偉人を祭った神社

織田信長を祀る建勲神社(京都市北区)

文字サイズ

尾張の守護代だった織田氏の一族に生まれ、「天下布武」の旗印のもと天下統一を目指してまい進した「織田信長」。織田信長は苛烈な性格で知られていますが、戦においても政治においても、既存の価値観にとらわれない革新的な考えの持ち主でもありました。ドラマチックな生涯とも相まって、歴女にも人気が高い戦国武将です。
「本能寺の変」によって志半ばでこの世を去った織田信長ですが、その亡骸が見付からなかったことから、織田信長の墓は各地に存在。明治になると、政府によって織田信長を祀る「建織田社」(たけしおりたのやしろ)が建立され、のちに「建勲神社」(たけいさおじんじゃ)の社号が下賜されました。

刀剣奉納 神社・仏閣の日本刀刀剣奉納 神社・仏閣の日本刀
刀剣が奉納・展示されている主な神社・仏閣や宝物館などを一覧でご紹介。

建勲神社が鎮座する船岡山

建勲神社

建勲神社

建勲神社」(たけいさおじんじゃ)は、京都市北区の船岡山(ふなおかやま)に位置。

古くから美観に優れた景勝地で、建勲神社の境内や参道からは、京都の町並みや比叡山、大文字山を望み、「清少納言」の「枕草子」には「岡は船岡」の記述があります。

平安京の朱雀大路の真北にあるため、造都にあたって南北の基準点となったという説や、東西南北にそれぞれ青龍、白虎、朱雀、玄武を置く四神の考え方から、玄武の位置とする説も。

いずれも決定的ではありませんが、歴史的なロマンをかきたてる場所であることは間違いありません。

織田信長と京都の関係

織田信長

織田信長

船岡山は、標高111.7mの小山ではありますが、歴史的な要所としても知られています。奈良時代には「聖徳太子」の文献にその名があり、のちに皇城の地になると予言したとされているのです。

また、平安時代に編纂された「日本紀略」(にほんきりゃく)には、994年(正暦5年)に流行した疫病の退散のため、神輿2基に「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)の神霊をこめて船岡山に安置したとの記述があります。

尾張国(現在の愛知県西部)に生まれ、「清洲城」や現在の滋賀県近江八幡市に建てた「安土城」などを拠点とした「織田信長」ですが、京都とも深いかかわりがありました。

当時、京都は「応仁の乱」によって荒廃しており、朝廷や室町幕府も財政的に逼迫。尾張国は小国ではあるものの、京都からの距離も近く、経済的にも裕福だったこともあり、織田信長は御所の修繕や財政処置を講じるなど、京都の再興に務めたのです。

こうして京都の公家や将軍家との結びつきができた織田信長は、1562年(永禄5年)に入洛した際、船岡山のすぐ北側に父「織田信秀」(おだのぶひで)の追善供養のための小庵「黄梅庵」(おうばいあん:現在の黄梅院)を建立しました。

黄梅庵は、のちに「豊臣秀吉」や「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)などによって改築され、現在は苔や紅葉の美しいお寺として知られています。

毛利元就」(もうりもとなり)や「蒲生氏郷」(がもううじさと)などの墓所があるなど、数々の戦国武将達に縁のあるお寺。建勲神社を訪れた際には、併せて立ち寄ってみたい場所です。

  • 織田信長のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

織田信長の霊地

史跡 船岡山

史跡 船岡山

1582年(天正10年)、「本能寺の変」で織田信長が横死すると、織田家の家督をめぐる争いが起こります。

豊臣秀吉は、自分が後継者であることを示すため、紫野の「大徳寺」で盛大な法要を行ないました。

そして、船岡山に織田信長の像を安置する寺を建立しようと「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)から「天正寺」の寺号を賜ります。

天正寺の建立は、「石田三成」によって阻まれましたが、江戸時代を通して船岡山一帯は織田霊地として保護されることになりました。現在では、船岡山全体がパワースポットだとされています。

明治時代になって、「明治天皇」の宣下によって織田信長を讃える神社の創建が決まると、1870年(明治3年)に織田信長の子孫で天童藩の知事だった「織田信敏」(おだのぶとし)の東京邸内と、旧領地だった山形県天童市に「建勲社」を建立。このうち東京にあった神社を船岡山に移すことになり、1880年(明治13年)に遷座されました。

