「川中島の戦い」とは、1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)の12年間、5回に亘る伝説の合戦の総称です。宿敵である甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、北信濃の支配権を巡って争いましたが、長い戦いにもかかわらず勝敗はついていません。 1561年(永禄4年)の第4次合戦の激戦が広く知られているため、その戦場となった地名から、他の場所で行なわれた戦いも含めて川中島の戦いと呼ばれていますが、一般的には川中島の戦いと言ったときには、第4次合戦を指します。
上杉謙信と武田信玄
なぜ「川中島の戦い」が起きたのかは諸説ありますが、1番重要な点は、川中島が犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)が合流する地点で、越後と信濃を結ぶ交通の要所だったことです。肥沃で豊かな土地であったため、鎌倉時代から幾度となく合戦が行なわれてきました。武田信玄と上杉謙信もこの地を巡って長い間争ってきたのです。
甲斐の武田信玄は、「戦国最強」と言われた武田軍団を率いる強烈なリーダーシップを持った武将で、信玄の代で武田氏の領地は7倍に拡大しました。信濃制覇を目指す信玄は北信濃へ侵攻、この地を治めていた「村上義清」という豪族を追い出してしまいます。
一方、越後の上杉謙信も「軍神」、「越後の虎」と呼ばれた戦の天才で、越後の国の統一を果たしただけでなく、内政面でも力を発揮、国を繁栄させた名君です。彼は非常に義理堅く、他国からの援軍要請に幾度となく出兵しました。このときも、義清や自分と親戚関係にある北信濃の豪族から助けを求められ、戦いに介入します。
その結果、戦国最強の2人の武将が北信濃の地を舞台に戦うこととなったのです。
川中島の戦いは、「戦国史上もっとも謎に満ちた戦い」と言われています。非常に知名度の高い戦いにもかかわらず、その実態がほとんど分かっていないからです。現在の定説のベースとなったのは、武田氏の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)ですが、明治時代には資料的価値を疑われています。現在は再評価されてはいますが、なお事実誤認の部分も多いのは明らかです。
他にこの戦いに関する信頼の置ける1次資料がほとんど存在せず、通説では5回の合戦があったとされているものの、2回だったと主張する学者もいる程。この時期に、信玄と謙信の間に大きな戦いがあったことは間違いありませんが、勝敗がはっきりとついていないために、どちらも積極的に記録を残さなかったのではないか、とも考えられています。
川中島の戦いをここまで有名にし、ドラマティックな合戦として、数々の軍記物語に取り上げられてきたのは「戦国随一の武将・信玄と謙信が一騎打ちをした」とされているためですが、その信憑性は疑問視されています。
戦国最強の武田軍団を率い、敵なしと思われた信玄ですが、謙信のことは「日本無双の武将」(日本に2人といない武将)と非常に高い評価をしていました。そのため、この自分でもそう簡単には勝てないと考え、のらりくらりと直接対決は避けてきたのです。川中島の5回の戦いも、激しい戦いとなった第4次を除いては、両者にらみ合ったまま撤退するということを繰り返しています。
策を弄して直接の戦いを避けようとする信玄に腹を立て、戦いから逃げられないようにと謙信が挑んだのが、第4次川中島の戦いだったと言われています。とはいえ、総大将が自ら敵陣に乗り込むようなことは、通常はありえないと言うのが定説です。
川中島の戦いの勝者はどちらかというのも、長い間議論となっていますが、結論は出ていません。武田軍の死者は4,000人と言われ、軍師の山本勘助、信玄の弟で副将の武田信繁など名だたる武将が討ち死にしていますが、上杉軍は死者3,000人、武将クラスで亡くなった人はいません。
