城と共に栄え、当時の建物や町並みが楽しめる城下町は、日本各地に数多く存在しています。歴史を感じさせる昔ながらの雰囲気に、歴史だけでなく食べ歩きなども楽しめるため、観光地としても人気です。「歴女に人気の城下町」では、地域別に城下町をお調べ頂けますので、お城めぐりや観光の際にご活用下さい。
地域を選択して、各都道府県の城下町をご覧下さい。
北海道・東北地方
松前
北海道松前町の「松前城」(まつまえじょう)は、日本史上最後に建てられた日本式城郭であり、北海道では唯一の石垣と天守を備えた城です。
津軽海峡に面した海岸線で厳しい自然環境のなか、たくましく生き抜いた城下町・松前の歴史は、北前船(きたまえぶね)の就航した港と共にあり、幕末には「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の舞台に。2017年(平成29年)には、松前町に伝わる文化が「荒波を越えた男達の夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の一部として日本文化遺産に認定されました。
歴史に思いを馳せながら、歴史に翻弄された痕跡が残る松前の城下町を散策することも、歴女らしい楽しみ方だと言えます。
北海道
弘前
「弘前城」(ひろさきじょう)は、全国に12箇所ある「現存天守」(げんぞんてんしゅ:江戸時代以前に建造され、現存している天守)のひとつです。弘前城下の町割りは、1603年(慶長8年)に初代藩主「津軽為信」(つがるためのぶ)が着手し、1611年(慶長16年)には、2代藩主の「津軽信枚」(つがるのぶひら)が完成させました。
江戸時代後期になると、海を挟んだロシアに対する国防の拠点としての役割まで任されるようになり、他藩にはない特徴が加わっていきます。弘前城下を散策する歴女は、様々な歴史ミステリーに出会えそうです。
青森県
登米
1604年(慶長9年)に「伊達政宗」(だてまさむね)の領地となり、その一門である登米伊達氏の城下町として繁栄した「登米」(とよま)。町の西部を北上川(きたかみがわ)が流れる川沿いの、河川交通の中継拠点として発展してきた城下町です。
登米伊達氏による治世は、明治維新まで13代300年に亘り続きました。現在も町のなかには、明治期の洋風建築が点在。近世と近代、現代が融合した町並みは、歴女に人気の高いスポットです。
宮城県
角館
「秋田新幹線」の開通後、格段にアクセスが向上した城下町「角館」(かくのだて)。訪れる観光客が増えるにつれ、その魅力がより多くの人に知られるようになっています。
みちのくの「小京都」と呼ばれる角館は、京風文化と東北の自然の融合による優雅さが特徴的。なかでも、春になると一斉に花を咲かせる枝垂れ桜と武家屋敷が織り成す風景は見事です。歴女に人気の高い角館の雅な文化の背景には、京の都との強い結び付きがありました。
秋田県
会津若松
白虎隊(びゃっこたい)の悲劇と共に語られることが多い福島県の「会津若松」(あいづわかまつ)は、どこか哀愁漂う城下町と思われがちですが、その歴史を辿ると東日本随一の華やかな城下町であったことが分かります。
貢献したのは、「織田信長」(おだのぶなが)から政治的才能を高く評価されていた「蒲生氏郷」(がもううじさと)や、江戸幕府の将軍達の相談役として重用された松平家の武将達でした。歴女に人気の高い「伊達政宗」(だてまさむね)や「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)などが城主となった時代もあったのです。
城と町の名プロデューサーが次々にかかわった会津若松の歴史をご紹介します。
福島県
関東地方
川越
埼玉県川越市のほぼ中央にあり、蔵造りの町並みが美しい川越は、今も城下町の面影を色濃く残した、江戸情緒あふれる町として歴女にも人気のスポットです。都内からのアクセスもよく、東京発の日帰り旅行を気軽に楽しむこともできます。
かつては幕府の直轄地で、「小江戸」と呼ばれるほどに発展した川越。地理的な要衝の地でもあったことから、歴代藩主達はいずれも親藩・譜代大名で、その多くは幕政を担う重臣達でした。
川越の歴史をたどると、幾度となく火事に見舞われた記録が残っています。しかし、川越に暮らす人々はそのたびに名将のもとで、より強固な町づくりを達成し続けてきました。川越が商業の町として大成したのは、転んでもただでは起きない、町の人々の気質に負うところが大きいのです。
埼玉県
佐倉
千葉県佐倉市の佐倉(さくら)は、江戸幕府で最多の老中を輩出した、佐倉藩があった名門の町。特に、老中「堀田正睦」(ほったまさよし)は、蘭学や西洋医学をいち早く採り入れ、教育にも熱心に取り組んだ人として有名です。
