歴女が訪れたい城下町

三英傑の足跡が今に息づく名古屋城下町

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「尾張名古屋は城でもつ」と言われるように、愛知県名古屋市の繁栄は名古屋城から始まりました。その城下町は、「清洲越し」という壮大なプロジェクトによって生まれ、日本三大都市へ発展する礎となったのです。
名古屋城の築城を命じた「徳川家康」はもちろん、天下統一を目指した「織田信長」、その遺志を継いだ「豊臣秀吉」。戦国時代のシンボルとも言える「三英傑」(さんえいけつ)は、名古屋にゆかりのある武将として、今も地元の人々から愛され続けています。現在に残る往時の町割、英傑達が若き日々を過ごした場所など、戦国武将好きな歴女にとっても魅力にあふれた城下町です。
ここでは、三英傑・織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の思いを感じながら散策してみたくなる、名古屋の城下町について述べていきます。

様々な歴女が心惹かれる英雄達を育んだ地

現在では、日本屈指の経済都市にまで発展した愛知県名古屋市。この地は、戦国の世の英雄であった「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」が、若き日に出会った地域としても知られています。

名古屋繁栄の基礎となった城下町構想をひもときながら、三英傑が天下統一という夢を育んでいったゆかりの場所をご紹介。

城好きな歴女にも、武将好きの歴女にも、もちろん、食べ歩き好きな歴女にも、興味深い名古屋の城下町です。

戦国三英傑戦国三英傑

戦国時代の三英傑、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康についてご紹介します。

東海道防衛の拠点とした生まれた名古屋の城下町

名古屋城

名古屋城

現在も名古屋のシンボルとして、地元の人々はもちろん、城好きの歴女からも愛され続ける「名古屋城」。その築城は、1610年(慶長15年)、徳川家康の命により始まりました。

徳川家康が名古屋の地にこだわった背景には、大坂(現在の大阪府)の豊臣方との緊張関係があったことからと考えられています。

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に勝利し、天下人として江戸に幕府を開いた徳川家康に対して、豊臣方が天下の主流であるとする勢力が存在していたのです。

そこで、徳川家康は江戸に通ずる東海道の防衛拠点の整備に着手。当初は「清洲城」を防衛拠点に考えましたが、水害に弱いと判断し、名古屋を選んだとのことです。

名古屋での戦を想定した城下町プロジェクトでは、名古屋城本丸に近い三の丸に上級武士の屋敷を配置し、堀を隔てた東側を中級武士の武家地としました。また、三の丸の南に置いた町人地の東と南、名古屋城の北西などにも武家地を配置。さらに城下町の東と南の外縁エリアには寺町を置き、主要な街道の防衛にも配慮しました。

徳川家康は、あらゆる方向からの侵入に備えつつ、念には念を入れた防衛拠点としての町割を実行したのです。

城下町の建設工事は急ピッチで進み、ほぼ完成を迎えた頃、徳川家康は壮大な移転計画「清洲越し」を実行しました。清洲城の城下町に住んでいた武士や町人、そして神社や寺社なども移転させたのです。その規模は70,000人にも及んだと言われています。

特別史跡 名古屋城へ行こう!(In名古屋城(愛知県名古屋市)特別史跡 名古屋城へ行こう!(In名古屋城(愛知県名古屋市)

天下統一を果たした徳川家康によって築城された「名古屋城」の見どころをご紹介します。

日本の城 名古屋城 YouTube動画

「名古屋城」日本三名城

商業都市を目指した徳川家康の城下町プロジェクト

徳川家康

徳川家康

徳川家康の城下町構想で特徴的なのは、町人地を碁盤割(ごばんわり)にしたことです。

当時、敵が侵入してきた場合に備え、道路はあえて複雑な形状にするのが一般的でした。徳川家康が見通しの良い直線道路で区画したのは、町の利便性を考えてのこと。

徳川家康は防衛拠点として城下町を考えながら、豊臣方に勝利したのちのことも視野に入れていたのです。

つまり、太平の世を迎えた城下町の発展を見据え、町人地には経済活動を優先する区画整備を採用したと考えられています。

長期的なビジョンを描き、城下町作りを考えていたことは、徳川家康ファンの歴女には、いかにも徳川家康らしいと感じられる計画です。ちなみに、当時の1区画は約100m四方の正方形。今もその町割がほぼ残っています。