犠牲者の数で言えば上杉軍の勝利と言えますが、上杉軍は、第4次の戦いで先に撤退しており、北信濃の土地を手に入れたのは武田軍なので、武田の勝利とも受け取れます。ただ、謙信には土地の所有欲がまったくなく、北信濃の豪族に乞われての「義の戦い」でしたので、土地の所有については謙信にとってはどちらでもよく、双方の目的が違うため、何を持って勝敗を判断するか難しい戦いと言えます。
12年にも及ぶ長い長い川中島の戦いは、1553年(天文22年)に信玄が北信濃に出兵したことから始まります。
交通の要所である北信濃・川中島は、領土拡大を目指す信玄にとってはぜひとも押さえておきたい場所ですが、謙信にとっても、自分の本城「春日山城」の目と鼻の先。ここまで信玄の領土が拡大すれば、いつ自分の本拠地・越後に攻め込まれてもおかしくありません。平和維持のため、上杉とは良好な関係にある小領主たちに治めていてほしいところ。しかし、信玄が一線を越えて踏み込んできたのです。
1553年(天文22年)4月、武田軍の攻略により、葛尾城を捨て越後の国へ逃げて来た北信濃の国衆の一人・村上義清は謙信に助けを求めます。5月、北信濃の国衆と謙信が支援した兵5,000人で村上義清は「更科八幡の戦い」(さらしなはちまんのたたかい)で勝利を収め、葛尾城を取り戻します。
武田軍が兵を引き、収束したように見えたものの、7月に武田軍は再び北信濃へ侵攻、塩田城を攻め、村上義清はまたもや謙信に支援を求めます。9月1日、謙信は自ら北信濃へ出陣し「布施の戦い」で順調に勝ち進みますが、塩田城に籠もる信玄にはうまくかわされて攻撃できないまま、9月20日謙信は陣を引き上げてしまいます。それを見届けた信玄も、10月17日に甲斐へ戻ります。
更科八幡の戦いでは、謙信本人が出陣した記録は見当たらず、兵を貸しただけなのではないかと言われています。ですから、信玄と謙信という2大武将の直接対決は布施の戦いがはじめて。お互いに強敵と認めている2人のこと、最初から激しい決戦を繰り広げるつもりはなく、この先本格的に戦うために「まずはお手並み拝見」と言ったところです。
その証拠に、この直後に謙信は上洛し、後奈良天皇より「私敵治罰の綸旨」を賜ります。これによって、謙信は「官軍」とされ、敵対する者は「賊軍」(朝廷の敵)となりました。こうして武田を討つ大義名分を得たのです。
また、信玄も翌年には駿河の今川義元と、相模の北条氏康と「甲相駿・三国同盟」を結び、守りを固めます。その上で謙信の家臣・北条高弘に誘いをかけ、乱を起こさせますが鎮圧され、北条高弘は再び上杉家に仕えることに。常に慈悲深くあろうとした謙信は、自分を裏切った家臣に対しても処罰することなく、ほとんどの場合許していたのです。
第1次合戦の2年後の1555年(天文24年)、信玄は善光寺の別当・栗田永寿に接近し、永寿は武田方に寝返ります。これによって信濃の勢力図が大きく変わりました。長野盆地の南半分が武田氏の勢力下に置かれ、北部の上杉方へのけん制が強まったのです。
3月には武田軍の支援を受けた栗田永寿が旭山城に籠城し、4月、善光寺を取り戻すため、謙信が出陣します。7月に入って信玄が到着し、犀川を挟んで両軍が対峙。上杉軍が川を渡って攻撃を仕掛けるも決着はつかず、200日もの間対陣を続けることになります。この長期のにらみ合いは、双方の軍を消耗させました。特に甲斐から遠征してきている武田軍は兵糧を調達するのに苦労したと言われています。
10月15日、信玄側から駿河の今川義元の仲介で和睦が提案されました。両軍撤退の申し出に、謙信が示した条件は、旭山城の破城と、北信濃の国衆に領土を返却することでした。結果、上杉の北信濃における勢力は確保されることになり、第2次合戦だけ見れば、上杉軍の勝利と言えます。しかし同じ頃、信玄は木曽まで勢力を広げ、南信濃全体が武田の領地になりました。こうして、信玄は虎視眈々と信濃への領土拡大を進めていくのでした。
