「刀剣の押形」(とうけんのおしがた)とは、刀を写し取った図のことです。まだ写真技術がなかった時代、たいせつな刀を「記録する」手段として行われていました。そして、写真技術のある現在でもなお、押形は重んじられています。一体、押形のどこに価値があるのでしょうか。今回は、押形の歴史や特徴、刀剣ワールド財団が所蔵する押形について、詳しくご紹介します。
「刀剣の押形」とは、日本刀を写し取った図のことです。日本刀の姿、茎(なかご)の形状、銘(めい)、鑢目(やすりめ)、鋒/切先(きっさき)の形状を写し取り、刃文や帽子を写生(刀を観てありのままに写し描くこと)したもののこと。
刀剣の押形は、まだ写真技術がなかった時代、唯一無二である美しい刀剣を、後世に記録し、残す方法として考えだされました。どんなに名刀と言われた刀でも、実戦で使用すれば刃こぼれが生じ、火事で焼失して一巻の終わりとなってしまった物が多数あります。
しかし、押形の記録があれば、たとえ実物が消失したとしても、その姿や情報を詳細に知ることができ、複製することができるのです。押形は単なる記録ではなく、複製資料としての価値があり、また贋作を見比べて見抜くための鑑別資料としても重宝されました。
刀剣の押形の種類には、2種類あります。それは「湿拓」(しったく)と「石華墨」(せっかぼく)です。湿拓とは、室町時代、石碑などを写し取る技術として中国から伝来した方法。紙や布を水で濡らして対象物に密着させ、乾く前に墨の付いたタンポで叩いて写し取る方法のことです。
ただし、刀は水に弱く錆が付いてしまうため、湿拓はあまり良い方法とは言えませんでした。そこで、江戸時代後期に、考案されたのが、石華墨という方法です。
これは、中国の「乾拓」(かんたく)を進化させた、日本独自の方法で、刀の上に刀剣押形用の「上質和紙」を載せて、石華墨(固形墨)で擦る物です。石華墨なら、水分がないため刀を傷めず、刀の輪郭、茎の銘をとても簡単に、正確に写し取ることができました。
刃文や刃中を加筆する
さらに、刃文や帽子などの細かいところは、あとから手描きで加筆するスタイルで、正確性を高めたのです。
加筆により、ひとつとして同じ押形はないことから、押形自体が美術品として価値が高いと見なされるようになりました。押形は、この石華墨が、現在の主流となっています。
なお、刀剣の押形には、刀身全体を写し取る「全身押形」と、鋒/切先や茎などの一部分だけを写し取る「部分押形」の2タイプがあります。
押形(刀 銘 肥前国忠吉)
本押形は、「刀 銘 肥前国忠吉」を石華墨で写した、部分押形です。
刀 銘 肥前国忠吉は、肥前国(現在の佐賀県と長崎県)鍋島藩のお抱え刀工「肥前国忠吉」(ひぜんのくにただよし)が作刀しました。
実は、刀剣鑑賞の初心者は、押形を観るのがいちばん良い勉強法だと言われています。
それは、押形には、初心者がしっかりと観るべきポイントが抑えられており、初心者には観るのが難しい、刃文の様子がしっかりと描かれているからです。
本刀の特徴は、まるで南北朝時代の太刀を大磨上げしたような、豪壮な姿。身幅が広く、反りが浅く、中鋒/中切先。
地鉄は小板目肌がよく詰み、刃文は浅い小湾れ(このたれ)で小互の目が交じり、足・葉がよく入り、匂深く、匂口が明るく冴えています。帽子は直ぐに小丸でやや深く返り、茎は生ぶで先栗尻となっています。
刀 銘 肥前国忠吉の切先/峰
刀 銘 肥前国忠吉の切先/峰
左上の画像は、高度な映像技術を駆使して撮影した刀 銘 肥前国忠吉の鋒/切先部分の画像です。刃文の小湾れがくっきりと写し出されています。
一方、右上の図は、押形です。高度な映像技術にしても画像に映らなかった、帽子の小丸や足・葉までが精密に描かれています。
実は、現在の写真技術でも人間が肉眼で観ることができる刃文をすべて映し出すことはできません。押形の刃文は、有識者の手によって、写生されたもの。刀を光に当てたときの角度の違いにより有識者だから見える、美しい見え方を知り、学ぶことができるのです。
刀 銘 肥前国忠吉の茎
刀 銘 肥前国忠吉の茎
上の画像は、刀 銘 肥前国忠吉の茎部分です。生ぶで、佩表に銘があることから、大磨上げした太刀風に作られた刀だと考えられます。
