重要刀剣である本刀「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)は、日向国飫肥藩(ひゅうがのくにおびはん:現在の宮崎県日南市)の藩主であった「伊東氏」(いとうし/いとううじ)に伝来した刀剣です。国貞の作刀は「大業物」(おおわざもの:特に切れ味の良い日本刀)に列せられており、江戸時代の剣豪達に好まれていました。ここでは、日向伊東氏の歴史と共に、本刀・和泉守国貞がどのような刀剣なのかを解説していきます。
伊東氏の家紋「庵木瓜」
伊東氏による日向国の統治は、14世紀に始まります。
もともと伊豆国伊東荘/伊東庄(いずのくにいとうしょう:現在の静岡県伊東市)を領していた伊東氏宗家6代当主「伊東祐持」(いとうすけもち)が、14世紀に「足利尊氏」より日向国都於郡(ひゅうがのくにとのこおり:現在の宮崎県西都市)に所領を与えられ、同地に移り住みました。
それから日向伊東氏は、代々「都於郡城」(とのこおりじょう)を居城にして、日向国内で徐々に勢力を拡大していったのです。
16世紀の「伊東義祐」(いとうよしすけ)の代には、島津氏の配下にあった「飫肥城」(おびじょう:現在の宮崎県日南市)を攻略し、日向国内の覇権を確実なものとしました。しかし、1577年(天正5年)に伊東義祐が島津氏に敗れると、日向国を捨て豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県の大部分)に逃げ、いったんは衰退の途を辿ることになったのです。
そののち、伊東義祐の三男「伊東祐兵」(いとうすけたか/すけたけ)が「豊臣秀吉」に仕えるようになったことで、日向伊東氏に再興のチャンスが訪れます。
1587年(天正15年)、「九州平定」における島津氏との戦いで伊東祐兵が武功を挙げ、豊臣秀吉より飫肥城を与えられました。島津氏に奪われた飫肥の地を、日向伊東氏は10年の歳月をかけて取り戻したのです。それから約280年間、飫肥藩として伊東氏が治めてきました。
江戸時代以降、その城下町として繁栄した飫肥の地は、現在の宮崎県日南市中心部にあたり、そこには今も武家屋敷の堅牢な門構えや、城下町の風情が残る石垣が点在。1977年(昭和52年)には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。飫肥は400年以上に亘り、日向伊東氏の城下町としての面影を残している、趣のある街です。
飫肥城大手門
1657年(明暦3年)、飫肥藩4代藩主である「伊東祐由」(いとうすけみち)が、日向伊東氏の家督を継ぎました。
その際に伊東祐由は、飫肥藩の所領54,000石のうち、弟の「伊東祐春」(いとうすけはる)に常陸国那珂郡(ひたちのくになかぐん:現在の茨城県東部にある郡)3,000石を分知しています。
分知とは、領地を分割相続すること。分知を行うことで、家名をより永く存続させる可能性を残すのです。この分知は、江戸時代には様々な大名や旗本の家で、しばしば行われてきました。
しかし、伊東祐春が分与されたものは3,000石の領地だけではありません。刀剣も同時に分与されたのです。そのうちの1振が、伊東氏に伝来していた本刀「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)とされています。
刀工「和泉守国貞」(いずみのかみくにさだ)は、3代藩主「伊東祐久」(いとうすけひさ)の時代から、知行100石で伊東氏に仕えるようになります。和泉守国貞は、伊東祐久が自身で描いた絵を賜るほどの厚い信頼を得ていました。そのため、飫肥藩・伊東氏は和泉守国貞の作刀した刀剣を入手しやすい環境にあったことが、本刀が伊東祐春に分与された理由であると考えられるのです。
伊東祐春は、1635年(寛永12年)に先代・伊東祐久の三男として誕生しました。兄より飫肥藩の領地を分与されたあとは「交代寄合」(こうたいよりあい)となり、飫肥城下に居住。
交代寄合とは、石高10,000石以下3,000石以上であった旗本(はたもと)の職名であり、家格のこと。旗本であるにもかかわらず、大名と同じく「参勤交代」を課せられていました。
参勤交代は、大名が将軍に謁見するために、江戸と領地を往来することです。交代寄合は、大名より石高の下回る旗本が、大名と同等の待遇を受ける資格があることを誇示するために参勤交代を始めたことが由来。
伊東祐春は、飫肥藩・伊東氏の分家で「交代寄合表御礼衆/表向御礼衆」(こうたいよりあいおもておれいしゅう/おもてむきおれいしゅう)の祖となり、以降、この家格は代々の子孫に受け継がれたのです。
表御礼衆は、交代寄合のなかでも別格であり、より石高が多く大名並みの格式が許されていました。これは、例え分家であったとは言え、伊東祐春が飫肥藩・伊東氏としての誇りを忘れなかったからこそ、成し得たことかもしれません。
本刀を作った刀工・和泉守国貞は、1596年(慶長元年)以降に作られていた「新刀」(しんとう)の祖とされる「堀川国広」(ほりかわくにひろ)の門弟です。1614年(慶長19年)に堀川国広が亡くなると、堀川国広の一番弟子である「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)のもとで学びました。
そして、和泉守国貞は1620年(元和6年)、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府北西部、及び兵庫県南東部)へ移住し、同国の名工「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)と共に、「大坂新刀」の基礎を築き上げます。
晩年には病気がちとなってしまったため、自身の嫡子で2代和泉守国貞である「井上真改/真改国貞」(いのうえしんかい/しんかいくにさだ)に代作や代銘を行わせており、本刀についても、井上真改による代銘の1振であると推測されています。これは、和泉守国貞が晩年の頃に用いていた草書銘が切られていることがその理由です。
本刀の作柄は、鍛肌に沿って黒光りする地景(ちけい)がよく入り、光を美しく反射する金筋(きんすじ)が目立つことが特徴。
初代和泉守国貞の作刀は、よく切れる「大業物」(おおわざもの:特に切れ味の良い日本刀)として知られており、江戸時代において、多くの剣豪達に好まれた逸話がいくつか残されています。
例えば、1694年(元禄7年)の「高田馬場の決闘」で有名な赤穂浪士(あこうろうし)四十七士「堀部武庸」(ほりべたけつね)もそのひとり。彼はこの旧主の仇討ちに、わざわざ旗本から和泉守国貞を借りて行ったと伝えられているのです。
さらには、幕末の幕臣で「勝海舟」の又従兄弟(またいとこ)でもあった剣術家「男谷信友」(おたにのぶとも)も、和泉守国貞を自身の愛刀としていたと言われています。