武士に関する言葉の語源

武士文化から生まれた昔話

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室町時代、「御伽草子」と呼ばれる短編物語の数々が流行しました。例えば、源頼光の鬼退治を描いた「酒呑童子」や藤原秀郷の武勇伝「俵藤太物語」などです。啓蒙的な物語を含む御伽草子は、武士を教育する役割を持っていました。そんな御伽草子をはじめとした昔の文学についてご紹介していきます。

武家の台頭と共に生まれた「御伽草子」

公家社会は、平安時代末期頃から武家の台頭と共に衰退していきます。そして、「源氏物語」に代表される公家の物語文化もまた、下火になっていきました。全く無くなった訳ではなく、それに代わる物語文化が新しく興り、広がっていったのです。

鎌倉幕府の成立、南北朝から応仁の乱、戦国時代を経て、京都の朝廷の権威が失われていくと共に、武家、地方の豪族、僧侶、庶民の社会的地位が上がっていきました。同時にそれぞれ独自の文化も形成。その文化には文学も入っています。

平安時代の公家の物語文学と異なるのは、短編が多いということです。武家や僧侶が教養の底上げをしていく時代ですが、平安時代の長編小説を読む力の無さや、華やかな宮廷生活への違和感から自分達にも共感できる物語を作っていきました。比較的易しい内容が求められたため、短編の物語が多くなったのです。

これらは「御伽草子」(おとぎぞうし)と言われており、様々な階級の人々の間で作られ口承されていきましたが、教訓的であったり啓蒙的であったりと、教育的な役割が大きいものでした。

御伽草子と言われる物語は400種類以上もあり、書物としてまとめられたのは、江戸時代中期。そのなかでも大坂の書肆(しょし:書店と出版社のようなもの)が「御伽文庫」として刊行した「文正草子」(ぶんしょうぞうし)「鉢かづき」「唐糸草子」(からいとぞうし)「木幡狐」(こわたぎつね)「物くさ太郎」「梵天国」(ぼんてんこく)「猫のさうし」「一寸法師」「さいき」「浦島太郎」「酒呑童子」(しゅてんどうじ)など 23編をもって御伽草子と呼ぶのが一般的。明治以降に体系化され「公家物、僧侶・宗教物、武家物、庶民物、異国物、異類物」に分類されます。

武家物の御伽草子

鎌倉時代以降の武士の物語とすれば、「平家物語」や「義経記」「太平記」の軍記物が挙げられるところですが、御伽草子の武家物はこれら軍記物から派生しています。

源頼光が活躍した酒呑童子、藤原秀郷の武勇伝「俵藤太物語」(たわらとうだものがたり)、平敦盛の遺児のその後を書いた「小敦盛」(こあつもり)、源義経を題材にした「御曹司島渡」(おんぞうししまわたり)など。

それぞれの御伽草子には、表現に誇張があったり、鬼や化け物が登場したりするなど、多分にフィクション的な部分が含まれています。

しかし、実在の人物や由来などの史跡や寺社などが現在まで残されているなど、ノンフィクション的な部分も多く、豪胆で正義感の強い武家の理想を表した、現在で言えば映画やNHKの「大河ドラマ」のような存在であったとも言えるでしょう。

軍記物からは、武人伝説物が多く見られますが、地方豪族の争いを描いた勧善懲悪物も多くありました。

酒呑童子

平安時代中期に実在した源頼光と四天王が活躍する物語。丹波国大江山(現在の京都府福知山市)に住む酒呑童子により、京の都の由緒正しき姫達が次々とさらわれるため、一条天皇の勅命を受けた源頼光が、四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)と呼ばれる武将と共に山伏に変装して、酒呑童子を討伐するという筋書です。

源頼光は平安中期の武将で文武にすぐれた人物として様々な伝説があります。渡辺綱は現在まで伝わる渡辺氏の祖先として、謡曲「羅生門」中では平安京の羅生門に現れた鬼の片腕を切り落とした豪の者との伝説が残されています。また、坂田金時は後述にもありますが幼少期の逸話が「金太郎」としても知られているなど、実在した人物に豪胆な武家の理想像を重ね合わせたものとも考えられるのです。

