安土桃山時代

九州平定

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「織田信長」の死後、関白にまで昇り詰めた「豊臣秀吉」は、日本全国の統一を成し遂げるために動き出します。当時、九州で勢力を強めていた「島津義久」(しまづよしひさ)の台頭を危惧した豊臣秀吉は、1587年(天正15年)九州に出兵し、島津義久ら九州諸将を降伏させました。これが「九州平定」(きゅうしゅうへいてい)です。九州平定の経緯と、この戦いで活躍した武将達について、愛用した日本刀も併せてご紹介します。

全国統一を目指した豊臣秀吉、九州へ

織田信長亡きあと

豊臣秀吉

豊臣秀吉

織田信長は1582年(天正10年)、「本能寺の変」において、家臣であった「明智光秀」に討たれました。同年に開かれた織田信長の後継者を決めるための「清洲会議/清須会議」(きよすかいぎ)では、「羽柴秀吉」(はしばひでよし:のちの「豊臣秀吉」)は、織田信長の嫡孫であったわずか3歳の「三法師」(さんぼうし:のちの[織田秀信])を推挙します。

羽柴秀吉は、幼い三法師に代わって実質的な権力を手に入れ、1585年(天正13年)には、朝廷から宣下(せんげ:天皇が下す命令)を受け、関白となりました。そして豊臣秀吉と名を改め、織田信長が果たせなかった全国統一を目指します。

当時の九州は、キリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名「大友宗麟」(おおともそうりん)が支配していました。しかし、徐々に勢力を伸ばしてきた島津義久に追い詰められていたため、豊臣秀吉に助けを求めて来たのです。

「筑前の戦い」が発生

豊臣秀吉は、島津義久と大友宗麟に停戦命令を出します。これは天皇の名のもとに、大名同士の私戦を止めさせようとする命令でした。劣勢であった大友宗麟は停戦命令に賛成しますが、島津義久は「豊臣秀吉にどのような権利があって、そのような提案ができるのか」と激怒したのです。

停戦命令に反発した島津義久は、1586年(天正14年)6月に鹿児島から出陣し、筑前国(現在の福岡県西部)と豊前国(現在の福岡県東部)、そして京都へと兵を進めます。

島津義久は豊臣秀吉が乗り込んで来る前に、九州全土を制覇したかったのです。この一連の戦いは「筑前の戦い」(ちくぜんのたたかい)と呼ばれています。

豊臣秀吉と島津義久の対決

豊臣軍、島津軍最初の戦い

豊臣秀吉は停戦命令に背いたとして、「島津家」を討伐するために九州に向かいます。1586年(天正14年)8月、豊臣秀吉の命を受けた「毛利輝元」(もうりてるもと)の先遣隊(せんけんたい)は、豊前国に侵攻しようとしましたが、島津家と盟約関係にあった「秋月種実」(あきづきたねざね)の攻撃を受け撤退します。これが豊臣軍と島津軍の間で起こった最初の交戦でした。

その後戦いの場は、徐々に豊後国(現在の大分県)へと移り、同年12月12日、「戸次川の戦い」(へつぎがわのたたかい)が始まったのです。

戸次川の戦いでは、島津軍と「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)、その嫡子である「長宗我部信親」(ちょうそかべのぶちか)、そして「仙石秀久」(せんごくひでひさ)らが激突します。

島津軍は豊臣軍が戸次川を渡ったところを急襲し、虚を突かれた豊臣軍は、長宗我部信親や「十河存保」(そごうまさやす/ながやす)といった有力武将など、多くの兵士を失って敗退し、年を越すこととなったのです。戸次川の戦いを含む一連の戦いは、「豊前・豊後の戦い」(ぶぜん・ぶんごのたたかい)と呼ばれています。

300,000人 VS 50,000人、豊臣秀吉が勝利を収める

年が明けた1587年(天正15年)、「日向の戦い」(ひゅうがのたたかい)が始まりました。同年3月、いよいよ豊臣秀吉自らが九州へ出兵します。そして日向国(現在の宮崎県)の「根白坂」(ねじろざか)において、島津軍と豊臣軍が再び激突した「根白坂の戦い」(ねじろざかのたたかい)で、豊臣軍が勝利したのです。

