歴女が訪れたい城下町

伊達政宗が拓いた杜の都 仙台市

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歴女が好きな戦国武将ランキングにおいて、常にトップクラスの人気を誇る「伊達政宗」(だてまさむね)。「東北の雄」(とうほくのゆう)として名を馳せた伊達政宗により、青葉山に「仙台城」(別名青葉城)が築かれたことから、仙台は繁栄の道を歩み始めました。伊達政宗が築いた城下町の姿は、戦時下の仙台空襲によって消えましたが、その後、伊達政宗の思いは地元の人々へと受け継がれ、「杜の都」(もりのみやこ)として蘇っています。仙台城の築城から400年以上の歳月が過ぎた今も、伊達政宗を慕う歴女達がゆかりの地を訪れ、たいへんな賑わいを見せているのです。
今回は、仙台城下町の歴史を振り返りながら、伊達政宗が現在の仙台にもたらしたものについて、歴女ならではの視点でご紹介します。

伊達政宗の取り組みが発展へと導いた東北の中核地・仙台

伊達政宗の築城から始まった仙台繁栄の歴史

仙台城

仙台城

伊達政宗」が「仙台城」を築いたのは、1601年(慶長6年)、「関ヶ原の戦い」を終えた直後のこと。

その当時、上杉氏と緊張関係にあった伊達政宗は、「青葉山」に着目。東は広瀬川の流れる断崖、西は青葉山の自然林、南は瀧ノ口渓谷(たつのくちけいこく)といった自然の要害で守られています。

伊達政宗は、こうした立地を効果的に利用し、広瀬川を外堀とした防御に強い山城を築きました。そして、「千代」(せんだい)と呼ばれていたこの地の名称を、現在の「仙台」に改めたのです。

伊達政宗は、仙台城の築城と同時に、城下町の造営にも着手しました。町割の基準になったのは、東西を走る大町通りと、南北に走り、奥州街道(おうしゅうかいどう)の交差する「芭蕉の辻」(ばしょうのつじ)です。そして、この2つの幹線道が基軸となり、碁盤の目状に区画されていきました。

お城に近い広瀬川付近には、重臣の武家屋敷を置き、幹線道沿いは商人を中心とした町人地とし、その周囲を中級から下級の武家地に定めたのです。さらには、城下の外れに職人のための町人地、そして寺社地というように、大規模な区分けを実施しています。

ちなみに、この当時、武家の住む区域は「丁」(ちょう)、町人の住む区域は「町」(まち)と呼ばれていました。歴女の皆さんが仙台を訪れた際には、かつて武家地であった名残のある丁が付く地名の場所を、ぜひ探してみましょう。

大小2つの城下町から生まれた仙台城下町

ここで歴女として注目しておきたいのは、仙台には、仙台城以外に、もうひとつのお城があったこと。それが「若林城」(わかばやしじょう)です。

若林城は、1628年(寛永5年)、仙台城下の東南に、伊達政宗の隠居屋敷として建てられました。江戸幕府には、屋敷と伝えていましたが、堀と土塁で囲まれた構造は、まさにお城そのもの。伊達政宗は若林城の完成と共に、同城を居城としています。

そして、若林城下町の整備が進むと、伊達政宗の重臣達は若林城のもとにも武家屋敷を建て始め、一部の町人達も移り住むようになりました。また、若林町奉行も置かれるなど、仙台城の城下町とは別に、独立した城下町として機能していたと伝えられているのです。

伊達政宗の死後、若林城は廃城になりましたが、仙台の城下町は、仙台城と若林城の城下町によって形成された、一大城下町へと成長していきました。日本屈指の規模となった城下町は、人口60,000人あまりであったと言われています。

杜の都を育み、城下町の繁栄を支えた四ツ谷用水

仙台城の前に広がる平野部は、洪水や津波による被害が心配される場所でした。そのため伊達政宗は、あえて段丘地形(だんきゅうちけい)を選んで、城下町を造ったのです。

ところが、そのときに課題となったのが水不足。そこで伊達政宗は、広瀬川の上流に取水口を設け、城下町に水を供給する用水路の開削を命じます。それが「四ツ谷用水」(よつやようすい)です。

広瀬川から梅田川に流れる本流から3本の支流、そして数多くの枝流に分かれ、城下町を縦横に走っていました。その総延長は44kmにも及んでいたのです。防火や散水、洗濯などの生活用水、農業用水、水車動力など、多目的に利用され、低地では、排水の機能も、四ツ谷用水が担っていたと伝えられています。城下町の人々の暮らしや産業に欠かせない用水となり、城下町の発展を支えたことは言うまでもありません。