酒呑童子は御伽草子としてだけでなく、鬼や盗賊としての伝説が各地に散見され、その実体は漂着した異国人など諸説が残されています。いずれも当時の中央政権を大いに悩ませた勢力だったことが伺え、これらを退治したり追い払ったりすることで武家の力を示す、またとない題材となっています。

物語の背景は平安時代ですが、フィクション部分を含む様々な伝説がのちに加えられ、一編の御伽草子として成立したのは室町時代とされ、江戸時代まで人気のある武家物の御伽草子になりました。

俵藤太物語

俵藤太物語

俵藤太物語

俵藤太は藤原秀郷(ふじわらのひでさと)のことであり、平安中期に実在した武将です。

下野国(しもつけのくに:現在の栃木県栃木市周辺)土着の武将で、平将門の乱を鎮圧したことで、朝廷より従四位下(じゅしいげ)を賜り北関東に大勢力を築きました。

物語は上下巻あり、琵琶湖の龍王に頼まれて三上山の大百足(おおむかで)を退治する内容が上巻になります。

若き日の俵藤太の家に琵琶湖に住む龍王の娘が訪れ、三上山を七巻き半するほどの巨大な百足の妖怪(大百足)が現れるので退治して欲しいと願いました。

これを受けた俵藤太は白い鉢巻きを締め、八幡大菩薩に祈り、乾坤一擲(けんこんいってき:運命をかけて大勝負をすること)の嚆矢(こうし)を放つと矢は百足の脳天に刺さり、息絶える寸前に百足は「俺は七巻き半、奴は鉢巻[八巻き]…」と言い、これが「はちまき」の由来になったと言われています。

下巻はよく知られた平将門を知略で討ち取った武勇伝になっています。平将門は天皇家の血を継いだ平家の出身で桓武天皇(かんむてんのう)の子孫にあたります。日本史に残る平将門の乱を起こし、当時、中央政権(朝廷)の圧制から関東を独立させ、英雄として名を馳せました。

俵藤太によって討ち取られたあとは、怨霊、呪い、祟りなどと恐れられ、東京都千代田区にある平将門の首塚は、今でも近隣の住民や企業などから手厚い信仰と畏怖を集めています。

藤原一門の発展と共に、室町時代に成立したこの武勇伝は広く長く伝えられていきましたが、藤原家とともに平将門伝説のもととなった物語としても広く知られるところとなっています。

小敦盛

小敦盛

小敦盛

平家物語の哀話、「敦盛最期」(あつもりさいご)をもとに後日譚として作られた御伽草子ですが、他の多くの作品と同様に作者は不詳とされています。

原典は室町時代、詞書16段、絵15図からなり、父敦盛が戦死した「一の谷合戦」にはじまり小敦盛が出家し「善慧上人」(ぜんえしょうにん:浄土宗西山派の開祖)と呼ばれるまでの壮大な物語です。

平敦盛の遺児であるため、源氏の報復を恐れた母により捨て子となった小敦盛は、浄土宗の開祖である法然上人(ほうねんしょうにん)に育てられましたが、父母を慕うあまり重い病に罹ります。これを見かねた父敦盛の仇でもある熊谷直実の配慮で、母である北の方と再会し、自身の素性を知らされます。

同時に、熊谷直実からは父の形見を贈られるのですが、小敦盛成人後のある日、賀茂明神に参籠して示現をうけ、生田(今の神戸市)に旅立つことになります。父が亡くなった一の谷の御堂でその亡霊に出会い、勧められて出家した小敦盛は厳しい修業を積み、やがて善慧上人と呼ばれるようになる、というお話です。

平敦盛の子供が父親を慕う心や亡霊となって子を思う父敦盛の姿が、涙を誘う物語として人気が高く、能の「生田敦盛」としても有名な御伽草子になっています。室町時代に成立した御伽草子です。

