歴女が訪れたい城下町

食い倒れの街の原点、天下の台所へ導いた水路 大阪城下町

文字サイズ

「水の都」と呼ばれ、日本屈指の商都にまで発展した大阪。その礎を築いた「豊臣秀吉」を、大阪の人々は親しみを込め「太閤はん」と呼びます。
豊臣秀吉が「織田信長」の志を継ぎ、「大坂城」の築城をスタートさせたのは、1583年(天正11年)のこと。この城下町の繁栄を支えたのは水路でした。その後、江戸幕府のもとで水路開発はさらに進み、水運ネットワークの充実が「天下の台所」を生み出したのです。そして、今日の「食い倒れの街」へと繋がりました。
ここでは、天下の台所を支えた水路をテーマに、歴女の視点からその足跡をたどります。

  • 大阪城・大阪歴史博物館・石切劔箭神社で刀剣巡りをしよう!
    刀剣巡りができる大阪城などに加え、大阪府周辺の地域で刀剣を所蔵・展示している施設も合わせてご紹介します。
  • 大阪城の桜を見に行こう!
    春と言えばお花見!桜の名所、大阪城で春と歴史を堪能しよう!

政治の拠点から物流の拠点へ、時代を担った大坂

大阪城下

大阪城下

豊臣秀吉」が描いた天下統一のための拠点・大坂(おおさか:現在の大阪府)は、江戸時代に入ると物流のための拠点へと変わりました。

そして、商人達が主役となり、天下の台所として経済が発展。

織田信長」の思いから始まり、豊臣秀吉、徳川幕府へ、それぞれの時代と共に成長を遂げてきた城下町・大坂の歴史をご紹介します。

大坂に着目した織田信長の先見性

織田信長

織田信長

大坂が持つ地の利をいち早く見抜いたのは、天下統一を目指した織田信長です。

朝廷のある京都に近く、見晴らしの良い上町台地(うえまちだいち)の西は海に面し、残る三方には平野が広がっていました。

その台地のふもとに流れているのは、「淀川」(よどがわ)、「大和川」(やまとがわ)の二大河川で、それを利用した水運が物流の主役となります。この地は物資運搬にとっても恵まれたロケーションにあったのです。

また、当時すでに国際的な貿易港として栄えていた堺に近いことも、織田信長が大坂に着目した理由のひとつ。経済的な優位性はもちろん、ライバルとなる大名達よりも早く世界の情報を収集することもできました。

織田信長は、ここ大阪こそ、天下人になるための政治・軍事・経済の一大拠点にふさわしいと考えたのです。

そこで織田信長は、この地において戦国武将よりも強い影響力を誇っていた「大坂本願寺」(おおさかほんがんじ)に戦いを挑みます。そして、1580年(天正8年)、11年もの歳月を経て、ついに退去させることに成功しました。

念願であった大坂を手に入れた織田信長ですが、その2年後の1582年(天正10年)、「本能寺の変」によってこの世を去ってしまいます。志なかばで逝った織田信長は、どのような大坂ビジョンを描いていたのか、織田信長ファンの歴女ならずとも気になるところです。

  • 織田信長のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!

  • 武将達が戦った全国各地の古戦場をご紹介!

天下統一へ踏み出す豊臣秀吉の大坂構想

豊臣秀吉

豊臣秀吉

織田信長の遺志を継ぎ、大坂に自身の本拠地を置くことを決意した豊臣秀吉は、1583年(天正11年)に大坂城築城と並行して城下町の建設にも着手。

この地を天下統一後の首都として考えていたと言われています。

豊臣秀吉の大坂城下町構想は、まず大坂城の南エリアから開発をスタート。いずれはさらに南へ拡張し、貿易港として栄えていた堺を城下町の外港にしたいと望んでいました。

また、豊臣秀吉は、海や河川に面していない南が大坂城の弱点と見ており、そのため町割では、武家地、寺社地、町人地を明確に区分。

諸大名には城の周辺に屋敷を建てさせ、周囲に散らばっていた寺を南の地域に集積させることで、城の防衛を強化していきます。さらに「惣構堀」(そうがまえぼり:城を取り囲む防御のための堀)を造成しました。

また、城の北には「天満」(てんま)、西には「船場」(せんば)といった地域の開発も進めます。そして、「平野郷」(現在の大阪市平野区)など、近隣の商業都市からも商人を呼び寄せたことで人口は急速に増加。当時、28万人にも膨れ上がったと伝えられています。

