2017年(平成29年)に、「続日本100名城」にも選ばれた山形県の米沢城跡。桜の名所としても知られる城跡には、熱狂的な歴女ファンが多い「上杉謙信」(うえすぎけんしん)を祭神として祭る「上杉神社」が鎮座しています。
戦国時代に越後国(えちごのくに:現在の新潟県)を統一し、米沢藩上杉家の礎を築いた上杉謙信。「軍神」と称され、「義」を重んじる名将として語られてきました。
ここでは、上杉謙信ゆかりの聖地であり、米沢市の観光名所でもある上杉神社についてご紹介します。
米沢城跡と合わせて、全国から戦国武将ファンが訪れている「上杉神社」。明治に創建されて以降、初詣やお祭り、結婚式など、1年を通して多くの人々が集まる場所となり、米沢市民にとっても特別な神社として親しまれてきました。
上杉謙信
1578年(天正6年)、越後国から近隣諸国へ勢力を拡大し、さらなる遠征を目論んでいた「上杉謙信」は、上越の居城「春日山城」(かすがやまじょう)へ帰還した際に48歳で急死してしまいます。
上杉謙信の遺骸は、しばらく春日山城内の霊屋(たまや)に安置されましたが、次代「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が「関ヶ原の戦い」のあと、出羽国米沢(でわのくによねざわ:現在の山形県米沢市)へ移封(いほう:大名などを他の領地へ移すこと)となったため、上杉謙信の霊屋も上杉景勝と共に米沢城本丸へ遷(うつ)されることになったのです。
その後、江戸時代を通して上杉謙信の御霊(みたま)は、米沢藩歴代藩主の位牌と共に、上杉家菩提寺である米沢の「法音寺」(ほうおんじ)を中心とする寺院によって祭られてきました。
明治時代になると、「廃城令」によって米沢城の破却が決まったことに加え、「神仏分離令」が発せられたことから、1872年(明治5年)に、上杉謙信の遺骸を城内の霊屋から「上杉家廟所」(うえすぎけびょうしょ)へ遷し、これまでの仏式から神式で祭られることとなります。
このとき、米沢藩屈指の名君である9代藩主「上杉鷹山」(うえすぎようざん)を合祀して、上杉謙信と上杉鷹山の2柱を祭神とする上杉神社が創建されたのです。
1876年(明治9年)に現在の米沢城本丸跡に社殿が建てられ、1902年(明治35年)には、国家に功績を残した人物を祭る神社として「別格官幣社」(べっかくかんぺいしゃ)に列せられました。
これを機に、上杉神社の祭神は上杉謙信の1柱となり、合祀されていた上杉鷹山は、摂社(せっしゃ:本社に付属する小社のこと)として「松岬神社」(まつがさきじんじゃ)を設けて祭られることとなったのです。
上杉神社
明治時代を通して、米沢市民の心の支えとなっていた上杉神社ですが、1919年(大正8年)5月19日に発生した「米沢大火」の被害を受け、米沢市役所や1,000戸を超える民家と共に全焼してしまいます。
しかし、国からの援助金や米沢市民の協力を得られたことによって、火災の翌年から神社再建が始まり、1923年(大正12年)4月には、新しい社殿を完成させました。
このとき新しく建てられた現在の社殿は、米沢市出身の建築家「伊東忠太」(いとうちゅうた)の設計による建物。
伊東忠太は、「平安神宮」や「明治神宮」などの設計にも携わったこともある「神社建築の第一人者」とされている人物で、日本において「建築」という言葉を広めた日本建築史の創始者として知られています。上杉神社再建から20年後の1943年(昭和18年)には、建築界で初めて文化勲章を受章しました。
このように名高い建築家が再建した上杉神社の境内は、立派な唐門と透塀(すきべい)、その先にある檜造りの本殿と拝殿など、日本建築の美しさを存分に感じられる場所となっています。建築好きな歴女は、ぜひ建造物に焦点をあてて、じっくり鑑賞してみましょう。
1923年(大正12年)の社殿再建時に、上杉神社に新しく創設された宝物殿「稽照殿」(けいしょうでん)。社殿と同様に伊東忠太による設計で、鉄筋コンクリート造でありながら「重層切妻造り」(じゅうそうきりづまづくり)の和風な建造物となっています。