戦国時代を代表する武将を祀るにしては新しいようにも思えますが、明治初期は藩祖を祀る神社が相次いで建立されており、「前田利家」(まえだとしいえ)を祀る加賀藩の「尾山神社」(おやまじんじゃ)や、「上杉謙信」を祀る米沢藩の「上杉神社」などもこの頃に創建されています。

また明治政府によって神社の様式や規模、配置などが定められていたため、「徳川家康」を祀った「日光東照宮」のように華美ではなく、シンプルな本殿です。

敦盛が舞われる船岡大祭

建勲神社では、元日の歳旦祭から大晦日の除夜祭まで、1年を通して様々な祭典や行事を開催。

織田信長にまつわる行事では、本能寺の変が起こった7月1日に開催される例祭や、上洛の日に行なわれる「船岡大祭」があり、特に盛大に行なわれる船岡大祭では、毎年、織田信長が好んだとされる「幸若舞」(こうわかまい)の演目「敦盛」(あつもり)や舞楽が奉納されます。

本殿へと続く参道沿いには、「熊谷直実」(くまがいなおざね)が歌った「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか」という一節が刻まれた石碑も設置。

この歌は、織田信長が「桶狭間の戦い」に臨む際に舞ったと伝えられ、時代劇などでは、最期を迎えた本能寺の変で炎に包まれながら織田信長が扇子を手に舞う姿が印象的です。

建勲神社とゆかりの刀剣

建勲神社は、刀剣にゆかりのある神社としても知られており、桶狭間の戦いで織田信長が「今川義元」(いまがわよしもと)から奪い取った、重要文化財の「義元左文字」(よしもとさもんじ)を所有しています。

義元左文字は、南北朝時代に制作され、三好氏から「武田信虎」(たけだのぶとら)に渡り、今川義元に贈られたと言われている名刀で、豊臣秀吉、徳川家康の手に渡ったという説もある、別名「天下取りの刀」。

建勲神社が創建された際に徳川宗家から奉納され、現在は「京都国立博物館」に寄託されています。

宗三左文字

義元左文字

また2018年(平成30年)には、織田信長が愛用したと伝わる短刀薬研藤四郎」(やげんとうしろう)の写しが奉納されました。

薬研藤四郎は、鎌倉時代に「正宗」(まさむね)と並ぶ名工とされた京の刀工「粟田口藤四郎吉光」(あわたぐちとうしろうよしみつ)によって制作された逸品。

室町時代の守護大名「畠山政長」(はたけやままさなが)が敗戦の際に、自害しようとしたものの腹に刺さらなかったため投げ出したところ、薬剤を砕いて粉にする薬研という道具を貫いたという逸話もあります。

このことから切れ味は鋭いが、主人の腹は切らないという評判が伝わり、作者名を合わせて「薬研通吉光」(やげんどおしよしみつ)とも呼ばれました。

その後は、足利将軍家から「松永久秀」(まつながひさひで)、織田信長へと渡りましたが、本能寺の変以降の確かな消息は不明です。

薬研藤四郎
薬研藤四郎
吉光
鑑定区分
未鑑定
刃長
25
所蔵・伝来
畠山政長 →
足利将軍家

これらの刀剣は船岡大祭のときなどに特別公開されたり、全国の博物館や美術館で特別展示されたりすることがあります。また御朱印帳や絵馬など特別な授与品もあるので、刀剣好きの歴女はホームページなどで情報をチェックしておきましょう。

建勲神社と合わせて巡りたい、刀剣ゆかりの三神社

建勲神社の近郊には、他にも刀剣にゆかりのある神社があり、一緒に参拝するのにおすすめです。

なかでも「粟田神社」(あわたじんじゃ)、「豊国神社」(とよくにじんじゃ)、「藤森神社」(ふじのもりじんじゃ)は、不定期で建勲神社と合わせて4つの神社をめぐる京都刀剣御朱印めぐりを実施しています。専用の御朱印帳や限定の御朱印が頂ける他、4つすべての神社をめぐると記念品がもらえることも。

