歴史上の実力者

陶晴賢 ~主君 大内義隆への裏切り~

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主君への忠義を尽くす家臣がいる一方で、生き馬の目を抜く戦国時代においては裏切りや謀反も当たり前。主君・大内義隆(おおうちよしたか)にクーデターを起こした陶晴賢(すえはるかた)もそのひとり。幼い頃から仕えた主君を裏切った理由とは?

大内義隆の寵童となった陶晴賢

1507年(永正4年)に周防・長門・石見・豊前の守護大名、大内義興(おおうちよしおき)の嫡男として生まれた大内義隆(おおうちよしたか)。大内氏は渡来人(4~7世紀頃に、中国大陸・朝鮮半島から日本に移住した人々)の末裔を自称する珍しい大名家でもありました。

この頃から、大内氏は、尼子氏との間で度々紛争が起きています。1528年(享禄元年)に大内義隆が家督を相続すると、筑前や安芸、備後も攻略。西国随一の戦国大名と呼ばれるまでになりました。

一方、陶晴賢(すえはるかた)は、1521年(大永元年)に大内氏の重臣、陶興房(すえおきふさ)の次男として誕生しました。ちなみに「陶晴賢」の名前の方がよく知られていますが、陶晴賢を名乗ったのは「大寧寺の変」(たいねいじのへん)、謀反後のことです。初名を「陶隆房」(すえたかふさ)と言います。

大内義隆は、宣教師のフランシスコ・ザビエルが呆れたほどの男色家。美少年だった陶晴賢(実際には陶晴賢が美少年であったという記録は残っていませんが、兄の陶興昌[すえおきまさ]は美少年として知られていたようです)は、大内義隆の寵童(ちょうどう:特別な寵愛を受ける小姓)として仕えるようになりました。

「大内義隆記」(おおうちよしたかき)には、大内義隆が陶晴賢に贈った歌が紹介されており、当時の2人の関係を推し量ることができます。

「もぬけなり とせめて残ふば空蝉の 世の習ひ共思ひなすべし」

陶晴賢がまだ「梧楼」(五郎:ごろう)と呼ばれていた若い頃、大内義隆は陶晴賢への恋慕から、自身の居城から40kmも離れていた富田若山城に通っていました。道中にある松ヶ崎の寺で陶晴賢と逢瀬をした大内義隆。夏の夜は短くて、ゆっくりする間もなく帰らなければならなかった無念の歌を詠んで、翌日、富田若山城の陶晴賢に贈りました。

  • 大内義隆

    大内義隆

  • 陶晴賢

    陶晴賢

ナンバー2としての陶晴賢の働き

毛利元就

毛利元就

青年となった陶晴賢は武略に優れ、武断派(武力をもって政治を行なおうとする派閥)の筆頭として大内義隆をサポートするようになります。

1539年(天文8年)に父・陶興房が病死すると、19歳で陶家の家督を継ぎます。

その翌年、出雲の尼子晴久(あまごはるひさ)が大内氏傘下の毛利元就(もうりもとなり)の居城である吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)を攻めました。

陶晴賢は、毛利氏援軍として大内軍の総大将を務めこの「吉田郡山城の戦い」に出陣。見事尼子氏を撃退することに成功し、勝利をおさめます。

この勝利に勢い付いた大内義隆と陶晴賢は、1542年(天文11年)に尼子氏の本拠地である出雲の月山富田城(がっさんとだじょう)に遠征します。「第一次月山富田城の戦い」と呼ばれるこの戦い、体勢を整えてから攻めるべきであると主張する毛利元就と、力攻めで一気に攻めるべきという陶晴賢らの主張に分かれます。

大内義隆は陶晴賢らの主張を採用し月山富田城を攻めますが、最初こそ大内軍優勢であったものの、尼子軍は持久戦で対抗。長期化する戦いのなかで大内軍の士気は下がり、尼子軍に寝返る者が続出します。やむなく大内義隆は軍を撤退させますが、尼子氏の追撃は激しく、命からがら帰国。途中で大内義隆の嫡男・大内晴持(おおうちはるもち)が船の転覆で溺死するという大きな痛手を負いました。