稽照殿には、上杉謙信を中心に上杉景勝、上杉鷹山、そして上杉家に生涯仕えた重臣「直江兼続」(なおえかねつぐ)の遺品など、重要文化財や県指定文化財を含む1,000点以上の宝物が収蔵されているのです。
なかには、彼らが着用していた甲冑や武具、刀剣なども展示されており、まさに歴女必見の内容と言えます。また、展示品は武具だけでなく、絵画、書跡、仏具、陶磁器など内容は多種多様。上杉家の歴史を学ぶのにもぴったりなスポットです。
松岬神社
上杉神社と合わせて参拝したいのが、上杉鷹山を祭る摂社・松岬神社。
「二の丸世子御殿跡」(にのまるせいしごてんあと)に鎮座している松岬神社は、1902年(明治35年)6月17日に上杉神社から上杉鷹山を分祀(ぶんし)し、1912年(大正元年)に神殿が建てられたことによって、同年9月28日に「遷座祭」(せんざさい)が行なわれました。
その後、1923年(大正12年)には上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝も合祀され、さらに米沢市制施行50周年を迎えた1938年(昭和13年)には、上杉景勝を支えた家老・直江兼続や上杉鷹山の師である「細井平洲」(ほそいへいしゅう)、上杉鷹山の藩政改革を主導した上杉家家臣「竹俣当綱」(たけのまたまさつな)と「莅戸善政」(のぞきよしまさ)も合祀されたのです。
また、上杉神社境内には上杉鷹山の立像と、「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という上杉鷹山の名言が刻まれた石碑が建てられており、立像は米沢藩を窮地から救った上杉鷹山が、未来を切り拓いていく力強い姿のようにも見えるのです。
一方、松岬神社には正座する上杉鷹山の銅像と、藩主の心得3か条である「伝国の辞」(でんこくのじ)の石碑が建てられました。この坐像は、伝国の辞を次代に伝えようとしているかのような泰然たる姿です。
銅像の近くには、上杉鷹山に関する説明と、伝国の辞の現代語訳が刻まれた石碑も建てられていますので、江戸時代屈指の名君と称えられた上杉鷹山の心得を学んでみましょう。
上杉神社境内の左奥の小道を抜けると、もうひとつの摂社「春日神社」(かすがじんじゃ)へ辿り着きます。
春日神社の歴史は古く、創建は今から1,000年以上も前のこと。平安時代、越後の国司として派遣されていた「藤原遠成」(ふじわらのとおなり)が、奈良の「春日大社」から分霊して、上越の春日山頂に春日神を勧請(かんじょう:神仏の分霊を迎えること)したことに始まると伝えられています。
戦国時代になると、上越を拠点としていた上杉家は、上杉謙信を含む代々の当主が春日神社を守り神として崇めていました。1598年(慶長3年)、上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津へ移封となった際には、春日神社も上杉家と共に移転し、わずか3年後の1601年(慶長6年)に米沢へ移封となると、再び上杉家と共に春日神社も米沢へ移ることとなります。
こうして、上杉家と共に歴史を歩んできた春日神社は、江戸時代においても歴代藩主から守り神として敬われていました。また上杉鷹山が、前代から家督を継いだ際に米沢藩の再興を願うため、春日神社に誓詞(せいし:誓いの言葉)を奉納していたことでも知られています。
明治時代になると、春日神社は上杉神社と共に米沢城本丸跡に移転しましたが、1919年(大正8年)の米沢大火によって焼失し、一時は松岬神社に合祀されていました。その後、およそ60年の時を経て、1981年(昭和56年)に現在の上杉神社南側に再建されることとなります。
歴女ならば、上杉家の守り神・春日神社へ参拝して、上杉謙信、そして米沢藩へと受け継がれた信仰の歴史を感じてみたいものです。
上杉神社の例大祭は、上杉謙信の命日である4月29日に毎年行なわれており、翌日の30日には摂社の松岬神社の春祭も開催。米沢では、この上杉神社と松岬神社の例大祭に合わせて「米沢上杉まつり」が開催され、毎年多くの参加者で賑わっています。
