歴史上の人物と日本刀

刀 無銘 景光と織田信秀・織田信長父子

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天下統一を目指してなりふり構わず猪突猛進。そのカリスマ性が故に、一代で織田家の繁栄を築いてきたイメージを持たれることが多い、尾張国(おわりのくに:現・愛知県西部)の戦国武将「織田信長」。「豊臣秀吉」、「徳川家康」と並んで、のちに「三英傑」(さんえいけつ)と称されるほどに織田信長が飛躍したその陰には、「尾張の虎」の異名を持つ織田信長の父・織田信秀(のぶひで)の存在があったことは、あまり知られていません。織田信長は、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で「今川義元」(いまがわよしもと)から奪った「義元左文字」(よしもとさもんじ)をはじめ、様々な日本刀を愛蔵していました。その中のひとつである刀「無銘 景光」(かげみつ)は織田信秀から譲り受けた物。今回は、織田信秀の人物像及び織田信長との関係、そして2人の間で受け継がれた刀「景光」についてご紹介します。

凄腕武将 織田信秀の策略とは

戦国武将が天下を取るために必要なもののうち、その最たるものは、やはり武力ですが、織田信秀が「凄腕」であったと評されるのは、武力だけでなく、知略に富んでいたところにありました。

織田信長が天下人となるための基盤となった織田信秀の策略とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。

策略その1:あの手この手で本家を凌ぐほどに地位を向上

戦国時代において織田本家とされているのは、当時尾張守護を務めていた斯波(しば)氏の家臣で、「尾張守護代」であった「清洲織田氏」(大和守家)。それに対して織田信秀は、さらにその清洲織田氏に仕えていた「清洲三奉行」のうちの一被官(ひかん:中世、守護大名などの上級武士に仕え、家臣となった下級武士)にすぎない、分家筋の「弾正忠」(だんじょうのじょう)家出身だったのです。

しかし、弾正忠家は織田信秀の父・織田信定(のぶさだ)の頃より、台頭する兆しを見せ始めます。その要因のひとつが、織田信定が津島(つしま:現・愛知県津島市)を手中に収めたこと。津島は、尾張国と伊勢国(いせのくに:現・三重県の大半)を結ぶ、貿易の要衝となっていた港町。織田信定は経済的な基盤を得たことで、1504年(永正元年)頃には「勝幡城」(しょばたじょう)を築城したと伝えられています。この勝幡城にて織田信秀は、1511年(永正8年)、織田信定の長男として生まれました。

織田信秀は、父・織田信定による津島支配が強固なものになった1526~1527年(大永6~7年)の間、つまり16~17歳の頃に家督を受け継いでいます。これは織田信定の生前のできごとであったため、若い織田信秀がいかに優秀であったか、また、織田信定よりどれほどの厚い信頼を寄せられていたかが窺えるのです。

実際に、織田信秀は織田信定の読み通り、弾正忠家当主としての手腕を発揮。その勢力をさらに伸ばしていくことになります。そのために織田信秀は、武勇を駆使することはもちろんですが、朝廷や幕府に対して、自身の顔を売るための行動を積極的に取りました。

織田信秀が顔を売るために取った行動 まとめ

  1. 室町幕府第13代将軍「足利義輝」(よしてる)に拝謁
  2. 上洛して朝廷に献金

    ⇒従五位下(じゅごいげ:日本の位階における位のひとつ。従五位下以上の者は貴族とみなされていた)が織田信秀に叙位される

  3. 1540年(天文9年)、伊勢神宮遷宮のために、銭700貫文と共に材木も献上

    ⇒お礼として朝廷から「三河守」(みかわのかみ)に任じられる

  4. 1543年(天文12年)には内裏(だいり:宮城における天皇のプライベートスペース)の修理料として4,000貫文を献上

豊かな経済力と知略を巡らせた行動により、権威を味方に付けて領地拡大の大義名分を手に入れた織田信秀。織田家の分家筋であった弾正忠家を名実共に、織田本家斯波氏を凌ぐほどの地位にまでのし上げた人物だったのです。

策略その2:戦だけでなく引越しを繰り返して領地拡大!?