そしてこの敗戦は、蜜月だった大内義隆と陶晴賢の関係にも暗い影を落とします。

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愛憎のもつれが引き起こした「大寧寺の変」

大内義隆は第一次月山富田城の戦いの敗戦によって、戦への興味を失っていきました。もともと公家趣味を好む文化人であった大内義隆は、文治派(法令・教化などで政治を行なおうとする派閥)の家臣である相良武任(さがらたけとう)を重用します。

そして応仁の乱で荒れた京都を離れ、山口に滞在している公家達と遊び耽るようになりました。また、陶晴賢ら武断派の家臣を遠ざけるようにもなり、大内義隆の家臣達は文治派と武断派で対立するようになります。

陶晴賢は相良武任を敵対視していたため、身の危険を感じた相良武任は、美人と評判の自身の娘と陶晴賢の子、陶長房(すえながふさ)を結婚させることで和解しようと提案。しかし陶晴賢は身分が違い過ぎると言ってこれを拒否。反って怒りを増幅してしまいました。

この頃になると大内義隆と陶晴賢の関係も冷えきっていました。

1550年(天文19年)8月、陶晴賢は毛利元就と吉川元春(きっかわもとはる)に密書を送り、大内義隆を廃し、大内義隆の嫡子である大内義尊(おおうちよしたか)に跡目を継がせる旨を伝え、協力を仰いでいます。

そして翌1551年(天文20年)8月、陶晴賢はとうとう武断派の家臣を集めて挙兵しました。

この大寧寺の変に集まった軍勢は武断派が5,000~10,000人であったのに対し、文治派は2,000~3,000人ほど。大内義隆は大寧寺に逃げ込み戒名を授かって自害、嫡子の大内義尊と相良武任も捕えられ殺害されてしまいました。このとき、山口に滞在していた公家達もすべて斬殺されています。

大寧寺の変は不甲斐ない主君に愛想をつかした家臣による下剋上事件ですが、その根底には大内義隆からの寵愛を失った陶晴賢の相良武任への嫉妬があったとも言われています。

大内義隆亡きあとの陶晴賢

クーデターを成功させた陶晴賢は、豊後大友氏の20代当主、大友義鑑(おおともよしあき)の次男で、大内義隆の甥でもある大友晴英(おおともはるひで:のちの大内義長)を大内氏の新当主に擁立し、大内氏の実権を握りました。このとき陶晴賢は陶隆房の名を捨て「陶晴賢」を名乗るようになりました。

しかし傘下の領主達のなかには陶晴賢の政治に反発する者も多く、1553年(天文22年)には石見国三本松城(現在の津和野城)城主の吉見正頼(よしみまさより)が挙兵します。

吉見正頼の正室は大内義隆の姉であり、大内義隆とは義兄弟の関係でした。その吉見正頼討伐のため陶晴賢も挙兵、1555年(天文24年)3月に石見の吉見正頼(よしみまさより)との間で「三本松城の戦い」が勃発します。陶晴賢自身もこの戦いに参加しますが苦戦。毛利元就らに出陣を要請します。

ところが毛利元就らは出陣しませんでした。陶晴賢が三本松城の戦いで苦戦している間に毛利氏は大内氏の傘下から離れることを決め、安芸の諸城を次々と攻略していきます。

そして日本三大奇襲(河越城の戦い、桶狭間の戦い厳島の戦い)に数えられる「厳島の戦い」(いつくしまのたたかい)の前哨戦とも言われる「折敷畑の戦い」(おしきばたのたたかい)で陶晴賢の家臣、宮川房長(みやかわふさなが)が討たれます。そして毛利元就の謀略により、陶晴賢の右腕であり名将の江良房栄(えらふさひで)を、自らの指示で暗殺することになってしまいました。

水軍

水軍

陶晴賢は慌てて大軍を率いて安芸に侵攻しますが、またも毛利元就の謀略により厳島に誘い出されます。

豪雨の翌朝、大内・陶軍は陸から毛利軍に、海上からは毛利氏に味方する村上水軍に攻撃を受け、大混乱に陥ります。狭い島内では、大軍はまともに動くことができなかったのです。

こうして大内・陶軍は壊滅しました。陶晴賢は山口に戻って巻き返しを図ろうとしますが、厳島から脱出することはできませんでした。陶晴賢は自害し、残された大友晴英も1557年(弘治3年)に毛利軍によって自害に追い込まれます。

西国随一の戦国大名と称された大内氏は、大寧寺の変から僅か6年で滅亡してしまいました。

陶晴賢 ~主君 大内義隆への裏切り~

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