歴女のためのお城見学ポイント

石垣

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歴女が胸をときめかせるお城の魅力のひとつに、「石垣」の美しさがあります。優美な天守も捨てがたいですが、そびえ立つ石垣の力強さもまた、人を引き付けているのです。いろいろなお城の石垣をよく観てみると、どのお城も石垣の加工の仕方や積み方に、個性があるのに気付くでしょう。面白いのは、石垣に用いられている技術によって、築かれた時代をある程度推測することができること。石垣の構造や見方を知ると、さらに楽しいお城鑑賞となるに違いありません。ここでは、そんなお城の石垣について、詳しくご説明します。

最も早く石垣を導入した三好長慶の飯盛城

近世城郭は、石造りであることが特徴ですが、実は中世の山城でも、石積みは行なわれていました。ただその頃の石垣は、防衛上重要な場所を部分的に補強するため用いられていたのです。

石垣の技術は、特に石工集団の「穴太衆」(あのうしゅう)がいた、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)で発展していました。同国にあった「鎌刃城」(かまはじょう)では、土塁に粘土で接着した垂直な石垣があり、同じく「観音寺城」(かんのんじじょう)では、お城全体が石垣に覆われているなど、匠集団とも言える穴太衆の躍進によって、石垣の世界は徐々に進化を遂げていたのです。

これまでは、最も早く石垣が導入されたのは、1563年(永禄6年)に「織田信長」が築城した「小牧山城」(こまきやまじょう:愛知県小牧市)と考えられてきましたが、最新の発掘では、小牧山城より3年早く建てられた「飯盛城」(いいもりじょう:現在の大阪府大東市、及び四条畷市の境に存在した。飯盛山城とも呼ばれる)だったことが分かっています。

飯盛城は、織田信長に先駆けて畿内を制した戦国時代最初の天下人「三好長慶」(みよしながよし)が居住した山城で、大阪平野の東端にある飯盛山(標高1,643m)に築かれました。

この石垣は、三好長慶の屋敷があったと思われるお城最大の「曲輪」(くるわ:城の本丸を守るため、お城の内外を石垣や堀などで区画した場所)のそばに、幅1m以上ある自然石を垂直に組み上げられており、長さ約30m、高さ約4mあったと推定されているのです。

今後の発掘調査によって、さらに新たな発見があるかもしれないので、歴女としては、この動向は見逃せません。

石垣の加工技術による分類

石垣の加工法は、「野面積」(のづらづみ)、「打込接」(うちこみはぎ)、「切込接」(きりこみはぎ)の3種類。当初はただ石を積み上げる技法が用いられていましたが、石材を加工する技術の発展により、次第に高くて頑丈で、美しい石垣が造られるようになりました。

どのような特徴があるか、それぞれについて詳しく見ていきます。

積み上げただけの野面積

野面積

野面積

城郭の建築において、石垣が出現しはじめた頃に用いられていた技法が野面積(のづらづみ)。

ほぼ加工せずに自然石を積み重ねていくだけの、実にシンプルな工法です。

積み重ねる石の大きさや形は個々に異なるので、隙間や出っ張りもたくさんできてしまいます。

石垣は、表面に隙間が多く見られても、裏側が確実に組み上げられていれば崩れないのですが、この隙間や出っ張りが足掛かりとなり、敵が侵入しやすくなってしまうこともあり得るため、野面積の技法で造られた石垣では、隙間に「間詰石」(まつめいし)と称される小石を詰めるのが通常でした。

その一方で、隙間があることで排水性が高くなり、大雨が降っても、石垣が崩れることがないというメリットもあります。

野面積の石垣は、「小谷城」(おだにじょう:現在の滋賀県)、「竹田城」(現在の兵庫県)などで観ることが可能です。

軽く加工して積み上げる打込接

打込接

打込接

16世紀後半頃には、近世城郭が盛んに作られるようになり、同時に石垣技術も急ピッチで進化を遂げていきました。

この頃、多くの城郭建築で使われていた石垣積みの技法が、打込接(うちこみはぎ)です。

これは、表面に出る石の角や面を叩き、できる限り平たくしてから、石と石の接触部分(接合面)の隙間を減らして積み上げる方法。

石を叩いて欠き取るなどして加工することで、重なる石の隙間を減らします。この加工には時間を要しますが、野面積よりも高く、傾斜のきつい石垣を作ることが可能になるため、1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」以降によく使われた技術でした。

打込接は、「姫路城」(現在の兵庫県)や「鳥取城」(現在の鳥取県)、「熊本城」(現在の熊本県)などで観られます。

ブロックのように美しい切込接

切込接

切込接

切込接(きりこみはぎ)は、石材を余すところなく加工したのちに、積み上げていく技法です。

現代のコンクリートブロックのように、同じような形に整えた石材を密着させて積み上げるため、非常に美しい見栄えになります。

ほとんど隙間のない石垣は、強度があることから、他の技法よりも高さのある石垣を造ることが可能です。しかし、排水ができないため、排水口が設置されています。

残念ながらこの技法は、かなり手間がかかってしまうため、コストや技術面の問題であまり普及しませんでした。

切込接が使われた石垣は、「江戸城」(現在の東京都)や徳川時代の「大坂城」(現在の大阪府)、「駿府城」(すんぷじょう:現在の静岡県)、「名古屋城」(現在の愛知県)など、江戸時代に築城、または改修されたお城で観られます。

