歴女が訪れたい城下町

琉球王国・琉球文化のシンボル首里城と城下町

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1429年から1879年までの450年間、長きに亘って存在した「琉球王国」。その政治・経済・文化の中心地であった「首里城」には、海運王国として栄え育んできた独自の文化が色濃く反映されています。それは建築様式にとどまらず、琉球における様々な文化にも影響を与えたのです。
首里城は、2019年(令和元年)10月に火災が発生し、主要な建物が全焼してしまいましたが、本土では味わうことのできない独特の情緒は、歴女にも大人気でした。今回は、復興に向けた取り組みが注目されている首里城を中心に発展した、琉球王国の歴史と文化についてご紹介します。

琉球文化の中心地として繁栄した首里の城下

首里城

首里城

中国をはじめ、日本本土、東南アジアとの交易によって繁栄した「琉球王国」は、様々な国の文化を融合させながら、独自の文化を築き上げました。

その象徴である「首里城」は、琉球文化が織りなす不思議な魅力を放ち、今も多くの人々の心をとらえています。

城下町に詳しい歴女の楽しみ方としては、日本との違いを確かめながら散策してみるのも手です。そこで、沖縄を旅する前に、まずは琉球王国の歴史から振り返ってみましょう。

海運王国として栄えた琉球王国

かつて、沖縄に存在した王政の国家・琉球王国。その建国は1429年、本土が室町時代だった頃のことです。

建国以前の琉球では、12世紀頃から「按司」(あじ)と呼ばれる豪族が数多く台頭し、それぞれの地域を統治していました。やがて按司は「中山」、「北山」、「南山」という3つの勢力を形成します。

3者が勢力争いを繰り広げていた、いわゆる「三山時代」において、統一を成し遂げたのは、南山に属する一地方の豪族にすぎなかった「尚巴志」(しょうはし)でした。

なぜ尚巴志は、按司間の権力闘争を勝ち抜くことができたのでしょうか。勝因は、他の勢力よりも積極的に他国との交易に取り組んでいた点にあると考えられています。当時、本土や中国との貿易を通して、良質な鉄を手にしていた尚巴志は、ライバル達よりも優れた武具を装備していたのです。

中山を皮切りに、主要な按司を配下に治めていった尚巴志は、拠点を首里に移し、政治・経済・文化の中心地として首里城の整備・拡張に着手します。ここから琉球王国の歴史が始まりました。

建国後、琉球王国は、中国や日本、朝鮮、東南アジア諸国との交易にますます力を注ぎます。そうした諸外国との交流の中で、海洋王国としての独自の文化を形成。15世紀から16世紀にかけて、琉球王国は最も繁栄を極めたと言われています。

しかし、ポルトガルや中国、日本が東南アジアへ進出するようになったことは、中継拠点として繁栄していた琉球王国にとっては大ダメージでした。そして、1609年(慶長14年)、「薩摩藩」が侵攻したことを機に、琉球王国にも武士階級が誕生。江戸幕府との交流や、薩摩商人との貿易によって、文化的な影響も受けていきます。

また、歴女的な視点で注目すべき出来事としては、1853年(嘉永6年)の、米国の「ペリー提督」の来島があります。ペリーは、日本に開国を迫るために浦賀から上陸しましたが、その前に琉球に立ち寄っていたのです。

一説には、ペリーは琉球王国を江戸幕府との交渉にあたるための前線基地と考えていたと伝えられています。その後も、ペリーは数回に亘って琉球王国を訪問し、石炭などの資源調査を指示したと言われているのです。

江戸時代における琉球王国は、事実上、薩摩藩の支配下にありましたが、明治新政府による沖縄県の設置で消滅。1879年(明治12年)、琉球王国の歴史は幕を閉じました。

琉球王国繁栄のシンボル 首里城

守礼門

守礼門

東アジアにおける貿易の中継拠点として栄華を誇った琉球王国において、「グスク」と呼ばれた「城」(日本本土では城郭と解釈されています)が造営され始めたのは、13世紀頃でした。