現在は、オフィスビルが建ち並ぶ本町通沿い。本町通は、城下町の中央を南北に走るメインストリートでした。町人地の区画整備の基準にもなった主要道路です。徳川家康は、清洲から移ってきた商人達を集住させ、商業エリアの形成を目指しました。その中でも有力な商人は本町通沿いに店を構え、賑わいを生み出していたのです。

名古屋発祥として地元で人気の老舗百貨店「松坂屋」の前身である「いとう呉服店」は、当時も城下町を代表するお店のひとつでした。

商業の発展には、水運の確保が欠かせません。この当時、浅い川しか流れていなかったため、徳川家康は「福島正則」(ふくしままさのり)に運河の開削(かいさく:山野を切り開いて道や運河を通すこと)を指示。熱田湊(あつたみなと)から名古屋城下に物資を運ぶために掘削されたのが「堀川」です。

この堀川の東側は材木を荷揚げするための場所として形成され、西側には米や味噌、醤油などを荷揚げするための荷揚げ場と土蔵が整備されていくようになりました。

現在、堀川沿いを走る「四間道」(しけみち)は、江戸時代の面影を残す場所として観光スポットにもなっています。名前の由来である「四間」は約7.2m。1700年(元禄13年)の大火によって被害を受けたため、以前は「三間」(約5.4m)だった道幅を、火災の被害を抑えるため四間に拡張したことから名付けられました。

また、通りの東側に土盛りを行ない、石垣の上に土蔵を建てているのも特徴的。当時の雰囲気を目にしたい歴女としては、見逃せないエリアです。

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地元の誇りとして今も愛され続ける郷土三英傑

名古屋で三英傑と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。愛知県出身で、名古屋とのゆかりも深い3人の英傑は、まさに戦国時代屈指の武将として名を馳せました。

現在も、地元の人々にとって郷土の誇りとして愛され続けています。

例えば、名古屋開府400年を記念して結成された地元のPR部隊「名古屋おもてなし武将隊」においても、主役は三英傑です。別名「イケメン武将隊」とも呼ばれ、歴女ブームに拍車をかけました。今も、歴女はもちろん、多くの人々から注目を集め、追っかけファンがいるほどです。ご当地武将隊の人気を全国的に広めた存在にもなりました。

また、名古屋の秋の風物詩としておなじみの「名古屋まつり」。イベントのメインを飾る「郷土英傑行列」も、もちろん三英傑です。毎年沿道を見物客が埋め尽くし、たいへんな盛り上がりを見せています。

名古屋で出会っていた、三英傑の不思議な運命

ここで、三英傑と名古屋のゆかりを改めておさらいしておきましょう。

織田信長の生まれについては諸説ありますが、「勝幡城」(しょばたじょう:現在の愛知県愛西市周辺)が有力のようです。2歳のときに「那古野城」(なごやじょう:現在の名古屋城二の丸辺りに位置した)の城主となり、13歳で元服、14歳には初陣を飾り、那古野で青春時代を過ごしました。

16歳の頃まで庄内川の河原(西区枇杷島橋周辺)で遊んでいたと言われ、その遊び仲間のひとりに「日吉丸」(のちの豊臣秀吉)がいたという話もあります。

その豊臣秀吉が生まれたのは、名古屋市中村区。大阪のイメージが強い豊臣秀吉ですが、生まれは名古屋です。中村公園にある「日吉丸となかまたち」という銅像は、豊臣秀吉達の遊ぶ姿をモチーフにしています。