石材を積み上げる方法や外観による分類

石垣の積み方による分類には、大きく分けて2種類あります。

横の目地が揃っている 布積

一定の高さに揃えた石材を用いて、横の接合部にある継ぎ目(目地:めじ)を通す「布積」(ぬのづみ)という技法。石材の高さを揃えて、同じ形に加工する手間がかかりますが、デコボコしていないので、積み上げやすい特徴があります。

ちなみに、継ぎ目が縦に揃っている石垣は崩れやすく、その多くが明治時代以降に建てられたと考えられているのです。

高度な技術が求められる積み方 乱積

「乱積」(らんづみ)は、大小様々で、形状にバラつきのある石材を用いるため、横目地が通っていません。簡単に積み上げているように見えて、実際にはバランスを取るのが難しく、積み上げには高い技術が必要です。

この他には、変則的な積み方として、六角形の石材を使う「亀甲積」(きっこうづみ)や、石材を斜めに積み上げる「谷積」(たにづみ:落積み[おとしづみ]とも呼ばれる)があります。

石垣を知るためのチェックポイント

1:石材の角をチェック

強い石垣に加工する技法:算木積

算木積

算木積

石垣の崩落を防止するために、いちばん大切な部位は、角(隅角部)です。石材の角は、「櫓」(やぐら:監視や防御を目的として、城郭内に建てられた建築物)などの建物が載ることが多く、重量がかかってしまうため、崩れやすい部位。

石垣を造る際には、隅角部を強固にする「算木積」(さんぎづみ)という技法が用いられていました。

算木積は、長方形に加工した石材の短辺と長辺を互い違いに組み上げ、長辺が短辺の隣にある「隅脇石」(すみわきいし)を上下で挟み、隅角部を接合して強度を高める技法。

隅角部の先端部に配される隅石は、長辺が短辺の2~3倍となる石材を用いて、切込接の技法で積んでいきます。

現代でも、江戸城の白鳥堀や大阪城本丸の石垣など、多くのお城で観ることが可能。この美しい形状を観ることで築城時代を推定するのも、歴女がお城を見学する際の楽しみ方のひとつと言えます。

算木積の技法は、関ヶ原の戦い後に完成。「徳川家康」が命じた「天下普請」(てんかぶしん:江戸幕府の命令により、全国の諸大名が行なった土木工事)の過程で全国に伝播したと言われていますが、石垣が造られるようになった頃から、すでに試されていたとも推測されています。

例えば、徳川家康の時代以前にこの技法が観られるのは、織田信長が築城した「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県)の天守台です。隅角部の一部で、細長い石材を交互に積んでいますが、安土城が建築された時期には、採石場において横長の形状をした石材が偶然採掘されたときだけ、隅角部の補強のために用いられていました。

その後、石材の加工技術の発展と共に算木積も進化していきます。そして、関ヶ原の戦い後の築城ラッシュ頃に、算木積に適した切石技術が確立。こうして算木積の技法は、完成に至ったのです。

しかし豊臣家の滅亡後は、江戸幕府によって、新規の築城やお城の修繕、改修についても厳格に制限されるようになったことから、他の築城技術と同じように、石材の加工技術も衰退していったと伝えられています。

実際に、江戸時代に改修された算木積の石垣は、かつて長辺が短辺の2~3倍ありましたが、現在観られる石垣は1.5倍ほどに短くなっているので、そのあたりに注目してチェックしてみましょう。

2:石垣の勾配をチェック

築城名人・加藤清正が確立した清正流の石垣

熊本城の石垣

熊本城の石垣

石垣と言えば、築城の名人と呼ばれた「加藤清正」の熊本城の石垣が見事です。

加藤清正のお城で特徴的なのが、反りのある高石垣。下部にはなだらかな勾配が施されていますが、上に向かうにしたがって、勾配が急になる「扇の勾配」(おうぎのこうばい)と呼ばれています。

このような石材の積み方が生まれた背景には、その当時、西日本を襲った巨大地震の存在がありました。加藤清正が熊本城を築城していた頃、マグニチュード7超とも言われる地震が、1週間で3度も続いたことがあったのです。

また、いわゆる「朝鮮出兵」において、高い石垣を持つ「晋州城」(しんしゅうじょう:現在の大韓民国晋州市)の攻略に苦しんだ加藤清正は、朝鮮の石垣技術を取り入れようとしましたが、高石垣は敵の侵入を防ぐ効果があると同時に、地震の際には崩れやすくなります。