按司の拠点として造営され、沖縄本島だけでも200以上存在していたと言われているグスクの特徴は、曲線を描くように建てられていること。直線的な石垣で構成されている本土の城廓とは対照的です。

また、城内に信仰上の聖地が置かれていることも、本土の城郭との大きな違い。

こうした沖縄ならではの特徴は、首里城にも受け継がれています。グスクの造営技術は、「南走平家」(なんそうへいけ:壇ノ浦の戦い後、沖縄に渡った平家)によってもたらされたという伝説も残っているのです。

首里城が造営されたのは、14世紀という説が有力。その後、琉球王国を建国した尚巴志が、国王家のための「王宮」として、行政機関の「王府」として整備していきました。

日本(本土)の城廓で言えば大手門に当たる「守礼門」(しゅれいもん)は、沖縄のシンボル的な存在。「2,000円札」の図柄にも採用されました。

東西を基軸として各施設が配置され、西を正面にしているのが首里城の特徴で、中国と日本の建築様式が混在した独特の雰囲気です。正殿、南殿、北殿は、それぞれ建築様式を融合した建造物が再現されていました。

首里城と言えば「赤瓦」が印象的。実は、赤瓦に生まれ変わったのは、1715年(正徳5年)の火災による焼失からの再建時です。当時、琉球では人口の増加によって、生活の必需品であった薪が品薄になっていました。そこで、採用されたのが低い温度でも焼ける瓦。

このように薪を節約しつつ植林を始め、山の管理も実施していたのです。ちなみに、琉球における瓦屋根の家は、士族の家など、一部に制限されていたと言われています。

太平洋戦争末期の沖縄戦によって壊滅した首里城は、1992年(平成4年)に、沖縄の本土復帰20年を記念し、「首里城公園」として復元・整備されました。そして2000年(平成12年)には、歴史的・文化的価値が高く評価され、世界遺産に登録されます。

このように、沖縄の歴史と文化の象徴に位置付けられる首里城ですが、2019年(令和元年)10月31日、火災によって正殿、南殿、北殿など主要な建物が全焼。過去の沖縄戦など、戦前・戦中の4度と合わせ、5度目の火難に遭ったのでした。主要な建物は焼失してしまいましたが、火災を免れた守礼門の姿を観ることは可能です。

海運王国だから生まれた独特の伝統文化

琉球王国で育まれた独特の文化は、交易が盛んだった中国や東南アジアの影響を受けています。ここでは織物、染物、陶芸、祭りを通じて琉球の伝統文化に迫ってみましょう。

琉球の織物として名前の挙がる「首里織」、「芭蕉布」(ばしょうふ)、「読谷山花織」(ゆんたんざんはなおり)などは、14世紀から16世紀にかけて技術が伝播。それぞれの地域において多種多様な織物へと進化したと言われています。

首里織とは、その名の通り王府であった首里で発展した織物のこと。王族や士族のために制作された織物だったため、色や柄にこだわり、格調の高さが求められました。ちなみに、黄色は王族にのみ使用が許されていた色です。

染物として古くから受け継がれている染色技法が「紅型」(びんがた)。「紅」とは、赤色のことのみではなく、色全般を意味する言葉で、実際に様々な色が使用されています。ほとんどの図案は、中国の「吉祥文様」(きっしょうもんよう:縁起が良いとされる動植物などの文様)がモチーフ。こちらも王族や士族の衣装として染められていたこともあり、首里を中心に栄えました。

陶芸も独自の進化を遂げていきます。琉球を代表する焼物として知られる「壺屋焼」(つぼややき)は、1682年(天和2年)に、王朝が各地に散在していた窯場を壺屋地区に集積させたことが始まり。

以来、中国や朝鮮、日本本土などの影響を受けながらも、沖縄の暮らしに合わせた陶器としてバリエーションを広げていきました。素朴な風合いや、大胆な絵柄、色彩など、その伝統は今も受け継がれています。