ホームページでは、各神社へのアクセスなども掲載されていますので、開催期間と共に確認しておきましょう。

鍛冶神社を末社に持つ粟田神社

粟田神社

粟田神社

粟田神社は、京都市東区粟田口に鎮座しています。

粟田口は、「京の七口」と呼ばれる京都の玄関口のひとつで、東山道や東海道を旅する人が道中の無事を祈願したことから、旅立ち守護や旅行安全の神様として知られるようになりました。

平安時代から室町時代にかけて、多くの刀鍛冶(かたなかじ)が住んでおり、末社には製鉄の神様である「天目一箇神」(あめのまひとつのかみ)と、刀工の「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)、粟田口藤四郎吉光を祀った鍛冶神社があります。

三条小鍛冶宗近は、平安時代の刀工で「天下五剣」のひとつに数えられる国宝三日月宗近」(みかづきむねちか)を制作。「一条天皇」の宝刀「小狐丸」(こぎつねまる)を鍛えた伝説の残る人物です。

また粟田口藤四郎吉光は、建勲神社に写しが奉納された薬研藤四郎など、短刀作りの名手として知られていますが、生涯で1振だけ作った太刀は「一期一振」(いちごひとふり)と呼ばれ、皇室に伝来。神嘗祭(かんなめさい)の際に使用されてきました。

一期一振
一期一振
吉光
鑑定区分
御物
刃長
68.8
所蔵・伝来
毛利輝元 →
豊臣秀吉
お守りや御朱印、御朱印帳などの御授与品も刀剣をかたどったり、三日月宗近、一期一振の文字をあしらったりした物などがあり、刀剣好きの歴女に人気となっています。

名だたる武将に伝わった名刀を所有する豊国神社

豊国神社

豊国神社

京都市東山区の豊国神社は、豊臣秀吉を神格化した豊国大明神を祭神に祀る全国に点在する豊国神社の総本社。

豊臣秀吉にあやかって出世開運や仕事成就などのご利益があるとされ、出世祈願の絵馬は織田信長のわらじを温めてほめられた逸話から、わらじ型に造形。

南禅寺塔頭の金地院から移設された唐門は国宝に指定されています。

また、阪神大震災によって損傷したため収蔵していた「豊臣秀吉公之像」が、改元の奉祝記念として修復され、2019年(令和元年)に24年ぶりに公開されました。

豊国神社では、切る真似をしただけで相手の骨が砕けたという伝説を持つ「骨喰藤四郎」(ほねばみとうしろう)を所蔵しています。骨喰藤四郎は粟田口藤四郎吉光の作で、薙刀(なぎなた)を磨上げて長脇差として仕立て直した1振。

源頼朝」が大友家に与え、それが「足利尊氏」に献上されて足利将軍家に伝わり、松永久秀、豊臣秀吉、徳川将軍家と名だたる武将に伝来したとされる名刀です。現在は、京都国立博物館に寄託されています。

骨喰藤四郎
骨喰藤四郎
無銘
鑑定区分
重要文化財
刃長
58.8
所蔵・伝来
源頼朝 →
足利尊氏 →
豊臣秀吉 →
徳川家康→
豊国神社

御朱印や授与品は、豊臣秀吉が馬印としたひょうたんをあしらったデザインが主流ですが、ブックマークやお守り、期間限定の御朱印帳などには、骨喰藤四郎デザインもあり、刀剣好きの歴女を中心に人気となっています。

名刀 鶴丸国永ゆかりの藤森神社

藤森神社

藤森神社

京都市伏見区にある藤森神社は、「神功皇后」(じんぐうこうごう)が新羅(しらぎ)に出兵した三韓征伐から凱旋した際に、軍旗を立てて兵具を納めて塚を作り、祭祀を行なったのが発祥とされています。

5月5日に行なわれる藤森祭は、甲冑や武者人形などを飾ったり、こいのぼりを立てたりする菖蒲の節句の発祥とされ、菖蒲が勝負に通じることから、勝ち運につながるご利益があるとの言い伝えも。

