「二王清綱」(におうきよつな)が作り、「内藤氏」が所有していたとされる重要刀剣の刀「伝二王」。「二王派」は、「大和鍛冶」(やまとかじ)達とも親交が深かったことから、その影響が作刀にも色濃く反映されており、本刀においても、その独特な風格を漂わせているのです。今回は、この二王清綱の持つ技術が、十分に注入された刀である伝二王の歴史や特徴を紐解いていくと共に、二王派と大和鍛冶との関係などについても掘り下げていきます。
内藤氏は中世の日本において、周防国(すおうのくに:現在の山口県東部)や長門国(ながとのくに:現在の山口県西部)など、全国の拠点で大きく栄えた豪族、大名の一族として知られています。また、場所によって、複数の支流に家系が分かれているのも内藤氏の特徴です。
「内藤盛家」(ないとうもりいえ)という、「源頼朝」(みなもとのよりとも)の御家人が先祖にあたるとされる内藤氏。鎌倉時代に活躍したあとは、応仁年間(1467~1469年)の頃、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東半部)に移り住むこととなります。
その後、内藤重清(ないとうしげきよ)が西三河の国人衆(こくじんしゅう:南北朝、室町時代の地方豪族)のひとりとして頭角を現し、松平氏に服属する形で勢力を拡大。戦国時代の中でも順調に戦功を挙げていき、「内藤清長」(ないとうきよなが)の嫡子「内藤家長」(ないとういえなが)が、同氏で初めて大名にまで上り詰めたのです。
松平氏に服属していたため、戦国時代では、当然「徳川家康」方に付くことになりました。護衛兼御意見番として、徳川家康のそばに仕えることもあったとのこと。そして、この三河を拠点とした内藤氏は、江戸時代になると、それまでの数々の功績が讃えられ、数家に分かれて譜代大名として様々な地方で隆盛しました。明治維新の頃に存在した大名内藤家は、全部で6家。
そのなかでも、安房国勝山藩(あわのくにかつやまはん:現在の千葉県安房郡)藩主「内藤清政」(ないとうきよまさ)の系統は、「新宿区内藤町」という地に、その名が残されているのです。また、内藤氏には、この三河系の内藤氏と祖を同じくする「丹波系」(たんばけい)と、「周防長門系」(すおうながとけい)の2つの支流が存在しています。
細川高国
丹波系の内藤氏は、「細川氏」(ほそかわし)の直属の家臣として仕えていました。
「応仁の乱」が起こった際、但馬国(たじまのくに:現在の兵庫県北部)から出撃した「太田垣氏」(おおたがきし)との交戦などで一定の戦功を挙げ、丹波国(たんばのくに:現在の京都府中央部、及び兵庫県東部)の守護代(しゅごだい:鎌倉時代、及び室町時代に、守護の代官として任国に置かれた有力御家人)として大きく活躍していたのです。
そして「内藤貞正」(ないとうさだまさ)の時代、細川氏が「細川高国」(ほそかわたかくに)派と「細川晴元」(ほそかわはるもと)派に分裂すると、細川高国派の重臣として付き従っています。
しかし、「波多野稙通」(はたのたねみち)・「柳本賢治」(やなぎもとかたはる)兄弟が細川高国政権を倒したことで、内藤氏の勢力に陰りが見え始めたのです。
八木城
さらに、内藤貞正の子「内藤国貞」(ないとうくにさだ)が波多野氏に破れたことで状況が悪化。
ついには内藤氏が居城としていた「八木城」(やぎじょう:現在の京都府南丹市)が「波多野秀忠」(はたのひでただ)によって陥落させられ、丹波を奪われる結果になりました。
その後は、「内藤宗勝/松永長頼」(ないとうそうしょう/まつながながより)の代で波多野氏を討つことに成功し、丹波の支配も一旦取り戻します。
しかし、その栄華も束の間、1578年(天正6年)、「織田信長」の丹波攻略に伴う「明智光秀」(あけちみつひで)の攻撃により、八木城は再び陥落。こうして、戦国大名・丹波系の内藤氏は、滅亡という道を辿ることになったのです。
周防国に定住し、大内氏に仕えていた周防長門系の内藤氏。室町時代中期頃からは、長門国の守護代も務めていました。長門国の守護大名、及び戦国大名であった「大内氏」(おおうちし/おおうちうじ)の最盛期を支え続けながら、その勢力を伸ばしていった一族です。
内藤興盛
戦国時代には、「大内義隆」(おおうちよしたか)の側近として仕えた「内藤興盛」(ないとうおきもり)が、安芸国(あきのくに)などを領していた「毛利隆元」(もうりたかもと)のもとに自身の娘を嫁がせ、毛利家との親類関係を強化していたことも。
ところが、順調に勢力を伸ばしている最中であった1551年(天文20年)、大内氏の家臣「陶隆房/晴賢」(すえたかふさ/はるかた)が起こした「大寧寺の変」(たいねいじのへん)によって大内氏が実質的に滅亡したことで、状況が一変。
内藤家の中でも対立が激化し、「毛利元就」(もうりもとなり)派であった「内藤隆春」(ないとうたかはる)の自害などを経て勢力が弱まっていきました。最終的には子孫が長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)藩士として存続するものの、それまでのような勢力はなくなってしまったのです。
内藤昌秀
内藤氏の一派は、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)にも存在していました。甲斐系の内藤氏は鎌倉時代、「甲斐源氏」(かいげんじ)に従ったとされる「工藤氏」(くどうし)の系統である一族です。
しかし、戦国時代に入ると「武田信虎」(たけだのぶとら)に反抗したことで、断絶の憂き目に。その際、「工藤下総守虎豊」(くどうしもうさのかみとらとよ)が唯一亡命に成功。
のちに、その子である「内藤昌秀/昌豊」(ないとうまさひで/まさとよ)が「武田信玄」(たけだしんげん)に側近として仕え、甲斐系の内藤氏の歴史を、辛うじて存続させることができました。
そのあと内藤昌秀は、1561年(永禄4年)の「川中島の戦い」(かわなかじまのたたかい)での活躍を皮切りに、徐々に武功を挙げていき、「箕輪城」(みのわじょう:群馬県高崎市)の城代(じょうだい:城主の留守を任され、城を管理していた者)になるところまで上り詰めていきます。しかし、その栄華は短いものでした。
内藤昌秀は、1575年(天正3年)「長篠の戦い」(ながしののたたかい)にて討死。内藤昌秀の養子であった「内藤昌月」(ないとうまさあき)が家を引き継ぎますが、仕えていた武田氏の滅亡により後ろ盾を喪失。内藤昌月の努力の甲斐があって、なんとか「後北条氏」(ごほうじょうし/ごほうじょううじ)5代当主「北条氏直」(ほうじょううじなお)に降ることができたものの、内藤昌月の死後、今度は後北条氏が「豊臣秀吉」に滅ぼされます。結局、内藤氏の所領は失われてしまったのです。