ハーリー

ハーリー

沖縄の祭りで最も有名だとされているイベントは、毎年春に開催される船漕ぎレースの「ハーリー」。

このイベントの起源も、中国からの来賓を歓待するために始まったと言われています。

また、様々な祭りで行なわれる舞いや踊りにも、本土をはじめ、中国、東南アジアの影響が見られます。沖縄で盛んな「獅子舞」は中国風。

イベントを見学し、そんな違いを確かめるのも、歴女旅ならではの楽しみ方ではないでしょうか。

琉球独特の異国情緒が味わえる散策ポイント

識名園

識名園

識名園

異国情緒を楽しみたい歴女、庭園好きな歴女におすすめしたいスポットのひとつが「識名園」(しきなえん)です。

琉球王家最大の別邸で、王家一族の静養地として、また外国からのVIPをもてなす迎賓館として利用されていました。首里城の南にあることから「南苑」(なんえん)とも呼ばれたそうです。

識名園の庭園は、池を中心に散策する回遊式。庭園に詳しい歴女なら、日本の大名が盛んに造営していた庭園形式であることをご存知でしょう。

一方、池に浮かぶ島に佇む六角堂は中国様式の造り。日本の庭園とも異なる不思議な風情を楽しむことができます。

首里金城町石畳道

首里金城町石畳道

首里金城町石畳道

首里金城町石畳道」は、首里城と港を結ぶ基幹道路として整備された石畳の道です。

かつては全長10kmにも及んでいましたが、現存するのは238mのみになりました。

しかし、琉球石灰岩を敷き詰めた道沿いには、赤瓦屋根の家と古い石垣が並び、城下町の風情が残るスポットとして人気です。

城下町巡りが好きな歴女ならば、日本本土の町並みと比べてみてはいかがでしょう。石畳道の近くに、パワースポットとして地元で有名な大アカギの大木が立っています。

壺屋やちむん通り

壺屋焼物博物館

壺屋焼物博物館

各地に散らばっていた窯場をひとつに集めたことで生まれた焼物の町「壺屋」(つぼや)。

「やちむん」とは、焼き物を表す沖縄の方言です。ノスタルジックな雰囲気の漂う通りは、歴史散策を求める歴女にはピッタリ。

通り沿いには、壺屋焼窯元の直営ショップをはじめ、カフェなどが建ち並んでいます。壺屋焼のシーサーなどは、旅の記念品としても好評だとか。

また、焼物に関心のある歴女には、「那覇市壺屋焼物博物館」もおすすめです。

歴女におすすめ!!沖縄の伝統文化を楽しむ体験スポット

首里琉染

紅型という手法で染めた着物や帯、小物、生活雑貨などを販売している「首里琉染」(しゅりりゅうせん)。

ここでは、紅型と「サンゴ染め」の体験染めができます。古来伝わる紅型とは対照的に、サンゴ染めはここだけのオリジナルな染色手法です。

ちなみに、琉球ではサンゴを魔除けやお守りとして珍重し、「幸せを呼ぶ石」と伝えてきました。どちらを選択すべきか迷ってしまうかもしれませんが、世界にひとつだけの作品を制作すれば、最高のお土産となること間違いなしです。

那覇市伝統工芸館

「那覇市伝統工芸館」の体験工房では、琉球ガラス吹き、琉球びんがた、首里織などの伝統工芸品作りが体験できます。人気No.1は、琉球ガラスだとか。

空き瓶を再生することから始まった琉球ガラスの魅力は、ガラス再生の過程で混入する気泡が涼しげな風合いを醸し出すところです。ここでは、昔ながらの伝統にこだわり、再生ガラスを使用してグラス・一輪差し花瓶の制作に挑戦できます。

第一牧志公設市場

第一牧志公設市場

第一牧志公設市場

日本一の長寿県と言えば沖縄。その秘密はやはり食文化にありそうです。

そこでおすすめのスポットが、「第一牧志公設市場」(だいいちまきしこうせついちば)。

「沖縄の台所」として、60年以上の歴史を有する市場です。

沖縄近海で獲れたカラフルな魚をはじめ、テビチ(豚足)、島豆腐、南国フルーツなど、沖縄ならではの食材を目にすることができます。

場内の飲食店では、沖縄の定番メニューを楽しむことも可能です。

琉球王国・琉球文化のシンボル首里城と城下町

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