東北を代表する名城として名高い「鶴ヶ城」(つるがじょう:別名若松城)をシンボルに仰ぎ、繁栄を遂げてきた福島県にある城下町・会津若松。1868年(慶応4年/明治元年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)において、「白虎隊」(びゃっこたい)の悲劇を生んだ地としても知られ、歴女はもとより多くの人々が訪れる地です。
そんな会津若松城下町は、ここ数年で、「日本屈指の酒どころ」として熱い視線が注がれるようになりました。会津のお酒は、毎年春に開催されている「全国新酒鑑評会」(ぜんこくしんしゅかんぴょうかい)でも高い評価を得るまでに飛躍したのです。今回は、歴女の視点で会津若松の城下町の歴史を振り返りながら、「酒どころ」会津の魅力を探っていきます。
鶴ヶ城(若松城)
現在では、東北を代表する城下町として、歴女からの注目度も高い会津若松。
かつてこの地は「黒川」(くろかわ)と呼ばれ、「黒川城」を拠点に「蘆名義広」(あしなよしひろ)が治めていました。
そこに東北の覇権を狙う「伊達政宗」が戦を挑み、蘆名氏を敗走に追いやります。ところが、小田原の北条攻め(小田原征伐)の際、豊臣秀吉からの参陣の指令に伊達政宗は躊躇(ちゅうちょ)し、怒りを買いました。
これにより、伊達政宗は会津を没収され、出羽国米沢(でわのくに・よねざわ:現在の山形県米沢市)へ。
そこで豊臣秀吉から東北の監視役として指名を受け、会津に入ったのが蒲生氏郷です。それは、1590年(天正18年)のことでした。
会津に入った蒲生氏郷は、豊臣秀吉の代理執行人にふさわしい存在感を示すために、7層の天守を誇るお城を築城し、「鶴ヶ城」(つるがじょう)と名付けています。そして、その城下町には、蒲生氏郷の故郷・近江国日野(おうみのくに・ひの:現在の滋賀県蒲生郡日野町)にある「若松の森」にちなみ、「若松」と命名したのです。
ここで歴女の方に注目していただきたいのが、蒲生氏郷は、「織田信長」が最も認めた武将と言われるほどの逸材であったこと。豊臣秀吉は、若き伊達政宗の台頭を抑止するためにも、蒲生氏郷を抜擢しなければなりませんでした。
その理由には諸説あり、いずれ起きるかもしない「徳川家康」との戦を想定し、2方向から挟み撃ちが行なえるように会津に配置したという説や、豊臣秀吉自身が蒲生氏郷を恐れ、距離を置きたかったという説などがあります。蒲生氏郷の会津配置の背景を、歴女の視点から深読みしてみるのも面白いかもしれません。
ちなみに蒲生氏郷は、名刀工の刀剣コレクターとしても名高い武将。戦では常に先陣をきって戦ったにもかかわらず勝ち残ってきたのは、刀剣への造詣が深く、実戦向きの刀剣を愛用していたからと伝えられていることも、歴女としては押さえておきたいポイントです。
そんな蒲生氏郷の愛刀のひとつとして知られているのが、「刀 無銘 相州正宗」(そうしゅうまさむね)。蒲生氏郷が会津の地を治めていたことから、その号は「会津正宗」と称されています。
本刀は、蒲生氏郷が400貫で買い取ったあと、嫡男の「蒲生秀行」(がもうひでゆき)に受け継がれました。その後、徳川将軍家を経て、1885年(明治18年)に明治天皇へ献上され、現在は「御物」(ぎょぶつ:天皇家に伝来した私有品)として、宮内庁によって管理されています。
七日町通り
蒲生氏郷の描いた城下町プランの町割は、それまで入り混じっていた武家屋敷や寺社、町屋を区分するところから始まります。
城を囲む内堀と、川を利用した外堀の間を郭内(かくない)とし、武家地としたのです。
そして、外堀の外にあたる郭外は、町人地や寺社地としました。その狙いは、もちろんお城の防衛です。
城下町の生活において必要な水は、傾斜地であったことを利用し、川から水を引き入れて町内に配水するプランを導入。傾斜の強い地域では、用水路において、水が流れる方向に直線ではなく、横にズラした箇所を設けることで、水流の早さをコントロールし、横にも流れやすくしたのです。
その他に蒲生氏郷の功績として語り継がれているのは、商業振興策として近江などから商人を呼び寄せ、6ヵ所に市が立ち、毎日どこかで定期市を開いていたこと。ちなみに、現在の「七日町」(なのかまち/なぬかまち)は、7の付く日に市を開いていたことを示す地名です。
また蒲生氏郷は、商人だけでなく、木地師(きじし:ろくろを使って椀などの器物を作る職人)、漆器や酒造りの職人なども呼び寄せました。ここから会津若松を代表する工芸品としての漆器、そして、「日本屈指の酒どころ」である会津若松の歴史が始まったことに、蒲生氏郷ファンの歴女なら誇りを感じるでしょう。