現在の名古屋の基礎を築いたとも言える徳川家康の人生は波乱万丈。幼い頃、織田家の人質になっていたことは有名です。当初、熱田の豪商宅に幽閉されたのち、6歳の「竹千代」(のちの徳川家康)は織田家の菩提寺である「万松寺」へ移され、長い人質生活を過ごしました。この人質生活があったからこそ、長期的な思考を磨き上げ、天下人になれたとも言えます。

徳川家康が織田家の人質となっていたとき、好奇心旺盛な織田信長が、人質はどんな人物なのかと覗きにきて2人が出会ったとの逸話がありますが、記録には残っていません。

有力な説では、「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)のあと、徳川家康が重臣の「石川数正」(いしかわかずまさ)を交渉役にして、織田信長との同盟を模索したのが出会いのきっかけとされています。

織田信長好き歴女なら必見!! ゆかりの深い注目スポット

万松寺

万松寺

万松寺

織田家の菩提寺として、織田信長の父である「織田信秀」(おだのぶひで)が創建した万松寺。織田信長が父の葬儀の際に、父の位牌に向かって抹香(まっこう)を投げ付けたというエピソードが生まれたお寺です。

このときの織田信長の髪型や服装、そして行動が常識はずれだったことから「うつけもの」という評判が広がったと言われています。

また、織田信長が14歳、竹千代が6歳のとき、運命的な出会いがあった場所でもあるのです。

1610年(慶長15年)、名古屋開府に伴い、万松寺は徳川家康の指示で那古野城の南から、現在の大須に移転。その後、尾張徳川家も信仰しました。

今も織田信長の父・織田信秀の墓碑が祀られていますので、織田信長ファンの歴女としては、一度は訪れてみたいスポットです。

万松寺

所在地:愛知県名古屋市中区大須3-29-12
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熱田神宮

熱田神宮

熱田神宮

神仏を信仰しなかった織田信長が、唯一崇拝したと言われる「熱田神宮」。

織田信長は、桶狭間の戦いに出陣する際、戦勝を祈願したとのこと。

そして、大勝のお礼として「築地塀」(ついじべい)を奉納しました。これが日本三大土塀のひとつに数えられる「信長塀」です。

現在も残っていますので、歴女としては見過ごせません。また、数々の名刀を所有していた織田信長は、「源氏重代」(げんじじゅうだい)の宝刀「蜘蛛切丸」(くもきりまる)も奉納したと伝えられています。

神宮内の「熱田神宮宝物館」(あつたじんぐうほうもつかん)には、織田信長はもちろん、戦国時代の武将ゆかりの品々を約6,000点収蔵。なかでも刀剣類は約400振にも及び、刀剣に関心のある歴女からの人気が高い施設です。

熱田神宮

所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1

刀剣が奉納・展示されている神社・仏閣や宝物館をご紹介!

豊臣秀吉ファン歴女なら何度も訪れたい人気スポット

常泉寺

豊臣秀吉の生誕地は、中村公園内の「豊国神社」(とよくにじんじゃ)が建っている場所とされていますが、中村公園の隣にある「常泉寺」(じょうせんじ)とも伝えられています。

この常泉寺は、1606年(慶長11年)に「加藤清正」(かとうきよまさ)が豊臣秀吉を祀るために創建しました。そもそもこの地は、豊臣秀吉の養父であったとされる「竹阿弥」(ちくあみ)の屋敷跡で、豊臣秀吉の産湯に使ったと言われる井戸があります。

また、豊臣秀吉が11歳のときに植えたという柊(ひいらぎ)が5代目を迎え、今も目にすることができるとのこと。

ちなみに、「豊臣秀吉子飼い」、「賤ヶ岳の七本槍」など、戦国時代好きには有名な加藤清正の生誕地は、この近くにある「妙行寺」(みょうぎょうじ)と言われています。

常泉寺

所在地:愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47
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  • 加藤清正のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