こうして政治・軍事・経済の中心地が整備されていきました。

  • 豊臣秀吉のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

大坂の礎を築いたインフラ整備

太閤下水

太閤下水

豊臣秀吉の城下町プロジェクトで、忘れてはならないのがインフラ整備です。

水運による物資運搬を推し進めるために、「東横堀川」(ひがしよこぼりがわ)、「西横堀川」、「阿波堀川」(あわぼりがわ)などの開削(かいさく:野山を切り開いて道や運河を通すこと)に力を注ぎました。

こうした堀の開削において、歴女の注目を集めているのが「安井道頓」(やすいどうとん)。豊臣秀吉に仕え、大坂城の築城にも従事した人物です。

安井道頓は、築城の功として大坂城の南の地を与えられます。その地域の開発には水路が不可欠と考えた安井道頓は、豊臣秀吉の許可を得て自らの資金で河川の開削を始めました。

しかし、1615年(元和元年)、「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)に巻き込まれ、完成を観ぬまま討死。従兄弟の「安井道卜」(やすいどうぼく)らが事業を引き継ぎ、同年完成に至りました。

その後、大坂城主となった「松平忠明」(まつだいらただあき)が、安井道頓の功績をたたえ「道頓堀」と名付けたのです。地域の開発に情熱を注いだことはもちろんですが、戦況が不利な中、最期まで豊臣家に忠誠を尽くしたことに歴女としては心が打たれます。

また豊臣秀吉は、低湿地帯であった船場の開発において、のちに「太閤下水」(たいこうげすい)と呼ばれるようになった下水溝も整備。その幅は1尺(30.3cm)から4尺(1.2m)が基準ですが、なかには1間(1.8m)から2間(3.6m)に及ぶ規模の箇所もありました。

その下水溝の長さは10kmにも及び、改良を加えた下水溝の一部は、今も排水路として利用されているのです。

現在は「市立南大江小学校」(大阪市中央区農人橋)西側に見学用施設が設置され、改良後の下水溝の様子が観られるとのことです。

徳川幕府による復興で天下の台所へ

浪花名所図会 雑喉場魚市の図(国立国会図書館デジタルコレクションより)

浪花名所図会 雑喉場魚市の図
(国立国会図書館ウェブサイトより)

豊臣秀吉亡きあと、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」(おおさかふゆのじん)、翌年の大坂夏の陣によって、大坂城下町は壊滅状態になりました。

徳川家康」が江戸に幕府を開いたことで、政治の中心は江戸へ移ります。江戸の開発が優先されたため、大坂城下町の再建が本格的に始動したのは、2代将軍「徳川秀忠」(ひでただ)のときでした。

徳川秀忠は大坂を幕府直轄領(天領)に定め、「伏見城」を廃城。伏見の町人を大坂に移住させたのです。一方、大名が江戸の屋敷に移ったことで、武士の数は自ずと減りました。その結果、人口の90%以上が町人という異色の城下町が生まれたのです。

徳川幕府の描いた大坂構想は、全国の物流拠点としての役割でした。そのために、堀川の整備にますます力を注ぎます。水運ネットワークの拡充により、諸大名は河岸に蔵屋敷を設け、年貢米や特産品を備蓄していくシステムが確立しました。物資が大坂に1度集まり、全国へ物資を送り出す中継拠点となったことで、「天下の台所」と呼ばれるようになったのです。

物流センターの役割を担った大坂には、多くの市場が生まれました。その中でも「堂島」(どうじま)の米市、天満の青物市、「雑喉場」(ざこば)の生魚市は「三大市場」と呼ばれるほどの活況を見せます。大坂の米市で決まった価格が全国の基準にもなりました。

そして、物資が集中することで問屋や両替商といった商人の活動も活発となり、やがて日本を代表する商業都市へと発展していくのです。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

歴女も脱帽! 開発を推進した町人パワー

江戸を支える重要拠点となった大坂では、経済の発展に伴い財力を備えた有力商人も誕生していました。そうして財を成した商家は、さらなる商業振興のために資金を提供。堀の開削や道の造成を行ない、「中之島」や堂島などの地域開発を進めました。

また、当時の大坂の風景は「八百八橋」(はっぴゃくやばし)と表現されるように、100以上の橋が架けられていましたが、幕府が費用を負担した公儀橋(こうぎばし)は、わずか12橋にすぎません。例えば、現在も利用者の多い橋として有名な「淀屋橋」(よどやばし)は、大坂を代表する豪商「淀屋」が架けたことに由来した名前です。