蒲生氏郷が職人を呼び寄せたことがきっかけとなり始まった会津の酒造りを、全国に広めるまでに発展させたのは、会津藩の家老であった「田中玄宰」(たなかげんさい)です。
1783年(天明3年)、大凶作の影響もあり、会津藩の財政は危機に直面していました。そこで田中玄宰は、藩主の「松平容頌」(まつだいらかたのぶ)の許しを得て、経済活性化策に着手します。そのひとつが酒造りの改革だったのです。
田中玄宰は、まず品質を向上させることから始めました。灘地方の摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北西部、及び兵庫県南東部)から「杜氏」(とうじ/とじ:酒造りの職人集団の中で、最高責任者にあたる人)を、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南部)から「麹師」(こうじし)を招き、城下町の蔵元への技術指導を依頼します。
また、会津藩において、これまでの酒造りは規模が小さく、藩内で消費する程度の量。そこで田中玄宰は、藩直営の酒造りにも着手し、規模の拡大にも取り組みました。味の改善、生産量の増加が図られたことで、会津の酒造りは徐々に全国で認知されるようになったのです。
酒どころとして知られるまでに発展した背景には、酒造りに適した環境があったことも大きな要素です。周囲を山に囲まれた会津盆地は、豊かな森で育まれた清らかな水に恵まれ、おいしいお米を実らせています。夏は暑く、冬は寒さが厳しい盆地特有の気候も、酒造りには最適。また、忍耐強い会津人の気質が、真摯に酒造りと向き合う姿勢に繋がっているとも言われているのです。
酒造りに大切な水、米、人から生まれる会津の酒は、日本酒好きな女性からの高い支持を得ています。現在も藩とゆかりのある酒蔵が営業していますので、歴女を自称する人なら、何度も足を運んでみる価値はある場所です。
会津藩の財政再建には、地域産業の振興が不可欠と考えた田中玄宰は、酒造りの他にも、様々な改革に乗り出しました。田中玄宰が特に力を注いだのが、「漆器の改良」です。
歴史をさかのぼると、会津の漆は、蘆名氏が領主であった時代から続く特産品。歴代の領主も栽培を推奨し、貴重な収入源にしていました。また、漆の実から採れる蝋(ろう)を精製し、ロウソクも作られています。古くは会津の特産品として、織田信長にも献上されたことも伝えられているのです。
こうした漆液、蝋、ロウソクは年貢として納められ、会津藩にとっては欠くことのできない財源でした。そのため会津藩は、漆木の戸籍を作り、厳重な管理体制を敷いたのです。
田中玄宰は、会津の特産品として広く知られていた漆のさらなる有効利用に、「漆器」の振興がカギになると考えました。そこで、京都から「蒔絵師」(まきえし)を招き、職人に技術指導を依頼。現在では、「会津漆器」と称されるまでに評価を高める基盤作りを行なったのです。
そして、その繊細な技は、高級漆器のみならず、日用雑貨品やお土産品などの身近なアイテムにも広がっています。会津若松を訪れる際には思い出として、この地の歴史を思い起こさせる記念品を探してみましょう。
会津若松のお土産として、まず思い出すのは「起き上がり小法師」(おきあがりこぼし)と「赤べこ」ではないでしょうか。女性にも可愛らしさが人気の民芸品です。
まず、起き上がり小法師は、ご存じのように転んでもすぐに立ち上がることから、健康のシンボルとされる縁起物として有名。
この起き上がり小法師が生まれたのは、今から約400年前。当時の藩主であった蒲生氏郷が、無役の藩士に作らせたことから始まりました。
毎年1月10日に開催されることから「十日市」(とおかいち)と呼ばれる初市で売られ、現在でも地元の人々は、「家内安全」や「無病息災」を願う「会津三縁起」(あいづさんえんぎ)のひとつとして、買い求めています。
ちなみに、起き上がり小法師と共に、「初音」(はつね:子どもが遊ぶための竹笛)、「風車」(かざぐるま)の3つで「会津三縁起」。これらを正月に神棚に飾る習慣は、今も受け継がれています。その中でも起き上がり小法師は、家族が増えることを願い、その家族の人数よりひとつ多く買うのが通例です。会津の伝統を大切に思う歴女としては、ぜひ尊重したい習慣ですね。
起き上がり小法師