また、「杜の都」(もりのみやこ)と呼ばれるようになった背景にも、この四ツ谷用水が大きくかかわっています。この当時、仙台藩は武家屋敷において植林を行ない、屋敷林を形成する植林策を推奨していました。伊達政宗は、家臣達に隣との境には杉を植え、屋敷内には栗や柿、梅などの果樹を植えるように命じたのです。

さらに裏庭には竹を植え、菜園造りも勧めたと言います。もちろん、神社仏閣の境内や参道、敷地内などにも、積極的に植林が行なわれました。こうした政策を進めた理由には、万が一藩の財政状況が悪くなっても、家臣達を見放したくないという伊達政宗の思いがあり、生活の糧となる果樹や竹を植えさせたと考えられています。

四ツ谷用水のおかげで、植物がよく成長した仙台の地には、青葉山を含む緑豊かな風景が生まれ、明治時代頃には、杜の都と呼ばれるようになったのです。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

仙台の食文化と経済発展に貢献した伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗は、茶道や能を心得た教養人であると同時に、戦国武将一の食通であったと言われています。朝晩の献立は自ら考え、ときには自ら調理もしていました。

仙台藩の江戸屋敷で将軍を接待した際にも、献立を考えて味見をし、配膳まで行なったこともあったとか。

「馳走とは旬の品をさりげなく出し、主人自らが調理して、もてなすことである」とは、伊達政宗が料理に対して残した言葉のひとつです。いかに食にこだわりを持っていたかが分かります。

そんな伊達政宗が仙台で取り組んだことのひとつが、「味噌」の醸造です。長期保存が可能な味噌は、兵糧として重要な食材でした。

料理好きであった伊達政宗こだわりの味噌が最初に注目されたのは、1593年(文禄2年)のこと。「豊臣秀吉」の「朝鮮出兵」の際、伊達政宗をはじめとする諸藩の武将達は、それぞれ味噌を持参していました。長期に亘る戦の間に、伊達政宗以外の武将の味噌は腐敗してしまいましたが、伊達政宗の味噌だけは、変質しなかったと伝えられています。

このとき伊達政宗は、自身の味噌を他の武将に分け与えており、伊達政宗の味噌は、武将達の間で評判になりました。

その後、仙台の地に入った伊達政宗。仙台城内には、日本初となる味噌の量産施設「御塩噌蔵」(おえんそぐら)を設置します。そして、仙台藩の江戸藩邸にも仙台から原料を送り、江戸であっても、仙台と同じ味噌が醸造できるようにしたのです。さらには、藩邸で用いて余った味噌が売られるようになり、今では「仙台味噌」と呼ばれています。

仙台味噌は、赤味噌を代表するブランドのひとつとして、今でも全国にその名が広く知られています。仙台味噌の特徴は、辛口でありながら濃厚で深い旨味と芳醇な香り。伊達政宗と同様に料理好きな歴女の皆さんは、仙台のお土産リストに加えてみてはいかがでしょうか。

また伊達政宗は、味噌のみならず、塩産業や米産業を発展させるために尽力しました。塩については増産を図り、その販売を藩の管理のもとで行なっています。米産業については、運河を整備し、新田開発に取り組んだのです。この米は江戸でも売られるようになり、仙台の地は、米どころとしても知られるようになりました。

こうした伊達政宗の産業政策により、仙台藩は経済的な発展を遂げていったのです。伊達政宗ファンの歴女の皆さんは、勇猛な武将としてだけではなく、有能な政治家としてその手腕を振るう一面にも、心惹かれるかもしれません。

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戦国武将「伊達政宗」

今に受け継がれる伊達政宗の思い

ケヤキ並木

ケヤキ並木

明治時代に初めて、杜の都と形容されるようになった仙台の地。

これは、伊達政宗の施策によって築かれた城下町の景観が、明治時代になっても、地元の人々によって受け継がれていたことを意味しています。

その後も、緑溢れる仙台城下町の姿は守られ続けていましたが、残念ながら、太平洋戦争による仙台空襲によって甚大な被害を受け、消えることになってしまったのです。

戦後の復興事業により、仙台の町の風景は、様々に変わっていきます。その一例を挙げると、屋敷林に代わり、杜の都の象徴となった街路樹。道路の拡幅(かくふく)整備が進み、「青葉通り」や「定禅寺通り」(じょうぜんじどおり)などでは、街路樹としてケヤキが植えられました。

さらに行なわれた道路や歩道の整備、地下鉄工事などの事業の中でもケヤキの植樹が進み、現在では見事なケヤキ並木へと生長。杜の都である仙台の新たなシンボルになっています。