御曹司島渡

源義経の御伽草子は判官物として数多くあり、これもそのひとつです。平家の追っ手から逃れ、奥州(現在の岩手県)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとにいた源氏御曹子源義経は、蝦夷が島(えぞがしま:現在の北海道)の千島喜見城(ちしまきけんじょう)に鬼の大王が大日の法という兵法書を所持していると聞き、とさの湊(土佐とする説と十三とする説があります)から船出して千島喜見城の内裏へ向かいます。

途中、馬人(うまびと)の住む王せん島、裸の者ばかりの裸島、女ばかりが住む女護(にょご)の島、背丈が扇ほどの者が住む小さ子島などを経て蝦夷が島に渡り、内裏に赴いて大王に会い、その娘の手引きで兵法書を手に入れるという話です。

御伽草子は基本、ノンフィクション的に実在の人物や場所が登場しますが、この御曹司島渡については奥州に匿われていた源義経が船出したのが四国の土佐?であったり、蝦夷への道すがらに立ち寄った島々も、東西南北様々であったりと、実際の地理には合わないなど、多くの謎が残されています。

これは、不遇と悲劇の主人公としてのちに「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉も生んだ源義経への大衆の愛情や、ファン心理が作り出した壮大な物語とすることができるかもしれません。

のちに源義経の兄・源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵し平家を倒すことができたのは、この兵法書があったためとも伝えられています。源義経に同情した判官物は、御伽草子のなかでも人気作のひとつで、悲劇の英雄物語として広く読まれていました。

江戸時代に庶民化した文学

江戸時代には、挿絵が主体の草双紙(くさぞうし)と言われる小説が一般的に親しまれるようになります。内容に応じて紙の色が異なり、赤本・黒本・青本・黄表紙などに分けられるようになったのです。平安時代の絵巻物から派生したと考えられていますが、内容は庶民でも読みやすいように挿絵が多く、活字の少ない通俗的な物でした。

江戸時代中期頃の赤本は、明治以降に流布された低俗本の意味ではなく、幼年向けの童話小説として親しまれていました。幼年向きの教化本として武家の子供にも、受け入れられていたのです。

武家の教育は、6~7歳くらいから「論語」や「大学」を素読し始めますが、幼年期は現在の絵本のような感覚で赤本を母親や身近な大人に読んで貰っていました。現在で言う日本昔話の多くは、江戸時代の赤本に源流を見ることができます。

金太郎

端午の節句

端午の節句

酒呑童子に出てくる坂田金時が主人公の童話で、現在でも広く愛されている子供向けの童話です。

平安時代に実在していたとされ、英雄伝説が多いため愛されるヒーローとして伝承が創設されていきました。武芸に秀で、様々な役職を歴任したことにより地方での武勇伝も多く、日本各地に伝説が残されています。

歴任した様々な役職の中で、相撲使という役を務めていたため、相撲が強い金太郎の話が創作されたと考えられます。江戸時代後期には、端午の節句の際に赤い腹掛けをまとった坂田金時の絵柄を鯉のぼりと一緒に飾っていました。

現在でも男の子の成長の願いと共に飾られることが多く、長く日本人に愛されているキャラクターであることが分かります。

桃太郎

桃太郎も金太郎と同じくらい日本人に愛されている昔話です。不老長寿の妙薬として桃が古くから霊力があるとされたことから、神話の要素が濃い伝説から始まったとされています。出典がよく分かっておらず地域の伝承も岡山県をはじめ、愛知県犬山市など全国各地に広がっています。

物語の内容は、皆さんもよくご存知の通り、桃から生まれた桃太郎が、村人を苦しめる鬼を退治するために、犬・猿・雉の動物とともに鬼の住む島(鬼が島)へ向かい、鬼を退治して得た宝物を年老いた父母に贈る…という話です。

親孝行や友愛、勧善懲悪の教科本として江戸時代には赤本として親しまれ、絵巻をはじめ、錦絵や武者絵、のぼりなどの図柄としても多用されました。明治以降は国語の教科書の題材にも採用され、道徳的な要素も含んだ昔話として定着しています。

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