戦国武将が残した名言は、現在でも人々の胸を打ちます。例えば、「人は城、人は石垣、人は掘り、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の名言。これは「民こそ国の宝である」という武田信玄の思想をよく表した言葉です。そんな戦国武将の残した数々の名言と、名言から読み取れる武将達の思想をご紹介します。
本能寺の変
「是非に及ばず」は、織田信長が本能寺にて明智光秀に急襲されたときに発した言葉として有名です。
織田信長は部下に対して苛烈な主君であったことはよく伝えられています。特に明智光秀に対しての人前での叱責、折檻、無理矢理な国替えなどは様々な資料に散見されており、恨みを募らせて謀反に至った説が有力です。
本能寺に宿泊する際、70~80人の供しか連れていなかった織田信長に対し、明智光秀は1万3,000人の軍勢を率いていました。圧倒的な兵の数からも、明智光秀の用意周到ぶりと織田信長に対する恐怖心が伝わってきます。
本能寺にいた織田信長は謀反に気付き、どこの軍勢かと問うと森蘭丸から明智の軍ですとの答えに、「是非に及ばず」と言ったとされています。その後、弓の弦が切れるまで戦い、深手を負うまで槍(やり)でも戦いますが、最期を悟り殿中奥深くに入っていき、自害しました。
是非に及ばずを、現代語に直訳すると、「是[良い]でも非[悪い]でもない」という意味になりますが、簡単に言うと「しょうがない」ということでしょう。
解釈は様々です。明智光秀の恨みをかっているからしょうがないのか、はたまた急襲されてしまって打つ手がないからなのかなど、色々と考えられます。しかし、是非に及ばず、と言ったあとに自らが戦っているのですから、「あきらめた」という意味ではなく、「良し悪しを言ってもしょうがない、戦いを挑まれたのだから戦うしかない」という意味であると捉えることができるでしょう。
この言葉が記されている「信長公記」は、部下であった太田牛一が後世になって、当時の日記を参考にしながら体系的にまとめた物で、信憑性の高い史料です。
是非に及ばずと言ったあとに戦った部下達は全員討死をしていますが、その後に逃がれた女性達がいたことにより、織田信長の最期の姿としては真実に近いものが伝えられたと考えられるでしょう。
甲陽軍鑑
武田家の軍学書として江戸時代の武士のロングセラーとなった「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)の中にある武田信玄の言葉と言われています。
「人こそ国を守る城であり、石垣であり、堀である。人には情をもって接し、思いやりの無いやりかたを避けよ」という意味。国を守るのは人であり、民こそ国の宝であるという武田信玄の信念をよく表しています。
この言葉は、現代においても大変重みのある言葉で、部下を持った上司や、企業のトップなどが座右の銘としても活用しています。人を、社員を大事にしてこそ、企業経営は成り立つのである、という解釈に転用されているのでしょう。
甲陽軍鑑は史料という意味では、一級品ではありません。なぜなら武田信玄亡きあと、武田勝頼の世代の未熟さに嘆いた高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)が、武田家の軍法を残すために記したとされていますが、近代に入ってから史実としての間違いが多く指摘されており、真贋のほどは定かではないからです。ただし、事実なのは江戸時代において長く戦術書として武家に読まれていたということになります。
そして、「武士道」という言葉の起源が甲陽軍鑑であるということから、戦術書というよりは、武家の嗜みとしての書物とされていたことが分かります。人を大事にすることは、武士道の根幹として甲陽軍鑑から始まっていると言えるのではないでしょうか。
徳川家康の遺訓として有名な言葉です。徳川家康と言えば、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう 時鳥[ほととぎす]」という句がよく知られており、棚から牡丹餅のような勝ち組の徳川家康に見えますが、決して何もせずに良いとこ取りをした訳ではありません。
徳川家康
織田信長の怒りに触れてしまった嫡子の松平信康と、正室で松平信康の母である築山殿(つきやまどの)を死なせたことで、織田信長の怒りを解き、豊臣秀吉を裏切るチャンスがあっても実行せず、関東への国替えを命ぜられたときも不満を漏らすことなく従っています。
逆らわず、耐え忍ぶことがのちの徳川家康の天下取りへと繫がっていきました。
急がず、不自由を当たり前と耐え忍んでこそ、天下が取れるのです。この言葉は、人の長い一生で苦難にあっても急がず、我慢をすることも大事なことであると学ぶことができます。結果的に天下を取ることができた徳川家康の言葉として、真実味があります。
黒田官兵衛
豊臣秀吉の軍師として有名な黒田官兵衛ですが、後世の評価は様々です。多くの小説では、天下を取り損ねた名将として取り上げています。
実際豊臣秀吉には、自分亡きあと天下を取るのは、黒田官兵衛だと公言されており、徳川家康からも恐れられていました。
天下を取った名将達から、いつ天下を奪われるかと疑われていた武将だったのです。
しかし、君主としては家臣・領民に対する慈しみ深い名君主であり、人を労わるすべでもって家臣を統率していました。戦国の世にあって、自らの意に添わぬ家臣を死罪に処したこともなく、家臣から離反されたこともない奇特な武将だったのです。
黒田官兵衛は、家臣の教育・指導に心血を注ぎ、適材適所で活用できるような家臣を育てていきます。特に身体の頑強な者や、勇気や才覚の秀でている者を引き立てて、家来として育て上げました。こうした結果、のちに「黒田二十四騎」と言われる豪傑達が活躍するのです。
晩年に子孫に残した訓戒の七か条のうちの一か条が、冒頭の言葉です。この訓戒には、続きがあります。
「なぜならば、神の罰は祈れば免れる。主君の罰は詫びを申して謝罪すれば、許されるであろう。しかし、家臣や万民に嫌われては、必ず領国を失うであろう。祈っても、詫びても、その罰は許されることはない。だから、家臣や万民の罰が一番恐ろしいのだ。」
このように、誠実で愛情の深い人物であったことが分かります。現代にも、部下をたくさん抱えた管理職には、通用する部下統率術ではないでしょうか。