九州出兵の初めに、「小倉城」(こくらじょう:福岡県北九州市)に到着した豊臣秀吉は、すぐに「馬ヶ岳」(福岡県行橋市)まで侵攻します。豊臣軍の「蒲生氏郷」(がもううじさと)と「前田利長」(まえだとしなが)は、たった1日で「岩石城」(がんじゃくじょう:福岡県田川郡)を攻め落としたのです。

さらに豊臣秀吉は、秋月種実の本拠である「古処山城」(こしょさんじょう:福岡県朝倉市)に兵を送り込みます。敗色濃厚と見た秋月種実は剃髪(ていはつ:髪を剃り落とすこと)し、息子の「秋月種長」(あきづきたねなが)と共に豊臣秀吉に降伏。名工「国俊」(くにとし)の刀を差し出しました。これを機に島津軍の統制は乱れ、戦わずして豊臣秀吉に降伏する武将が続出したと言われています。これが「豊前の戦い」です。

1587年(天正15年)4月、豊臣秀吉は300,000人もの大軍を率いて、薩摩国(現在の鹿児島県西部)へと出陣し、ここに「薩摩の戦い」が勃発します。このとき、島津軍はわずか50,000人でした。圧倒的な兵力の差に敵わず、島津軍は次々と降伏。島津義久は、反撃するも豊臣軍を征することはできず、同年5月、島津義久は豊臣秀吉に降伏し、豊臣秀吉の異父弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)に人質を差し出し、和睦を申し入れたのです。

これが島津軍にとって最後の抵抗となり、敗れた島津義久は、のちに「島津龍伯」(しまづりゅうはく)と名を改めて出家します。

豊臣秀吉は、島津義久の降伏を受け入れ、1586年(天正14年)8月から始まった九州平定は、1587年(天正15年)6月に幕を閉じたのです。

九州平定で活躍した武将達とその愛刀

毛利輝元

毛利輝元

9ヵ月に及んだ九州平定では、様々な武将達が活躍しました。豊臣軍の主な武将は、豊臣秀吉、豊臣秀長を始めとして、豊臣秀吉の甥「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)や毛利輝元、「毛利元就」(もうりもとなり)の三男「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)、豊臣秀吉の軍師「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)の別名でも名高い「黒田孝高」(くろだよしたか)などです。

一方、島津軍で活躍した武将には、島津義久の他に、弟の「島津義弘」(しまづよしひろ)、島津家家臣の「島津家久」(しまづいえひさ)や「島津歳久」(しまづとしひさ)などがいます。

このように、多くの名立たる戦国武将達が参戦した九州平定。そんな武将達の愛用した日本刀のなかには、博物館や美術館などで現在も保管されている名刀が、いくつかあるのです。

島津義弘

島津義弘

例えば、1600年(慶長5年)に勃発した「関ヶ原の戦い」でも大活躍した武将である、島津義弘が愛用した日本刀「島津正宗」(しまづまさむね)は、現在「京都国立博物館」(京都市東山区)が所蔵しています。

また、豊臣秀吉の側近として活躍した黒田孝高の愛刀であり、鎌倉時代初期の刀工「菊一文字則宗」(きくいちもんじのりむね)が鍛えた「菊一文字」(きくいちもんじ)は、1902年(明治35年)に、「黒田家」の17代当主「黒田長成」(くろだながしげ)が明治天皇に献上し、現在は「宮内庁」にて所蔵されている1振です。

さらには、豊臣軍で活躍した毛利輝元も、数々の名刀を有していたことで知られており、なかでも、ひときわ目を引くのが、鎌倉時代の刀工「藤四郎吉光」(とうしろうよしみつ)が作刀したと伝わる短刀、「毛利藤四郎」(もうりとうしろう)。こちらは、「東京国立博物館」(東京都台東区)の所蔵となっています。毛利輝元が徳川家康に献上し、のちに徳川家康が、関ヶ原の戦いで武功を挙げた「池田輝政」(いけだてるまさ)に授けたと伝わる名刀です。

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