赤べこ
会津の民芸品赤べこも、蒲生氏郷ゆかりの玩具。蒲生氏郷が商業振興のために呼び寄せた職人から広がったと伝えられています。赤は魔除けを意味し、「べこ」は東北地方の言葉で牛のこと。
会津地方で疫病が流行ったとき、赤べこを持っていた子どもは助かったという逸話があることから、それ以来「子どもの守り神」とされるようになったという伝説もあります。
現在では、赤べこをモチーフにしたお土産品などもバラエティー豊かに揃っていますので、歴女目線でチェックしてみるのも楽しいかもしれません。
そして、歴女の皆さんにおすすめしたいお土産品が、和菓子です。蒲生氏郷は茶の湯にも精通しており、師事していた「千利休」(せんのりきゅう)からも、その才能が認められていた武将。のちに「利休門三人衆」(千利休門下の武将の中でも特に優れていると言われた3人)のひとりと称されるほどでした。
このような蒲生氏郷の影響で、会津若松では茶の湯が盛んになり、おのずと和菓子作りも繁栄していったのです。
現在の福島県は、「全国新酒鑑評会」で金賞受賞蔵数が日本一を記録したこともある酒どころ。その中でも評価が高いのが会津若松です。
せっかく訪れた機会に日本酒を味わってみたいという歴女なら、会津藩とゆかりのある酒蔵からスタートしましょう。
末廣酒造
1850年(嘉永3年)に創業の「末廣酒造 嘉永蔵」(すえひろしゅぞう かえいくら)。創業時の醸造法を守る会津藩の御用酒蔵です。
江戸時代末期には、藩の御用酒蔵であった会津若松を代表する酒蔵のひとつとなりました。
会津の水、会津の米にこだわり、昔ながらの醸造法で酒造りと向き合っており、現在でも、敷地内の井戸から湧き出す地下水を仕込み水に使用。米作りは契約農家と共に取り組んでいるのです。
伝統を守りながらも、低アルコールタイプの微発泡酒「ぷちぷち」といった新しい酒造りにも挑戦し、女性からも人気を集めています。
2013年(平成25年)には、明治から大正期に建てられた建物の主屋や新蔵、正面門など、全9ヵ所が国の登録有形文化財に認定。日本酒好き歴女としては、酒蔵見学が可能な点も嬉しいポイント。敷地内のカフェで味わえる大吟醸を使ったシフォンケーキも酒蔵ならでは。ショップの試飲コーナーでは、お好みの味の銘柄との出会いがあるかもしれません。
鶴乃江酒造
「鶴乃江酒造」(つるのえしゅぞう)の創業は、1794年(寛政6年)。
会津藩御用達頭取を務めた「永寶屋」(えいほうや)一族から分家として独立した林家によって始まりました。
以来、200年以上続く歴史の中で、伝統的な手作り製法を貫いている老舗の酒蔵です。若い人にも楽しんでもらえる日本酒をモットーに掲げ、酒造りを追求しています。歴史はもちろん、女性杜氏が醸す日本酒は要チェック。
大学で醸造学を学んだ長女が実家に戻り、女性杜氏として母と一緒に開発した「ゆり」は、店頭で試飲が可能。スッキリとした優しい味わいが評判で、女性からも飲みやすいと支持されています。歴女としても女性が醸す味わいが気になるところではないでしょうか。ここでしか購入できない日本酒もありますので、ぜひ訪れてみたい酒蔵です。
かつては城下の玄関口として旅籠や問屋、料理屋が建ち並び、会津一の賑わいを見せていた「七日町通り」(なぬかまちどおり)。
現在は、明治から昭和初期に建てられた木造商家や蔵、洋館などがレトロな雰囲気を醸し出す通りへと生まれ変わりました。通り沿いには、会津若松の伝統を受け継ぐ老舗も点在していますので、ゆっくり歩いてみたい通りです。
1772年(安永元年)から、会津藩御用達として「絵ロウソク」の製造をしてきた老舗です。
手間をかける昔ながらの方法で、1本1本を丁寧に手作りしています。手で描いたと思えないほどに精巧な絵柄も魅力のひとつ。和ロウソクならではの炎の揺れは、眺めているだけで癒されます。
七日町通りにあり、絵付け体験も行なえますので、城下町散策の思い出に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
1848年(嘉永元年)に創業した「本家長門屋」(ほんけながとや)。当時、藩主であった「松平容敬」(まつだいらかたたか)からの命を受けて、庶民のための菓子作りを始めました。
おすすめは、会津産の鬼クルミを餡で包んだ「香木実」(かぐのきのみ)。上品な甘さとクルミのほろ苦さのバランスが絶妙。
季節限定の和菓子もあり、甘い物好きの歴女の皆さんに、ぜひ足を運んでいただきたいお店です。