また藤森祭では、駈馬神事が奉納されることから馬の神としても信仰されています。

藤森神社にゆかりのある刀剣は、皇室の私有財産「御物」(ぎょぶつ)として管理されている「鶴丸国永」(つるまるくになが)。

平安時代の刀工「五条国永」(ごじょうくになが)の作で、徳川幕府8代将軍「徳川吉宗」の命によって編纂された「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)という名刀リストにも記載されている由緒ある名刀です。

来歴は明らかであるとは言えませんが、元々は戸隠山の鬼退治伝説のある「平維茂」(たいらのこれもち)が所持していたと伝えられ、鎌倉時代には安達氏や北条氏の手に渡り、織田信長が入手したとされています。

江戸時代になって藤森神社で見付かり、仙台藩主の伊達家に譲られ、1901年(明治34年)の仙台巡幸の際に明治天皇に献上されました。

2018年(平成30年)に宮内庁の資料をもとに制作した写しが奉納され、翌年から宝物館で常設展示されています。

鶴丸国永

鶴丸国永

御朱印帳などの授与品にも鶴丸国永をあしらったデザインがありますが、特別授与品としてクリアファイルや絵はがき、変わった品ではマスキングテープなどが用意されたこともありました。

織田信長を祀る建勲神社(京都市北区)

織田信長を祀る建勲神社(京都市北区)をSNSでシェアする

「偉人を祭った神社」の記事を読む


楠木正成を祀る湊川神社(兵庫県神戸市)

楠木正成を祀る湊川神社(兵庫県神戸市)
兵庫県神戸市にある「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)は、鎌倉幕府を滅亡させ、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に忠義を尽くして戦い果てた武将、「楠木正成」(くすのきまさしげ)を祀った神社です。南北朝時代を代表する英雄として語られることの多い彼は、猛将でありながら戦術家としても名高く、「南北朝一の知将」とも称されてきました。 時代を超えて多くの偉人達に影響を与え、後世に語り継がれてきた楠木正成は、歴女にとって興味深い存在です。地元では「楠公さん」(なんこうさん)の愛称で親しまれている湊川神社が、どのような歴史的背景で創建されたのか、見どころと合わせてご紹介します。

楠木正成を祀る湊川神社(兵庫県神戸市)

武田信玄を祀る武田神社(山梨県甲府市)

武田信玄を祀る武田神社(山梨県甲府市)
「甲斐の虎」(かいのとら)の異名を持ち、勇猛果敢な騎馬隊を率いて「徳川家康」や「上杉謙信」にも怖れられた戦国時代きっての名将「武田信玄」。恰幅のいい肖像画が有名で、猛々しく戦うイメージが強い一方、法律の制定や当時としては珍しい合議制政治の導入など、内政においても手腕を発揮したことで知られ、高い人気を誇る武将です。 また「清和源氏」(せいわげんじ)を祖とする名門「甲斐源氏」の流れをくみ、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)や室町幕府の足利将軍家とも血縁関係にあったこと、さらには「川中島の戦い」で鎬を削った上杉謙信とのライバル関係など、物語性の高い武将であることも歴女心をくすぐるところ。 そんな武田信玄を祭神として祀る「武田神社」は、武田信玄が本拠地とした山梨県甲府市に鎮座しています。

武田信玄を祀る武田神社(山梨県甲府市)

伊達政宗を祀る青葉神社(仙台市青葉区)

伊達政宗を祀る青葉神社(仙台市青葉区)
「伊達政宗」(だてまさむね)と言えば、独眼竜の異名で知られる戦国時代の大名です。戦国の世に名を馳せ、「豊臣秀吉」や「徳川家康」に仕えながら東北の覇者となったことで知られる伊達政宗は、戦国武将としてのたくましさに加え、隻眼というミステリアスな風貌を併せ持っていたことから、現代でも絶大な人気を誇っています。伊達政宗は、近年の歴女ブームを牽引する中心的人物と言っても過言ではありません。そんな伊達政宗ゆかりの地として名高い宮城県仙台市は、伊達政宗にまつわる神社仏閣が多く存在します。

伊達政宗を祀る青葉神社(仙台市青葉区)

前田利家と妻まつを祀る尾山神社(石川県金沢市)