第1次合戦で謙信を侮れない敵とみなした信玄は、正攻法では簡単に勝てないと、謙信の臣下に誘いをかけたり、上杉方の北信濃の国衆を味方に引き入れて攻略したり、あの手この手を使いますが、謙信にはそういった策が通じません。信玄は無駄な戦いを好まず、勝利を確信できる戦しかしなかったと言います。謙信に確実に勝つ方法を考えた結果、合戦で不在がちな謙信の留守を狙うか、雪が多い越後の冬を狙うのが一番と考えます。
一方の謙信は、相次ぐ家臣の争いや信濃の調停や戦いで心身ともに疲れ果て、1556年(弘治2年)3月、突然出家を宣言、6月にはひとり高野山へ向かいます。しかし、家臣らの必死の説得で断念して越後に戻り、武田に内通した家臣・大熊朝秀と戦って打ち破ったのです。
謙信の出家騒動は、期せずして上杉の結束を強め、求心力を高める結果になりました。家臣たちは謙信の存在なしでは越後に混乱を招くと恐れ、今後の忠誠を誓う「誓詞」を差し出して、その後は落ち着いていったのです。謙信はそこを狙ったのではないかとも、いや本気で出家を願っていたのだろうとも言われていますが、本当のところは分かっていません。
その間も、信玄は謙信との和睦などなかったかのように、北信濃の国衆を懐柔し、侵攻の準備を着々と進めていました。1557年(弘治3年)2月、豪雪の越後で上杉軍が身動きできない時期を狙って、武田軍は善光寺西北の葛山城を攻め、落城させます。謙信は、狡猾な信玄のやり方に激怒しますが、悔しい思いをしながらも雪解けを待って4月に出陣。
謙信は武田方に奪われていた北信濃の城を次々と攻め落とし、さらに武田領の信濃中部へと深く侵攻して行きますが、武田軍は決戦を避けたあと、再び北信濃へ侵攻。8月下旬に上野原で合戦を行ないますが、小競り合い程度で全面衝突とはならず、またもや決着はつきませんでした。謙信は大きな成果を上げることなく、9月には撤退。翌10月には信玄も引き上げました。
第3次合戦のころより謙信は、将軍・足利義輝から上洛(京都に入ること)を促されるようになりました。無敵を誇る「軍神」、「越後の虎」の名は、室町幕府の勢力回復を願う将軍のいる中央・京都にまでとどろき渡っていたのです。
また、関東に勢力を伸ばす北条氏康に破れ、越後に追いやられていた関東管領・上杉憲政によって、上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し出られていたため、将軍の許しを得る目的で上洛を果たします。
京都では、将軍義輝や正親町天皇(おおぎまちてんのう)に拝謁して厚遇され、関東管領に任命されます。こうして大義名分を得た謙信は、関東制覇をもくろむ北条氏康との対立が強まっていくことに。
1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」が起こり、氏康と同盟を結んでいた今川義元が戦死し、北条氏の勢力がやや弱まります。この好機を逃さず出陣した謙信に、関東の多くの大名が味方に付き、なんと10万もの兵が集結しました。
謙信率いる大軍は、武蔵から鎌倉まで進軍し、次々と城を攻略。ついに氏康の籠城する小田原城を包囲しますが、「難攻不落」と言われる城の包囲は1ヵ月以上に及びます。そこへ謙信の関東出兵の隙を突いて信玄が北信濃に侵攻したという知らせが入ります。それをこのまま放置すれば、信玄に本拠地・越後まで侵攻を許してしまうかもしれません。謙信は、やむなく小田原城から撤退することにしました。
このように、たびたび信玄に謀略を仕掛けられ妨害されたことで、謙信の怒りは頂点に達していました。謙信は、関東平定のためには武田軍に決定打を与え、北信濃への侵攻をあきらめさせねばと決意します。そのため第四次合戦では、今までのらりくらりと逃げていた信玄が、直接対決せざるを得ないような作戦を考えるのでした。
いよいよ、川中島の戦いのクライマックス、唯一大規模な戦いとなった第4次合戦です。
決戦