戦国大名にとっての城は、言わば自身の本拠地。多くの戦国武将達は居城を動かすことなく、領地を拡大させていきました。しかし、織田信秀はそのような常識にとらわれず、居城を次々と移転する戦略を取ります。

居城移転図

居城移転図

当時の戦闘方式は、防御に有利な山に城を築き、そこで籠城するということが当たり前でしたが、織田弾正忠家が配していた尾張国は、山よりも平野部が多い地域。

そのため、織田信秀は城を軍事活動よりも経済活動に利用することを考え、それに適した場所へ居城の移転を繰り返していたのです。

織田信秀がいかに切れ者で智謀に富んだ人物かが分かるこの戦略は、織田信秀の嫡男・織田信長にも受け継がれていきました。

家督を継いだ頃は勝幡城を居城とし、尾張国南西部の海東(かいとう)郡・中島(なかしま)郡(現・愛知県愛西市稲沢市周辺)を支配していた織田信秀。1538年(天文7年)頃、「今川氏豊」(いまがわうじとよ)の居城であった「那古野城」を攻略し、そこに居城を移して愛知郡(現・名古屋市周辺)にまで領地を拡大しました。

このときにも、織田信秀は策略家としての能力を存分に発揮。今川氏豊が無類の連歌好きであったことに目を付け、那古野城でよく開催されていた連歌会に通い詰め、今川氏豊と次第に距離を縮めていきます。そして、何日にもわたって開催される連歌会の期間中、織田信秀が滞在するための専用の屋敷を那古野城内に造らせるほどに、今川氏豊は織田信秀に心を許すようになるのです。

ある日のこと、いつものように那古野城を訪れた織田信秀は、急病になったとして自身の家臣を城へ呼び付けるように今川氏豊に頼みます。もちろんこれは、家臣をスムーズに那古野城へ侵入させるための仮病。その夜、織田信秀の家臣達は城に火を放って織田信秀の軍勢が攻め込み、遂に那古野城を陥落させました。

その後、経済の基盤をさらに拡充させるため、1539年(天文8年)には、愛知郡古渡里(現・名古屋市中区)に「古渡城」(ふるわたりじょう)を築城。同じ愛知郡内の那古野と熱田を結び、東南方からの侵攻を防ぐための要となったのです。

そして1548年(天文17年)、次に築いたのは、愛知郡鳴海(なるみ)荘末森(すえもり)村(現・愛知県名古屋市千種区)の「末森(盛)城」。この城は、三河国(みかわのくに:現・愛知県東部)の松平氏や駿河国(するがのくに:現・静岡県中部・北東部)の今川氏などが侵攻して来る可能性に備えて、織田信秀の実弟・織田信光が城主であった「守山城」(もりやまじょう)と連携し、防御線を張ることを目的に造られました。これには、それまでにも織田信秀が近隣諸国の有力戦国大名達と一進一退の領土争いを繰り広げていたことが背景にあるのです。

織田信秀と各国戦国大名との攻防

三河国・松平清康

松平清康

松平清康

1529年(享禄2年)、徳川家康の祖父にあたる「松平清康」(まつだいらきよやす)が、19歳という若さで三河国統一を成し遂げます。織田信秀と同い年であった松平清康は、この勢いに乗じて尾張国への侵攻を開始。

同年には織田信秀の支城である「岩崎城」(いわさきじょう:現・愛知県日進市)や、織田信秀の家臣が居城としていた「品野城」(しなのじょう:愛知県瀬戸市)を陥落しました。