そんな佐倉藩の歴史や歴代藩主達の足跡をご紹介。江戸情緒が色濃く残り、映画やドラマの撮影地に選ばれた、歴女必見の見どころもご紹介します。
千葉県
江戸
毎年、国内外から多くの観光客が訪れる大都市「東京」(とうきょう)。この東京で、定番の観光名所のひとつとなっているのが「江戸城」(えどじょう)です。
江戸時代に「江戸幕府」(えどばくふ)の政庁として機能していた江戸城は、明治時代以降に「宮城」(きゅうじょう:天皇の住居)となり、現在では江戸城跡一帯が「皇居」(こうきょ)と呼ばれています。大都市の中央に位置しながら、緑豊かな敷地が広がる江戸城内には、江戸時代の遺構が残っており、江戸の歴史を感じながら散策を楽しむことができるスポットです。
また、江戸城を囲むお堀沿いの道は、綺麗に舗装されていることから、ランニングに最適。お堀沿いを走ることを「皇居ラン」と呼び、ランナー達からも親しみを込めて呼ばれています。歴女のランナーなら一度は走ってみたいコースではないでしょうか。都民の憩いの場でもある江戸城と、城下町の歴史や観光スポットをご紹介します。
東京都
北陸・甲信越地方
高田
新潟県上越市の「高田」は、江戸時代に出現した城下町。高田城が築城される以前は、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)の居城だった春日山城下にほど近い寒村(かんそん:貧しくさびれた村のこと)でした。この地域の政治の中心が典型的な山城の春日山城から高田平野の平城に移されたことは、戦のない泰平の世へ向かう時代の要請だったのかも知れません。
冬は一面の銀世界に包まれる豪雪地帯ですが、春になると城下の堀に沿って約4,000本もの桜が一斉に咲き始めます。1年の間に大きく色合いが変化する城下町・高田では、歴女のみなさんもドラマチックな歴史に出会えそうです。
新潟県
金沢
石川県金沢市の「金沢」の歴史を象徴する枕詞(まくらことば)と言えば「加賀百万石」(かがひゃくまんごく)。歴女のみなさんもよくご存じの言葉ですが、これは徳川家に次いで裕福な藩であったことを意味しています。
加賀藩の藩祖は、歴史小説やNHK大河ドラマの常連でもある「前田利家」(まえだとしいえ)です。「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)とは幼なじみで、若いころは槍(やり)の遣い手として知られ、織田信長と豊臣秀吉が天下人となったあとも信頼されていました。さらには、「徳川家康」(とくがわいえやす)にも一目置かれた、稀代の名武将でもあります。
加賀藩の潤沢な財力は、前田利家の才覚によってもたらされたのかも知れません。その財力は、金沢城下の町づくりや文化にどのような影響をもたらしたのでしょうか。城下町・金沢の歴史を辿ってみましょう。
石川県
一乗谷
福井県福井市の中心から東南へ10㎞ほどの小高い丘に囲まれた平地に、かつて戦国大名「朝倉氏」(あさくらし)が5代、103年間に亘って統治した城下町「一乗谷」(いちじょうたに)があります。多くの城下町は、江戸時代の幕開けと共にさらなる発展を続け、政治・経済・文化を充実させながら明治維新を迎えましたが、一乗谷の城下はまったく違う運命に翻弄され、消滅しました。
しかし、1971年(昭和46年)、一乗谷の城下町跡が土の中からほぼ往時の姿のまま発掘されたことを機に、その後も発掘調査が続けられ、次々と一乗谷の歴史が蘇ります。そしてついには、2005年(平成17年)には、城下の町並がそのままの姿で復元されました。
福井県
上田
「上田」(うえだ)の地名を聞いて、まず思い出すのは、「真田一族」(さなだいちぞく)にまつわる歴史物語です。講談や軍記物の題材として古くより人気を博していましたが、近年ではNHKの大河ドラマ「真田丸」(さなだまる)によって、歴女のみならず、城下町・上田の注目度がさらに高まりました。
上田の城下町を歩くと、歴史的遺構の多いことに驚かされます。四方を川に守られた上田を見出し、開拓した真田一族は、2度に亘って「徳川家康」(とくがわいえやす)に苦汁を舐めさせたことでも、全国の戦国大名から一目置かれる存在でした。早速、真田一族の足跡をたどる歴史散策を始めましょう。
長野県
松本
長野県松本市にある国宝「松本城」(まつもとじょう)。松本城は、現存最古の5層6階天守、全国に12城しかない「現存天守」(江戸時代以前の築城から、天守が残っているお城)のひとつです。現在、日本に存在するお城の多くは復元された物。「廃城令」や「第二次世界大戦」などによって、ほとんどのお城が焼かれ、破壊されたためです。
松本城の築城から約500年。解体の危機を乗り越えて、今なお歴女をはじめとして多くの人々を魅了する国宝松本城の歴史と、築城当時の面影を再現した城下町の歴史を併せてご紹介します。