そこで加藤清正は、近江国を拠点にしていた石工集団・穴太衆を現場監督として呼び寄せ、強度のある高石垣を実現させたのです。石垣の勾配を急にすればするほど崩れやすくなってしまいますが、石垣の下部を緩やかにすることで安定させ、上部に反りを付けることで、強度と防御力を増すことに成功。

「清正流」(せいしょうりゅう)と称されるこの技法は、1605年(慶長10年)頃に確立し、全国へと普及していきました。

3:刻印石をチェック

石に刻まれた家紋や印が示すものとは

刻印石

刻印石

石垣の石の中には、家紋や文様、名前などの印が刻まれていることがあります。

これは、江戸城や大阪城、名古屋城、「金沢城」(現在の石川県)といった全国各地のお城で観ることが可能。

主に天下普請によって築城されたお城の石垣に刻印されたと言われていますが、それはなぜなのでしょうか。

天下普請のお城では、動員された各大名の持ち場が割りあてられており、石材も、大名自ら調達するのが原則でした。

そのため石集めのノルマに苦心した家臣や領民達が、所有者不明の石を根こそぎ持って行く事件が頻発し、藩や家柄を示す記号として刻印するようになったのです。

ちなみに、加藤清正流で築かれた名古屋城天守台の隅石には、加藤清正の家臣「加藤肥後守 内 小代下総」(かとうひごのかみ・うち・しょうだいしもうさ)の文字が刻まれています。加藤清正は印ではなく、名前を刻ませていたのです。歴女の方々にとって、こういった違いの発見は、有名人のサインを探すようで楽しいかもしれません。

また、大阪城本丸の北側に位置する「山里丸」(やまざとまる)の跡地には、「刻印石広場」と呼ばれる一角があります。ここは、江戸時代の様々な符号を刻んだ刻印石が約80個並べられたスペース。「大阪城内ゾーン」、「竜造寺町[りゅうぞうじちょう]ゾーン」、「寝屋川[ねやがわ]ゾーン」、「木津川口[きづがわくち]ゾーン」、「玉造町[たまつくりちょう]ゾーン」、「その他ゾーン」の6つのグループに分類され、展示が行なわれているのです。

さらに大阪市内には、徳川時代に実施された大坂城再築に用いられたであろう刻印石や石材が観られます。

その中には、大坂城の石垣の石材として運ばれて来たにもかかわらず、結局は未使用のまま放置された「残念石」(残石とも呼ばれる)も多く遺されていますので、これらもぜひ探してみましょう。

4:石垣の化粧をチェック

権威を見せ付ける表面の細やかなる仕上げ

すだれ仕上げ

すだれ仕上げ

関ヶ原の戦い以降、石垣の表面を美しく見せるため、「化粧」と呼ばれる加工技法が盛んに用いられるようになりました。

そのほとんどが江戸時代に造られた石垣であり、これを最初に行なったのは、加藤清正と言われています。加藤清正が手がけた「南関城」(なんかんじょう:現在の熊本県)の石垣は、一枚岩のようであり、非常に美しい仕上がりです。

石垣の化粧加工で行なわれるのは、鉄のノミで石の表面を少しずつ「はつる」(打ち欠く)という作業。これは、おもに「はつり仕上げ」と「すだれ仕上げ」に分かれ、はつり仕上げは、小さな点のような溝(みぞ)を、石垣にまんべんなく施します。

その一方ですだれ仕上げでは、縦や斜めにすだれ状の筋を入れているのが特徴です。手間が掛かる分、はつり仕上げのほうが美しい見栄えとなりますが、どちらも根気のいる仕事でした。

綺麗な石垣があることで、お城全体の美しさもグレードアップさせられるため、化粧加工は、城郭の中でも特に人通りが多い大手門などに施されていたのです。

例えば、駿府城の大手門には、亀甲積にはつり仕上げをした格式高い石垣が残っていますが、はつりについては、経年による風化によって分かりにくくなっています。はつり仕上げかどうかは、斜めから観ると分かりやすいので、様々な角度からじっくりと観察することがオススメです。

また、すだれ仕上げを用いた石垣を有するお城の中で、代表的な存在であるのは江戸城。中之門そばの石垣には、多色の石材によってモザイク模様が形成され、美しさを強調する意匠となっています。

石垣に見る歴史によって変遷した組織作り

失業対策として行なわれたゼネコンによる石垣とお城造り

日本におけるお城は、織田信長の時代より、大名が自身の力を誇示するために造られていました。しかし、合戦によって経済が動いていた戦国時代が終わり、泰平の世になると、多くの武士が失業することになります。

そこで、雇用を確保するために城郭建築をしていたと伝えられているのです。つまり、当時の城郭建築は、現代で言う公共事業にあたり、ゼネコンのような業者も登場。

これにより、城郭建築、及び街作りはシステム化していきました。石垣に用いる石材も、専門業者が存在したことで、サイズの揃った石が手軽に手に入るようになったのです。

現代で行なわれる街作りと同じように、お城造りの工程がシステム化されていったことは、非常に興味深いと言えます。

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