その後松平清康は、織田信秀と敵対関係にあった美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)の「斎藤道三」(さいとうどうさん)と手を組み、織田氏の挟撃を企てます。松平清康は、今川氏による支援のもと、1535年(天文4年)に約10,000人もの大軍を従え、織田信秀の弟・織田信光が城主であった守山城に攻め入ったのです。

ところがこの戦の途中、織田信秀の危機的状況を覆す事件が起こります。それは世に言う「守山崩れ」。松平清康は、自身の家臣であった「阿部正豊」(あべまさとよ)により、25歳の若さで斬殺されてしまったのです。

松平清康の突然の死により、松平氏は大混乱。これを好機と見た織田信秀は、1540年(天文9年)に三河へ出兵し、西三河における松平氏の重要拠点であった「安祥城」(あんじょうじょう:現・愛知県安城市)の奪取に成功。このとき織田信秀は、同城の城代(じょうだい:城主の留守を預かり、政務などを代行する者)に、自身の庶長子「織田信広」(おだのぶひろ)を置いています。

駿河国・今川義元

今川義元

今川義元

織田信秀の安祥城攻略で弱体化してしまった松平氏は、今川氏に従属。これにより、今川氏も三河攻略に介入する時局へと変わります。

今川義元は、西三河より織田氏の勢力を撃退するため、1542年(天文11年)に大兵と共に同地へ進軍。「岡崎城」(おかざきじょう:現・愛知県岡崎市)東南に位置する小豆坂(あずきざか)にて、織田信秀率いる織田軍と激突。これが「第1次小豆坂の戦い」として知られる合戦です。

同合戦の勝敗については諸説ありますが、「信長公記」によれば、織田信光を始めとする「小豆坂七本槍」の活躍などにより、織田軍が勝利を収めたと伝えられています。

1544年(天文13年)、松平氏と同じく今川氏に属していた「水野信元」(みずののぶもと)が織田氏に寝返ります。もともと水野氏は、水野信元の父・水野忠政により、娘(水野信元の異母妹にあたる)の「於大の方」(おだいのかた)を松平宗家8代当主・松平広忠(ひろただ)のもとに嫁がせるなど、松平氏との関係を強固なものにしていました。

ところが1543年(天文12年)に水野忠政が亡くなると、家督を継いだ水野信元は、織田氏が勢いづいている状況を鑑みて今川路線から一転。配下にあった尾張と三河の国境地帯の安定を図るために、織田氏側に付き従うことを選んだのです。

水野信元の協力を得た織田信秀は、さらに三河への侵攻を進めることに。そして織田信秀は、松平氏が本拠としていた岡崎城を攻略すべく、1548年(天文17年)、小豆坂にて再び今川・松平氏の連合軍と一戦を交えます。

このとき織田信秀は、松平広忠の嫡男でのちの徳川家康である「竹千代」(たけちよ)を人質に取っていたことを利用し、今川氏を裏切って織田氏に付くように松平氏を説得。しかし、松平氏は徹底抗戦の構えを崩さず、織田軍が惨敗となる結果に。

織田信秀は安祥城へと敗走しますが、1549年(天文18年)、今川軍により同城は奪還されました。

美濃国・斎藤道三

斎藤道三

斎藤道三

第1次小豆坂の戦いが勃発した頃、美濃国の守護「土岐頼芸」(ときよりなり/よりのり)が自身の重臣であった斎藤道三により、尾張国へ追放されるという事件が起こります。

これに伴い、織田信秀は土岐頼芸の救援要請に応えることを名目に、越前国(えちぜんのくに:現在の福井県北部)の「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)と共に美濃国へ攻め込んだのです。織田信秀は、一時は「大垣城」(おおがきじょう:現在の岐阜県大垣市)を攻略。

ところが、1544年(天文13年)、「加納口の戦い」(かのうぐちのたたかい)における斎藤道三の反撃に遭い、織田信秀は大敗を喫することになります。その後も、織田信秀と斎藤道三は戦を繰り返しますが、一進一退の様相を呈していました。