地域開発にとどまらず、架橋(かきょう:橋をかけること)にも商人達が積極的に参加していた背景には、大坂城下町ならではの統治体制がありました。

この頃の大坂は、「大坂三郷」(おおさかさんごう)と呼ばれた「北組」、「南組」、「天満組」のエリアに分けられ、組ごとに有力な商人を「惣年寄」(そうどしより:町政を担う役職)に任命し、町を管理。町のまとめ役である惣年寄は、町奉行と交渉できる立場にあり、町人達の要望を伝えていたと言います。つまり、町人の自治体体制を尊重していたのです。

こうした関係性は、城下町の整備や経済の発展にかかわる町人達がパワーを発揮しやすい土台となりました。現在の大阪の人々にも、自分達が築き上げた街という自負があるとのこと。今に受け継がれている大阪人パワーと直接ふれあうのも、歴女旅の醍醐味のひとつです。

歴女なら見逃せない! 大坂城下町の名残

大坂夏の陣によって壊滅した、豊臣秀吉時代の城下町。今、その景色を目にすることはできませんが、その名残を感じることは可能です。

例えば、道に残された名前。豊臣秀吉は、大阪城の大手門に向かう東西の道をメインストリートに設定しました。当時、東西の道に沿って商店や町家が並び、南北の道はあくまでも裏通りだったのです。現在の大阪においても、東西の通りを「通」(とおり)、南北の通りを「筋」(すじ)と呼ぶのは、その名残と言えます。

また、空堀(からほり:水の入っていない堀)を由来とする「空堀通」。かつて南の惣構堀であったことから名付けられました。そして、その近くには「空堀商店街」もあります。空堀地区は、大阪空襲の被害が少なかった地域のため、昭和初期の街並みが所々に残っていることが魅力。

その他にも、「下寺町」はかつて寺社地であったことを示す町名です。実際に訪れてみると、現在も数多くのお寺が建ち並んでいるのを観ることができます。

天下の台所が育んだ食文化

お好み焼き

お好み焼き

現在、「食い倒れの街」として名を馳せる大阪。そう呼ばれるようになった理由にも、天下の台所であったことが深くかかわっています。

まず注目したいのが、「だし文化」です。江戸時代、天下の台所として知られた大坂には、全国から特産品が集まっていました。そのひとつが良質な昆布。それが手軽に手に入ったことで、昆布からだしを取る食文化が発展し、関西全域へと広がっていったのです。

そして、大阪人のソウルフードと言えば、「たこ焼き」、「お好み焼き」、「ネギ焼き」など、小麦粉を使った食べ物。大阪の人々は愛情を込めて「粉もん」と呼んでいます。こうした粉物がおいしいのも、だしのおかげという意見もあるほどです。

ではなぜ、粉もんが大阪を代表するグルメになったのでしょうか。それには諸説あり、例えば、商人の町だったため、安くてうまい物をみんなが求めたという説や、忙しい商人にとっては手軽に食べられることが重要という説。また、大阪人はアレンジするのが好きという説もあります。

もちろん、戦後の貧しい時代、小麦粉が米の代用品として普及したことが大きく影響していることは間違いありませんが、商人が中心の町であったことは深く関係しているのです。

ちなみに、粉物の起源は、「千利休」(せんのりきゅう)が茶会で出した茶菓子「麩の焼き」(ふのやき:小麦粉を水に溶いて薄くのばして焼いた物)にあります。

おいしい物を味わいながら、歴史的背景をしっかりと噛み締められるのも、歴女ならではの楽しみ方です。

歴女も注目!いつも新たなご当地グルメが誕生する大阪

粉もんの代表格と言えば、たこ焼きやお好み焼き。大阪を発祥の地とするたこ焼きは、登場以来、それぞれのお店が生地の味付けや具材の大きさ、ソースなど、様々な工夫を凝らし、常に進化を続けています。お好み焼きも同様に、お店独自でアレンジを加えているため、実にバラエティー豊かです。

その大阪で、次の新名物として人気が高まっているのが、「道頓堀やきそば」。もっちりとした極太麺と、だし、スパイスの効いた濃厚ソースが特徴です。話題のご当地グルメにこだわりたい歴女なら、旅の思い出作りにもチェックしておきたい一品。

また、大阪グルメの定番として認知された「串カツ」は、歴女からの注目度も高まっているとのこと。共用のソース容器に串カツを1度入れて食べる大衆的なスタイルは、大阪独特。ソースの「2度付け禁止」がマナーですので、もう1度ソースを付けたいときはキャベツですくってかけます。

  • クックドア
    飲食店をお探しなら「クックドア」で検索!
  • お好み焼き/クックドア
    全国各地のお好み焼き店を検索できます!