米沢上杉まつりは、戦前、「県社のまつり」や「城下のまつり」と呼ばれ、4月28日から30日までの3日間開催されていました。明治時代から、米沢市民にとって特別な祭りとして親しまれていたと言います。
古くから例大祭は、豪雪地帯である米沢にとって、長い冬が幕を閉じ、春の訪れをみんなで喜ぶという意味もありました。戦時中には一時中止されていましたが、戦後しばらくすると復活を遂げ、1965年(昭和40年)頃から「米沢民踊流し」が登場したことで、再び盛り上がりを見せることになります。
その後、民踊愛好会や婦人会、市内の高校が参加するなど、参加団体は増え続け、平成時代になると文化施設「伝国の杜」が開館したことで、一大イベントとしてますます盛況になりました。
現在では、上杉神社の例大祭と共に4月29日には開幕祭が行なわれ、米沢城跡に広がる松岬公園に多くの露店が並び、園内では満開の桜を楽しむ花見客と共に、鮮やかな衣装に身を包んだ1,000人にも及ぶ踊り手たちがパレードで踊り歩きます。
5月2日には、かつて上杉謙信が合戦前に必ず行なっていたという「武禘式」(ぶていしき)が、かがり火が燃える厳かな雰囲気の中、軍の守護神を招くため約1時間に亘って執り行なわれるのです。
米沢上杉まつり
そして、祭りの熱気がピークを迎える5月3日には、豪華絢爛なみこし渡御(とぎょ)と甲冑を着た騎馬隊が市内を練り歩く「上杉軍団行列」も開催。
さらに、同日午後に開催される「川中島の戦い」の再現は、まさに歴女必見のイベントです。
川中島の戦いとは、上杉謙信最大のライバルと言われた「武田信玄」(たけだしんげん)率いる武田軍と、北信濃(現在の長野県北部)の領地権を争って激闘を繰り広げた戦いで、戦国史上最大の死闘とも語られています。
最上川沿いの松川河川敷で、上杉軍と武田軍の戦闘シーンを迫力満点に再現しており、上杉謙信ファンだけでなく、戦国武将ファンにとってもたまらないイベントとなっているのです。
この他にも、米沢上杉まつりの期間中は、米沢市内各地で様々なイベントが開催されています。
米沢市上杉博物館
春日神社参拝後は、近くの「菱門橋」(ひしもんばし)を渡って米沢城二の丸跡に建つ伝国の杜(でんこくのもり)へ。
広大な丘の上に建てられた近代的な建造物の館内には、上杉家と米沢の歴史を学ぶことができる「米沢市上杉博物館」と、コンサートホールであり能楽堂としても機能している「置賜文化ホール」(おきたまぶんかホール)が入っており、米沢の文化を伝える施設として人気の観光スポットです。
特に、歴女は要チェックの米沢市上杉博物館では、数千を超える上杉家伝来の品々を収蔵。上杉謙信ゆかりの国宝なども展示されています。
常設展示室では、上杉家の歴史を中心に、「江戸時代の置賜・米沢」をテーマとした展示があり、企画展示室では、常設展示のテーマを掘り下げて、上杉家や米沢の歴史を深く学ぶことができる企画展や、米沢ゆかりの作家や子ども向けの展示会を企画。講演会やワークショップなども開催され、家族で一緒に楽しめる空間となっています。
常設展示品の「上杉本洛中洛外図屏風」(うえすぎぼんらくちゅうらくがいずびょうぶ)は、歴女ならばじっくり時間をかけて鑑賞しておきたい作品です。桃山時代を代表する画家「狩野永徳」(かのうえいとく)によって、京の都の四季と人々の日常風景が描かれたこの作品は、1574年(天正2年)に「織田信長」から上杉謙信に贈られました。以後、米沢藩に受け継がれ、上杉家の家宝として伝来したと伝えられています。
現存している洛中洛外図のなかでも初期の作品と言われ、都で暮らす様々な人物や動物、祭りの様子などを繊細なタッチで華やかに表現。「上杉本」の名で知られるこの壮大な屏風は、1995年(平成7年)に国宝に指定されました。
また、展示室では大型スクリーンで解説映像も流されているため、細かく描かれた人々の生活風景をより分かりやすく学ぶことができます。
米沢市上杉博物館には、ミュージアムショップも併設されていますので、ショッピングも楽しんでみてはいかがでしょう。また、米沢市上杉博物館で上杉家の歴史を学んだあとで、上杉神社や米沢城跡を探索するルートもおすすめです。