しかし、その頃には今川氏の脅威が大きくなりつつあり、また、織田信秀の甥で「犬山城」(いぬやまじょう:愛知県犬山市)城主「織田信清」(おだのぶきよ)が反乱を起こすなど、美濃侵攻を維持することが難しい状況に。そのため織田信秀は、斎藤道三の娘・濃姫(のうひめ)と織田信長を結婚させることを条件に、斎藤道三との和睦の道を推し進め、斎藤道三とのあいだで同盟を結んだのです。

以上のように、最終的に織田信秀は三河と美濃を手中に収めることは叶わず、今川氏によって安祥城を攻略されたあと、病に倒れてしまいます。数年の闘病生活を経て、1552年(天文21年)、織田信秀は、居城としていた末森城にて没しました。

うつけ者の織田信長を信じ続けた父・織田信秀

織田信長

織田信長

少年時代、奇抜な格好と常識はずれな行動をしていたことから、周囲からうつけ者と呼ばれていた織田信長。織田信秀が亡くなった際の葬儀で、織田信長が位牌に抹香を投げ付けたことは、織田信長のうつけ者ぶりをよく表している有名なエピソードです。

その後、織田信長が幼少の頃から彼の「傳役」(もりやく/ふやく:教育係のこと)を務めていた「平手政秀」(ひらてまさひで)が1553年(天文22年)に自刃します。その理由には諸説ありますが、一説には、いっこうに収まらない織田信長の奇行を諫めるためではないかと考えられています。

このような織田信長の有様を見て、織田家の筆頭家老「柴田勝家」(しばたかついえ)など、周囲の家臣や大名の中には、織田信長よりできの良かった弟・織田信行が後継者になるべきだと考える者も多くいました。しかし、織田信秀は那古野城を幼少期の織田信長に譲って英才教育を施し、織田家の後継者としてその後も織田信長を見据えていたと言います。

その根拠は定かではありませんが、のちに織田信長が稀代の戦国武将として名を上げたことを見れば、織田信秀の目利きに間違いがなかったことは明らかです。そしてそれは、織田家の通字である「信」の字の通り、織田信秀が織田信長を信じていたからこそ成し得たのかもしれません。

父から子へ引き継がれた刀「無銘 景光」

武家にとっての日本刀は、武士という職業の格式を示すための言わば表(おもて)道具。日本刀を家宝として引き継ぐことにより、その血統の権威が長く続いていることを表しています。

刀 無銘 景光 織田弾正忠信秀摺上之
刀 無銘 景光 織田弾正忠信秀摺上之
(切付銘)
織田弾正忠
信秀摺上之
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
70.8
所蔵・伝来
織田信秀→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

織田信秀の愛刀であった刀「景光」が織田信長に譲られたのも、織田家の後継者にふさわしい器が織田信長にあると認められたからこそ。「景光」は、鎌倉時代中期頃に備前国(びぜんのくに:現・岡山県南東部)で興った刀工集団「長船派」の3代目。

景光の代表作は、「小竜景光」(こりゅうかげみつ)と称される太刀。これは、「楠木正成」(くすのきまさしげ)が佩刀(はいとう)し、明治天皇の愛刀でもあった経歴がある物で国宝にも指定されており、景光の作刀技術の高さが窺えます。

無銘 景光は大磨上(おおすりあげ:が残らないほどに日本刀[刀剣]の長さを短くすること)無銘ですが、景光が完成させたと考えられている片(肩)落ち互の目(ぐのめ)の刃文が見られ、小板目詰み、ゆるんで先が小丸に返る三作帽子になっており、長船派の特徴も表れている点から、ひと目見て景光作だと考えられる名刀です。

(なかご)には、切付銘として「織田弾正忠信秀摺上之」と織田信秀の名が入っていますが、こちらは織田信秀の時代ではなく、のちに切られた物と考えられています。

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刀 無銘 景光と織田信秀・織田信長父子

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