歴女におすすめ!ぜひ立ち寄りたい大阪の歴史体感スポット

大阪歴史博物館

大阪歴史博物館

大阪歴史博物館

大阪を訪れたのなら、地元歴女に人気のスポットとして話題の「大阪歴史博物館」は見逃せません。各フロアが時代別に分かれ、10階の古代から見学を始める仕組みです。

9階の中世近世のフロアでは、豊臣秀吉の城下町構想や、当時の町並みなどが映像や模型で確認できます。10階から9階へ下りる階段は、大阪城の絶好のビューポイントとしても人気です。

また、特別展の企画内容もチェックしてからのお出かけをおすすめします。

からほり御屋敷再生複合ショップ 練

大正末期築造の御屋敷を再利用した、複合商業施設です。カフェや雑貨、そしてたこ焼きのお店など、15店舗が営業しています。母家と蔵、表門は、2012年(平成24年)に国の登録有形文化財に登録されました。

懐かしさを感じさせる雰囲気ですので、空堀地区を散策のときは歴女仲間と休息するのにも向いています。

また、ここから徒歩で約5分のところにある「からほり長屋再生複合ショップ 惣」も人気のスポット。どちらも訪れてみれば、御屋敷と長屋の違いを実感することができます。

食い倒れの街の原点、天下の台所へ導いた水路 大阪城下町

食い倒れの街の原点、天下の台所へ導いた水路 大...をSNSでシェアする

「歴女が訪れたい城下町」の記事を読む


伊達政宗が拓いた杜の都 仙台市

伊達政宗が拓いた杜の都 仙台市
歴女が好きな戦国武将ランキングにおいて、常にトップクラスの人気を誇る「伊達政宗」(だてまさむね)。「東北の雄」(とうほくのゆう)として名を馳せた伊達政宗により、青葉山に「仙台城」(別名青葉城)が築かれたことから、仙台は繁栄の道を歩み始めました。伊達政宗が築いた城下町の姿は、戦時下の仙台空襲によって消えましたが、その後、伊達政宗の思いは地元の人々へと受け継がれ、「杜の都」(もりのみやこ)として蘇っています。仙台城の築城から400年以上の歳月が過ぎた今も、伊達政宗を慕う歴女達がゆかりの地を訪れ、たいへんな賑わいを見せているのです。 今回は、仙台城下町の歴史を振り返りながら、伊達政宗が現在の仙台にもたらしたものについて、歴女ならではの視点でご紹介します。

伊達政宗が拓いた杜の都 仙台市

琉球王国・琉球文化のシンボル首里城と城下町

琉球王国・琉球文化のシンボル首里城と城下町
1429年から1879年までの450年間、長きに亘って存在した「琉球王国」。その政治・経済・文化の中心地であった「首里城」には、海運王国として栄え育んできた独自の文化が色濃く反映されています。それは建築様式にとどまらず、琉球における様々な文化にも影響を与えたのです。 首里城は、2019年(令和元年)10月に火災が発生し、主要な建物が全焼してしまいましたが、本土では味わうことのできない独特の情緒は、歴女にも大人気でした。今回は、復興に向けた取り組みが注目されている首里城を中心に発展した、琉球王国の歴史と文化についてご紹介します。

琉球王国・琉球文化のシンボル首里城と城下町

三英傑の足跡が今に息づく名古屋城下町

三英傑の足跡が今に息づく名古屋城下町
「尾張名古屋は城でもつ」と言われるように、愛知県名古屋市の繁栄は名古屋城から始まりました。その城下町は、「清洲越し」という壮大なプロジェクトによって生まれ、日本三大都市へ発展する礎となったのです。 名古屋城の築城を命じた「徳川家康」はもちろん、天下統一を目指した「織田信長」、その遺志を継いだ「豊臣秀吉」。戦国時代のシンボルとも言える「三英傑」(さんえいけつ)は、名古屋にゆかりのある武将として、今も地元の人々から愛され続けています。現在に残る往時の町割、英傑達が若き日々を過ごした場所など、戦国武将好きな歴女にとっても魅力にあふれた城下町です。 ここでは、三英傑・織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の思いを感じながら散策してみたくなる、名古屋の城下町について述べていきます。