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名古屋市秀吉清正記念館

色々威二枚胴具足

色々威二枚胴具足

豊臣秀吉好き歴女の人気スポットが、中村公園文化プラザにある「名古屋市秀吉清正記念館」です。

豊臣秀吉や加藤清正が身に付けていたとされる甲冑をはじめ、ふたりの武将に関する資料を展示しています。

常設展では、豊臣秀吉が織田信長に仕えた頃から豊臣氏が滅亡するまでを資料や模型などで紹介。

また、豊臣秀吉が着用した「色々威二枚胴具足」(いろいろおどしにまいどうぐそく)は、期間限定で公開されることがありますので、甲冑に興味のある歴女は、チャンスを逃さないよう、時々ホームページでチェックすることをおすすめします。

名古屋市秀吉清正記念館

所在地:愛知県名古屋市中村区中村町茶ノ木25

徳川家康派歴女におすすめの定番スポット

徳川美術館

徳川美術館

徳川美術館

徳川御三家筆頭として大名の最高位にあった尾張徳川家。

徳川美術館」は、尾張徳川家に伝わる武具や甲冑、茶道具など、貴重な品々を収蔵、展示していることで名高い美術館です。

収蔵品は10,000点を超え、日本でも屈指のコレクションが揃っています。国宝級の太刀などの展示や、徳川家康関連の品々もありますので、徳川家康ファンの歴女にもおすすめのスポットです。

甲冑好きの歴女なら、徳川家康が好んで着用したという「熊毛植黒糸威具足」(くまげうえくろいとおどしぐそく)は必見。兜から突き出した大きな角と、胴や小手などに植え付けられた熊の毛が特徴です。

常設展示されていませんが、様々な企画展が開催された際に公開されることがあるため、チェックは忘れられません。

徳川美術館

所在地:愛知県名古屋市東区徳川町1017

大須観音

大須観音

大須観音

日本三大観音のひとつとしても知られる「大須観音」は、尾張国長岡庄大須郷(現在の岐阜県羽島市桑原町大須)にありましたが、徳川家康が清洲越しの際、この地に移しました。

正式名は、「北野山真福寺寶生院」(きたのさんしんぷくじほうしょういん)ですが、地元では親しみを込めて「観音さん」と呼ばれています。

周囲を散策してみると、先ほどご紹介した万松寺をはじめ、寺社が現在も数多く点在していることが実感できますが、これは徳川家康が寺町として形成した名残なのです。

「大須商店街」は、マニアックな文化からメジャーな文化まで、様々な文化が混在している地域として話題になっています。多彩なグルメが楽しめるので、食べ歩き好きな歴女にはピッタリです。

大須観音

所在地:愛知県名古屋市中区大須2-21-47

城好き歴女も満足!! 話題のなごやめしスポット

金シャチ横丁

金シャチ横丁 義直ゾーン

金シャチ横丁 義直ゾーン

「なごやめし」として一大ブームを巻き起こした名古屋のご当地グルメ。「味噌カツ」や「味噌煮込みうどん」などの和食から、「あんかけスパ」などの洋食まで、バラエティー豊かです。

そこで迷ってしまいがちな歴女におすすめなのが「金シャチ横丁」。定番にこだわりたい歴女は「義直ゾーン」、最新メニューを試したい歴女は「宗春ゾーン」で、お好みのなごやめしが見付かります。

尾張藩主の名前でゾーンが分かれている意図が理解できるなら、歴女の素質は十分。

また、ステージや施設内では、公式おもてなしキャストの「徳川義直、宗春と忍び衆」が定期的にパフォーマンスを行なっています。この他にもユニークな公式サポートなどが会場の盛り上げ役に。