茎尻は、先栗尻。銘の「肥」の文字に重なるように、目釘穴がひとつあいているのが特徴です。一方、下の図が押形。先栗尻の形や銘が、正確に複写されていることが分かります。
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹
本押形は、「刀 銘 長曽祢興里入道乕徹」を石華墨で写した、部分押形です。刀 銘 長曽祢興里入道乕徹は、江戸時代中期に活躍した「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)が作刀しました。
長曽祢虎徹は、当初「長曽祢興里」(ながそねおきさと)と名乗り、仏門に入ってから、「こてつ」(古鉄、虎徹、乕徹)と名乗った名工です。
最上大業物と評価を受けるほど刀の切れ味が良く、晩年にはすでに、偽物が出回るくらい人気がありました。本刀は、乕徹と名乗った晩年の作。
地鉄は板目が詰んで大板目が交じり、刃文は直刃を基調に浅く湾れて、数珠刃風(数珠玉のような模様が連続していること)です。
沸がよく付き、匂深く、金筋や地景、刃縁にはほつれ、二重刃がかかるなど迫力があります。地刃が明るく冴え、乕徹の技量が、十分に発揮された1振です。
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹の切先/峰
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹の切先/峰
左上の画像は、刀 銘 長曽祢興里入道乕徹の鋒/切先部分です。中鋒/中切先で、刃文は直刃を基調に浅く湾れています。
一方、右上の図は押形です。画像には映っていない、帽子が横手を焼き込んですぐに小丸になっているところまで描かれています。なお、数珠刃風の刃文は、やや誇張気味です。
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹の茎
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹の茎
上の画像は、刀 銘 長曽祢興里入道乕徹の茎部分です。先細って刃上がり栗尻。目釘穴が2つあり、目釘穴を挟んで、銘が切られているのが特徴です。銘が佩表にあることから、太刀風に作刀された刀だと考えられます。
一方、下の図が押形。銘も目釘穴の位置も正確に複写されています。偽物を見破るには、鑢目にも注目することです。本刀の鑢目は、長曽祢虎徹が晩年得意とした浅い勝手下り。
鑢目とは、鑢をかけた跡のことですが、刀工が自分の個性を発揮する特別な部分で、凡人では、とても似せることができないと言われています。
脇差 銘 繁慶
本押形は、「脇差 銘 繁慶」を石華墨で写した、部分押形です。脇差 銘 繁慶を作刀したのは、江戸時代初期に活躍した刀工「野田繁慶」(のだはんけい)。
野田繁慶は、江戸幕府のお抱え鉄砲鍛冶でしたが、初代将軍「徳川家康」の死後、江戸にでて刀鍛冶に転身した人物です。
作風は、相州伝上位を狙った感じ。黒く太いひじきのような地景が盛んに入るのが特徴の「ひじき肌」を創始しました。
本脇差は、重ねが厚く、反りは浅く、中鋒が延びた姿です。刃文は互の目に小互の目を交え、足がよく入り、匂は深く、沸は厚く付いています。刃縁はほつれが盛んに見られ、刃中の働きも豊富な逸品です。
脇差 銘 繁慶の切先/峰
脇差 銘 繁慶の切先/峰
左上の画像は、脇差 銘 繁慶の鋒/切先部分です。中鋒/中切先が延び、刃文は互の目。一方、右上の押形には、写真では映っていない、帽子の様子が描かれています。帽子は焼きが深く1枚風。先盛んに掃き掛けて炎状となり沸崩れを交えています。
脇差 銘 繁慶の茎
脇差 銘 繁慶の茎
上の画像は、脇差 銘 繁慶の茎部分です。茎尻は薬研型で、目釘穴はひとつ。銘は「繁」の文字のぼくにょう部分が「ロ又」となっているのが特徴です。
繁慶は初期銘がロ又、後期銘は「ル又」となります。一方、下の図が押形。押形だと、銘のロ又が、さらにはっきり分かります。また、鑢目も表が大筋違、裏が逆大筋違になっていて、秀逸です。