なかでも、定禅寺通りのケヤキ並木は、「仙台七夕まつり」や「SENDAI光のページェント」のメインストリートとしても脚光を浴び、地元の人々はもちろん、多くの観光客で賑わうスポットのひとつです。

このように、往時の姿から変化した仙台城下町ですが、その原形は残されています。例えば、現在のJR仙台駅を境にして、道路の走っている方向が東西で異なっており、これは、仙台城と若林城、2つの城下町が組み合わさって生まれた場所である名残です。

城下町に関心のある歴女の皆さんは、この道路の様子を地図などで確認してみるのも、面白いかもしれません。

今の仙台にも育まれている地元の人々の伊達政宗愛

仙台の人々にとって、常に伊達政宗は特別な存在であったに違いありません。その思いは地元のPR活動にも反映されています。そのうちのひとつが、「奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊」です。

甲冑を身にまとった伊達政宗をはじめ、「伊達成実」(だてしげざね)、「片倉小十郎景綱」(かたくらこじゅうろうかげつな)、「茂庭綱元」(もにわつなもと)などの家臣と共に、仙台城跡を拠点として、観光案内やパフォーマンスを披露しています。

仙台を訪れた際には、歴女旅の思い出として記念撮影をお願いしてみませんか。

ずんだ餅

ずんだ餅

また、仙台の味として、最も有名な郷土菓子と言えば「ずんだ餅」。

名前の由来には諸説ありますが、伊達政宗にかかわる逸話が多いことからも、伊達政宗が地元の人々に愛されていることが窺えます。

例えば、伊達政宗が合戦へと出陣する際に、陣太刀(じんだち/じんたち:太刀拵の様式のひとつ。主に儀仗用であり、装飾的であることが特徴)を用いて、枝豆を砕いて食したという説。

東北の方言で、陣太刀を「じんだづ」や「ずんだづ」などと発音されていたことから、茹でてすり潰した枝豆を、「ずんだ」と呼ぶようになったとされています。

この他にも、「甚太」(じんた)と言う農民が、伊達政宗に献上したという説もありますが、どの説も定かではありません。しかし、このずんだ餅が、仙台のご当地グルメとして人気を博していることは事実。

今では、餅などの和菓子の他、洋菓子やシェイクなどのドリンク、そしてスナック菓子などにも使われています。

歴女旅で訪れたいおすすめスポット

町のあちらこちらに、伊達政宗の息吹を感じることができる場所が多く残る仙台城下町。ここからは、伊達政宗好きの歴女の皆さんはもちろん、そうでない方々にも楽しんで頂ける、仙台城下町で歴女旅におすすめのスポットをご紹介します。

村上屋餅店

創業140年の歴史を誇る老舗和菓子屋の「村上屋餅店」(むらかみやもちてん)。ずんだ餅の名店として、地元の人達から愛され続けています。

ずんだ餅を「づんだ餅」と表記しており、伝統を守るこだわりが感じられるお店です。餅は宮城産のもち米「ミヤコガネ」、餡には、枝豆の中でも香りと甘みの強い茶豆を使用。

豆本来の風味を引き出すために、砂糖の使用は、極力控えています。ゴマ、づんだ、クルミの3種類の餡が楽しめる「三色餅」は、お店でしか味わえないメニュー。グルメな歴女の皆さんに、ぜひ訪れて頂きたいスポットです。

秋保温泉

秋保温泉

秋保温泉

仙台で宿泊を考えているのであれば、伊達家ゆかりの温泉地でくつろいでみるのはいかがでしょうか。

奥州三名湯のひとつと称される「秋保温泉」(あきうおんせん)は、仙台藩主・伊達家のための「御殿湯」(ごてんゆ)が置かれていた温泉地です。

伊達政宗ゆかりの観光スポットをめぐり終えてから、少し足を伸ばして訪れる歴女も多いとか。

歴代藩主達も愛した名湯で、散策後の心地良い疲労感を癒すのにもぴったり。仙台の都心から、車で約30分の距離のため、もちろん日帰り入浴も可能です。

SENDAI光のページェント

SENDAI光のページェント

SENDAI光のページェント

毎年12月中旬から31日まで開催されるイルミネーションイベントが、「SENDAI光のページェント」です。

会場となる定禅寺通りや、青葉通りのケヤキ並木などが、約60万個の電球で彩られます。

期間中、18時、19時、20時には1度消灯され、再び点灯されるスターライト・ウインクや、色とりどりの電飾を施したページェントカーの走行など、様々な演出も見物です。

派手好きで知られていた伊達政宗なら、きっと心から楽しんだことでしょう。伊達政宗のそんな姿を想像しながら幻想的な風景を眺めるのも、歴女らしい楽しみ方です。

伊達政宗が拓いた杜の都 仙台市

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