前田利家と妻まつを祀る尾山神社(石川県金沢市)
「前田利家」は、「織田信長」や「豊臣秀吉」のもとで武功を挙げ、戦国の世にその名を轟かせた名将です。当時では珍しい182cmの高身長で容姿端麗だったと言われている前田利家は、歴女人気が高い武将のひとり。また、前田利家が女性ファンの心を掴む理由に、正室「芳春院」(ほうしゅんいん)こと通称「まつ」との夫婦愛も挙げられます。 2002年(平成14年)には、大河ドラマでも2人の夫婦愛が描かれたことから、共に認知度が高くなりました。そして、加賀藩祖として前田利家が礎を築いた石川県金沢市には、前田利家とまつを祭神として祀る「尾山神社」(おやまじんじゃ)があります。

前田利家と妻まつを祀る尾山神社(石川県金沢市)

吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区/山口県萩市)

吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区/山口県萩市)
数多くの戦国武将が活躍した戦国時代。そして、新しい時代に向けて多くの志士が歴史に名を残した幕末。大きな転換期となったこの2つの時代は、日本史のなかでも圧倒的な熱情と輝きを放っています。昨今の歴女ブームを語る上でも、戦国武将と幕末維新の志士達は欠かせない存在。 今回は、激動の幕末を駆け抜けた偉大な思想家「吉田松陰」(よしだしょういん)と共に、吉田松陰を祭神とする2つの「松陰神社」(しょういんじんじゃ)についてご紹介します。

吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区/山口県萩市)

上杉謙信を祀る上杉神社(山形県米沢市)

上杉謙信を祀る上杉神社(山形県米沢市)
2017年(平成29年)に、「続日本100名城」にも選ばれた山形県の米沢城跡。桜の名所としても知られる城跡には、熱狂的な歴女ファンが多い「上杉謙信」(うえすぎけんしん)を祭神として祭る「上杉神社」が鎮座しています。 戦国時代に越後国(えちごのくに:現在の新潟県)を統一し、米沢藩上杉家の礎を築いた上杉謙信。「軍神」と称され、「義」を重んじる名将として語られてきました。 ここでは、上杉謙信ゆかりの聖地であり、米沢市の観光名所でもある上杉神社についてご紹介します。

上杉謙信を祀る上杉神社(山形県米沢市)

豊臣秀吉を祀る豊国神社(名古屋市中村区)

豊臣秀吉を祀る豊国神社(名古屋市中村区)
愛知県名古屋市中村区にある「豊國神社」(豊国神社)は、農民の家に生まれながら数々の功績を挙げ、ついには天下人にまで登りつめた三英傑のひとり「豊臣秀吉」を主祭神とする神社。豊臣秀吉は、当時としては珍しく「寧々」(ねね)と恋愛結婚をしたことや、織田信長の姪で浅井長政の娘「茶々」(ちゃちゃ:淀殿[よどどの])を側室として迎え入れたことなど、女性関係の逸話が多いことでも有名です。 今回は、豊臣秀吉ゆかりの豊國神社(豊国神社)と、「加藤清正」を祀る熊本県熊本市「加藤神社」の意外な関係、そしてご縁を結びたい歴女必見!「常泉寺」(じょうせんじ)の「むすびの輪」などをご紹介します。

豊臣秀吉を祀る豊国神社(名古屋市中村区)

徳川家康を祀る日光東照宮(栃木県日光市)

徳川家康を祀る日光東照宮(栃木県日光市)
「応仁の乱」(おうにんのらん)から始まった戦国時代に終止符を打ち、徳川幕府の初代将軍として約260年に及ぶ江戸時代の礎を築いた「徳川家康」。「織田信長」、「豊臣秀吉」と並ぶ「戦国三英傑」と称され、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の小大名から天下人となった武勇や知略で、歴女のみならず高い人気を有する武将です。 「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して食らうは 徳の川」と、徳川家康の天下取りを揶揄した狂歌もありますが、幼少期には織田家、その後19歳まで今川家の人質として過ごし、戦国大名となってからも領内の平定や隣国の脅威など、苦労を乗り越えて上り詰めていきました。そして、死後は「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)の神号を授けられ、絢爛豪華な「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)に祀られています。

徳川家康を祀る日光東照宮(栃木県日光市)

注目ワード
注目ワード