三英傑の足跡が今に息づく名古屋城下町

多くの幕末志士を生んだ萩市

多くの幕末志士を生んだ萩市
山口県萩市にある萩城下町は、「幕末の風雲児」と呼ばれた「高杉晋作」(たかすぎしんさく)をはじめ、「久坂玄瑞」(くさかげんずい)や「木戸孝允」(きどたかよし:別名・桂小五郎)など、維新を牽引した英傑達の故郷としても広く知られており、幕末好きの歴女にとっては、聖地のひとつになっています。 2015年(平成27年)、「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして萩城下町が登録されたことで注目度が高まっており、「萩焼」や「ご当地スイーツ」など、歴女旅の楽しみ方も多彩です。

多くの幕末志士を生んだ萩市

善光寺街道から発展した松本城下町

善光寺街道から発展した松本城下町
白と黒のコントラストが映える松本城(長野県松本市)は、「烏城」(からすじょう)とも呼ばれる美しいお城。現存する5層6階の天守閣は日本最古で、お城好きの歴女からも人気が高い名城のひとつです。現在も、松本城下町には大火の経験から生まれた「なまこ壁」の土蔵が残り、「鉤の手」(かぎのて)や「丁字路」(ていじろ)など、敵の侵入を防ぐ複雑な仕掛けがたくさん。そんな松本城下町の歴史を振り返りながら、歴女必見の温泉や信州蕎麦などのご当地グルメについてご紹介します。

善光寺街道から発展した松本城下町

藩が支え酒どころとなった会津若松市

藩が支え酒どころとなった会津若松市
東北を代表する名城として名高い「鶴ヶ城」(つるがじょう:別名若松城)をシンボルに仰ぎ、繁栄を遂げてきた福島県にある城下町・会津若松。1868年(慶応4年/明治元年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)において、「白虎隊」(びゃっこたい)の悲劇を生んだ地としても知られ、歴女はもとより多くの人々が訪れる地です。 そんな会津若松城下町は、ここ数年で、「日本屈指の酒どころ」として熱い視線が注がれるようになりました。会津のお酒は、毎年春に開催されている「全国新酒鑑評会」(ぜんこくしんしゅかんぴょうかい)でも高い評価を得るまでに飛躍したのです。今回は、歴女の視点で会津若松の城下町の歴史を振り返りながら、「酒どころ」会津の魅力を探っていきます。

藩が支え酒どころとなった会津若松市

世界遺産の姫路城と城下町

世界遺産の姫路城と城下町
「姫路城」(現在の兵庫県姫路市)は、安土桃山時代の武将「池田輝政」が築城し、当時のままの天守が現存する名城のひとつです。白鷺が羽を広げたかのような美しい佇まいから、「白鷺城」(しらさぎじょう)とも呼ばれています。歴史的に価値が高いことはもちろん、その佇まいの美しさから、1993年(平成5年)には、「世界遺産」に登録されました。 城下町の歴史はもちろん、姫路藩ゆかりの伝統工芸、姫路城のビューポイントなど、歴女におすすめの姫路の魅力をご紹介します。

世界遺産の姫路城と城下町

加賀百万石の金沢城下町

加賀百万石の金沢城下町
加賀百万石の歴史を、町のあちらこちらに映し出す金沢城下町。歴代藩主の影響によって花開いた、美しい伝統工芸や食文化は、城下町の歴史と共に受け継がれ、現代ではモダンアートの町として名を馳せるまでになりました。金沢は、歴女が心惹かれる趣のある風景はもちろん、一言では語り尽くせない魅力がある城下町。ここでは、多彩な見どころにあふれた金沢城下町をご紹介します。

加賀百万石の金沢城下町

天下の酒どころ 伏見城下町

天下の酒どころ 伏見城下町
かつて伏見(現在の京都府京都市伏見区)は、平安貴族が別荘を構える風光明媚な土地として知られていました。「豊臣秀吉」は伏見城を築いて武家の首都として発展させ、「徳川家康」は中継拠点としての基盤づくりに貢献。幕末には「坂本龍馬」をはじめ、勤王の志士達が日本の未来を語り合った拠点です。多くの英雄達にゆかりのある町であると共に、「天下の酒どころ」として全国に名を轟かせている城下町・伏見。今回は、その歴史を振り返りながら、歴女必見の見どころについてご紹介します。

天下の酒どころ 伏見城下町

注目ワード
注目ワード