「長曽祢乕徹」は、もともとは越前国(えちぜんのくに:現在の福井県)で甲冑師として活動していましたが、1656年(明暦2年)、乕徹が50歳の頃に江戸へ出て刀工に転じたと伝えられています。
当初の刀工名は「長曽祢興里」(ながそねおきさと)と名乗っていましたが、入道(仏門に入ること)して以降は、「こてつ」と読む銘字を切るようになりました。いちばん古い物は「古徹」、その次が通称「はねとら」銘と呼ばれる「虎徹」、さらに1664年(寛文4年)8月頃からは、いわゆる「はことら」銘である「乕徹」という3種類の文字を用いるようになりました。
このように乕徹の表記が頻繁に変わったのには、彼の生前から偽物が多く出回っていたことが挙げられます。実際、乕徹の作品は、後世に「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられるほどの切れ味であっただけでなく、彼の技術力は、山城国の名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)と共に、「新刀の横綱」と評されるほどの名刀だったのです。
銘字の変遷と共に、その作風にも変化が見られ、初期の大きさの異なる互の目が2つ繋がった「瓢箪刃」(ひょうたんば)から、後期になると、頭に丸みの帯びた互の目が連なった「数珠刃」(じゅずば)を焼くようになります。
本刀においては、数珠刃風の刃文が見られるため、「はことら」時代である後期作の刀と鑑することが可能。地刃が明るく冴える作柄を得意とする乕徹の技量が、十分に発揮されており、よく付いた沸(にえ)がところどころ強くむら立ち、金筋や地景(ちけい)などの働きが顕著に現れているなど、自然の趣がありながらも迫力のある1振になっています。
本刀の銘が佩表(はきおもて)に切られていることから、もとは太刀であったことが窺えますが、同工作の太刀で現存する物は、ごくわずかであるため、資料としての価値も大変高いです。