名古屋城に隣接していますので、お城見学のあとにも立ち寄りやすくなっています。

金シャチ横丁

所在地(義直ゾーン):愛知県名古屋市中区三の丸1-2-3~5
所在地(宗春ゾーン):愛知県名古屋市中区二の丸1-2・3

三英傑の足跡が今に息づく名古屋城下町

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伊達政宗が拓いた杜の都 仙台市

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琉球王国・琉球文化のシンボル首里城と城下町

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食い倒れの街の原点、天下の台所へ導いた水路 大阪城下町

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「水の都」と呼ばれ、日本屈指の商都にまで発展した大阪。その礎を築いた「豊臣秀吉」を、大阪の人々は親しみを込め「太閤はん」と呼びます。 豊臣秀吉が「織田信長」の志を継ぎ、「大坂城」の築城をスタートさせたのは、1583年(天正11年)のこと。この城下町の繁栄を支えたのは水路でした。その後、江戸幕府のもとで水路開発はさらに進み、水運ネットワークの充実が「天下の台所」を生み出したのです。そして、今日の「食い倒れの街」へと繋がりました。 ここでは、天下の台所を支えた水路をテーマに、歴女の視点からその足跡をたどります。

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多くの幕末志士を生んだ萩市

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山口県萩市にある萩城下町は、「幕末の風雲児」と呼ばれた「高杉晋作」(たかすぎしんさく)をはじめ、「久坂玄瑞」(くさかげんずい)や「木戸孝允」(きどたかよし:別名・桂小五郎)など、維新を牽引した英傑達の故郷としても広く知られており、幕末好きの歴女にとっては、聖地のひとつになっています。 2015年(平成27年)、「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして萩城下町が登録されたことで注目度が高まっており、「萩焼」や「ご当地スイーツ」など、歴女旅の楽しみ方も多彩です。

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善光寺街道から発展した松本城下町

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白と黒のコントラストが映える松本城(長野県松本市)は、「烏城」(からすじょう)とも呼ばれる美しいお城。現存する5層6階の天守閣は日本最古で、お城好きの歴女からも人気が高い名城のひとつです。現在も、松本城下町には大火の経験から生まれた「なまこ壁」の土蔵が残り、「鉤の手」(かぎのて)や「丁字路」(ていじろ)など、敵の侵入を防ぐ複雑な仕掛けがたくさん。そんな松本城下町の歴史を振り返りながら、歴女必見の温泉や信州蕎麦などのご当地グルメについてご紹介します。

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藩が支え酒どころとなった会津若松市

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「姫路城」(現在の兵庫県姫路市)は、安土桃山時代の武将「池田輝政」が築城し、当時のままの天守が現存する名城のひとつです。白鷺が羽を広げたかのような美しい佇まいから、「白鷺城」(しらさぎじょう)とも呼ばれています。歴史的に価値が高いことはもちろん、その佇まいの美しさから、1993年(平成5年)には、「世界遺産」に登録されました。 城下町の歴史はもちろん、姫路藩ゆかりの伝統工芸、姫路城のビューポイントなど、歴女におすすめの姫路の魅力をご紹介します。

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加賀百万石の歴史を、町のあちらこちらに映し出す金沢城下町。歴代藩主の影響によって花開いた、美しい伝統工芸や食文化は、城下町の歴史と共に受け継がれ、現代ではモダンアートの町として名を馳せるまでになりました。金沢は、歴女が心惹かれる趣のある風景はもちろん、一言では語り尽くせない魅力がある城下町。ここでは、多彩な見どころにあふれた金沢城下町をご紹介します。

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天下の酒どころ 伏見城下町

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かつて伏見(現在の京都府京都市伏見区)は、平安貴族が別荘を構える風光明媚な土地として知られていました。「豊臣秀吉」は伏見城を築いて武家の首都として発展させ、「徳川家康」は中継拠点としての基盤づくりに貢献。幕末には「坂本龍馬」をはじめ、勤王の志士達が日本の未来を語り合った拠点です。多くの英雄達にゆかりのある町であると共に、「天下の酒どころ」として全国に名を轟かせている城下町・伏見。今回は、その歴史を振り返りながら、歴女必見の見どころについてご紹介します。

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