信玄は北信濃に新しく海津城を築城し、それを拠点に勢力を伸ばしていました。謙信は、1万3,000の兵を率いて、海津城の向かいにある妻女山に布陣します。対する武田方は、2万の大軍を率いており、数では謙信に勝っていましたが、なおも信玄は慎重でした。しばらくにらみ合った後、家臣たちに進言されて、ついに信玄は決戦を決意します。
1561年(永禄4年)9月9日、天才軍師・山本勘助の提案で、兵を2手に分けて、信玄率いる本隊8,000は八幡原に布陣し、本隊より規模の大きな別働隊12,000を妻女山へ向かわせました。山にいる上杉軍をつついて平野に追い込み、そこを待ち伏せて勝つという作戦です。この作戦は、木をつついて驚いて飛び出した虫を食べる啄木鳥(キツツキ)に似ていることから「啄木鳥戦法」と名づけられました。
ところが、海津城からの炊煙の量が増えていることから、謙信は武田方の作戦を察知します。恐るべき観察眼。謙信は、一切物音を立てないよう兵に命じ、夜の間に妻女山を降り、ひそかに八幡原に布陣しました。翌朝、深い霧が晴れて、目の前に謙信の軍が現れたとき、信玄はがく然とします。そこへ上杉の攻撃が始まりました。出し抜かれた形の武田軍は劣勢となり、信玄の弟で副将の武田信繁、軍師・山本勘助など、名だたる武将が討ち死にする結果に。
ただこれに関しては諸説あり、啄木鳥戦法などなく、謙信も妻女山に布陣しておらず、両軍とも霧の中で意図せず遭遇して衝突した結果だった、という説もあります。常識として、死傷者が8,000人にも及ぶ前にどちらも撤退しなかったのは、濃霧で大混戦になり、いたずらに死傷者を増やしたためではないかと考えられるからです。
しかし、ここは定説どおりに話を進めます。
武田軍の別働隊は、攻め込んだ妻女山がもぬけの殻なのに気付くと、慌てて八幡原に向かいました。それまで優勢だった上杉軍は、逆に形勢不利に。両側から武田軍に攻められる形となり、乱戦となった結果、総大将の謙信自らが信玄の本陣に突入します。ここで床几に座る信玄に謙信自らが切りかかり、信玄は軍配でこれを受け止めますが、肩を負傷。家臣が謙信の馬を刺して信玄は助かった、というのが2人の一騎打ちの有名なシーンです。
「甲陽軍鑑」には、「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」と書かれています。合戦後に、両軍とも勝利を主張していますが、明確な勝敗はついていません。
彌彦神社
その後も謙信は関東に攻め入るたびに信玄に北信濃に侵攻され、背後を脅かされ続けました。
1564年(永禄七年)6月24日、信玄への怒りに燃える謙信は、彌彦神社に願文「武田晴信悪行之事」を奉納し、必ず退治すると誓っています。
「川中島最後の戦い」と言われる第5次合戦は「塩崎の対陣」と呼ばれるように、合戦ではなく、対陣で終わりました。1564年(永禄7年)、飛騨国の国衆同士の争いに武田・上杉両氏が双方それぞれに支援して介入。川中島に出陣した謙信に対して、信玄は塩崎城まで進出しますが、またもや決戦は避け、2ヵ月に亘り両者はにらみ合います。10月になって秋も深まり、両軍の撤退で終わりました。
以降は、信玄は今川義元亡きあとの東海道を攻め、謙信は関東に注力し、北信濃での勢力争いには終止符が打たれた形となりました。
織田信長
12年にも及ぶ長い長い川中島の戦いは決着がつかないまま終わりました。比類なき名将同士の戦いであり、歴史に残る名勝負と言えますが、武田・上杉双方にとっては、痛恨の戦いだったとも言えます。
武田信玄と上杉謙信という2人の最強の武将が長い戦いを信濃で繰り広げている間に、西では織田信長が台頭し、天下統一へ駒を進めていきました。もしも信玄と謙信が同盟を結んで信長に対抗していたら、あるいは歴史は大きく変わっていたかもしれません。
もしくは、信玄か謙信、どちらかがこの戦いに勝っていても、信長にとっては大きな脅威となったであろうと言われています。数年後に信玄も謙信も、上洛を目指しながら志半ばで亡くなってしまったのは、信長や家康にとっては運がよかったと言えます。勝負はつかなかったものの、川中島の戦いは戦国の歴史を語る上で、非常に重要な戦いだったのです。