣でもありました。享保名物帳によると、「富田一白」(とみたいっぱく:別名を富田左近[とみたさこん]とも。戦国時代から安土桃山時代に活躍した大名)が所持していたことから富田江と名付けられ、のちに豊臣秀吉の所有となり、そののち、豊臣秀吉の遺物として前田利長が拝領しました。

郷義弘の代表的な刀剣「金象嵌銘 義弘 本阿花押」

郷義弘と銘の入った刀剣は現存していませんが、この「金象嵌銘 義弘 本阿花押」には義弘と刻まれています。

これは刀剣鑑定士でもあった「本阿弥」があとから義弘と刻んだからです。江戸時代の大名・桑名藩(現在の三重県)藩主「本多忠政」(ほんだただまさ:[本多忠勝]の息子で、2代目桑名藩主)が所有者と言われています。

本多忠政は、徳川家康に仕え「関ヶ原の戦い」では徳川秀忠に従い、信濃国「上田城」(現在の長野県上田市)の攻撃などで活躍した人物。大坂夏の陣では、292名の首を取ったことでも知られており、その功績により、のちに15万石の姫路藩(現在の兵庫県)藩主となりました。

御物/太刀
金象嵌銘 義弘 本阿花押
(きんぞうがんめい
よしひろ ほんあかおう)
無銘であったが本阿弥があとから
「義弘」と刻む
推定制作年代 刃長
室町時代 69.4cm
反り 所蔵
2.4cm 京都国立博物館
  • 折紙の起源である本阿弥家とのつながりや書式や様式など、日本刀に関する基礎知識をご紹介します。

  • 天下三作

    様々な「名刀」と謳われる刀剣を詳しくご紹介します。

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正宗十哲

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1945年(昭和20年)、日本は連合国に無条件降伏し、太平洋戦争が終結しました。戦後日本に進駐したアメリカ軍は、それまでの国家最高元首としての天皇のあり方を否定し、国と国民統合の象徴という民主主義下での新しい概念を導入しました。 それに伴い、それまで天皇の勅任という形を採り、皇室・皇族の御用を中心として制作を行なっていた「帝室技芸員制度」は廃止されます。そして、あらためて創り出されたのが、一般に「人間国宝」と呼ばれている、「重要無形文化財制度」です。ここでは、この「人間国宝」について解説します。

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「無鑑査」(むかんさ)とは一般的に、芸術などの分野において、作者の過去の実績に照らして特定の展覧会などにおいて「(主催者側の)審査・鑑査なしで出品が可能」であると認められることを意味しています。「日本刀」の世界における無監査は、「公益財団法人 日本美術刀剣保存協会」が主催する「現代刀職展」(旧新作名刀展)に出品した作品について、受賞審査を必要としない資格(公益財団法人日本美術刀保存協会無鑑査選任規程第2条)のこと。無鑑査となった刀匠の作品は、別格扱いとなるのです。

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