長野県
東海地方
岩村
「岩村城」(いわむらじょう)は、岐阜県恵那市岩村町にある山城で、海抜717mに位置しており、諸藩の居城のなかでは、もっとも高い場所にあったと言われているお城です。1873年(明治6年)に解体され、現在は井戸や石垣が残されています。
高い場所にあったお城であること、また周囲には霧が多く発生することなどから岩村城は「東洋のマチュピチュ」とも呼ばれてきました。その大きさや広さに違いはありますが、山裾からは遺構が確認できないことや、解明されていない多くの謎があることも、岩村とマチュピチュの共通項。山の上にある秘密めいた城下町について語る場合、歴女なら真っ先に岩村城の悲劇を挙げるでしょう。
数多の歴史本にも繰り返し書かれてきた悲劇について、人は色々な想像を巡らし、自分のなかでそれをドラマのように描き、我がことのようにして悲劇をなぞります。ここでは、その悲劇とそれが起こった原因を今一度探りながら、山城と城下町が辿った運命を旅します。
岐阜県
郡上八幡
岐阜県郡上市八幡町柳町は、「郡上八幡」(ぐじょうはちまん)と言う名称で知られる日本の城下町。江戸時代には「郡上藩」が置かれ、政治・経済の中心地として栄えていました。
現代でも、木造家屋が軒を連ねる景観をはじめとして、「日本三大盆踊り」のひとつ「郡上おどり」や、自然が作り出す「大滝鍾乳洞」(おおたきしょうにゅうどう)など、見どころや名所が数多く存在し、年間に延べ500万人を超える観光客が訪れる岐阜県屈指の観光名所としても有名です。
岐阜県
田中
静岡県藤枝市にある「田中城」。1300年代の応安年間(1368~1374年)、室町時代には存在していたという伝承が残っています。「徳川家康」とのゆかりも深く、徳川家康が人生最後の鷹狩りをした場所として歴史小説などにも登場。
田中城が誕生した頃の言い伝えから順に、城下町「田中」の歴史をひも解いていきます。
静岡県
名古屋
1615年(慶長20年)、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)の命により建造された「名古屋城」(なごやじょう)。天守に載る金のしゃちほこにかけ、別名を「金鯱城」(きんこじょう)、「金城」(きんじょう)とも呼ばれる名城です。
1930年(昭和5年)、名古屋城は国宝第1号(旧国宝)として輝かしい称号を得ていましたが、「名古屋空襲」(なごやくうしゅう)で城の大部分が焼け落ちてしまいます。しかし、1959年(昭和34年)、地元の商店街の尽力や、全国からの寄付金により天守を再建。名古屋城は、再び愛知県名古屋市のシンボルとして返り咲きます。
2018年(平成30年)には、本丸御殿を当時の史料を用い忠実に再現。現在は、日本100名城にも選定され、国の特別史跡として人々の注目を集める城のひとつとなっています。お城好きの方はもちろん、歴女の皆さんにも訪れて頂きたい名城です。
愛知県
犬山
愛知県犬山市を流れる木曽川の南岸、断崖の地にそびえ建つ白亜3層の「犬山城」(いぬやまじょう)は、日本最古の天守閣を持つ国宝の名城として、広く知られています。大自然と一体となった優美な姿、江戸時代の空気をはらんだその佇まいに見惚れることでしょう。
犬山市街を一望できる天守からの眺めも、すばらしいものです。戦災をのがれたこのお城と、江戸時代の町割りがそのまま残る日本唯一の犬山城下町は、当時の雰囲気を体感しながら観光できる貴重な歴史スポットとして歴女の間でも人気を集めています。
「織田信長」(おだのぶなが)、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)、「徳川家康」(とくがわいえやす)といった豪傑達の揃う尾張(おわり)の地において、また戦国動乱の時代の重要なお城として、犬山城は築城から約80年間、多くの武将が入れ替わり城主を務めてきました。著名な戦国武将達と犬山城とのつながり、そして雄大な自然と共に生きた人々の暮らしをご紹介します。
愛知県
岡崎
5万石の城下町として発展した愛知県岡崎市の「岡崎」は、東海道の宿場町としても賑わった町。歴女からの注目度も高い「徳川家康」(とくがわいえやす)は、この町の岡崎城で生まれましたが、城下の町づくりの基礎を築いたのは「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の家臣であった「田中吉政」(たなかよしまさ)でした。
江戸時代には、代々譜代大名が統治し、その格式の高さに城下に暮らす人や、東海道を行き交う旅人達の活気が加わり、城下町である岡崎には独自の風土が形成されていったのです。
愛知県
西尾
抹茶の一大生産地として知られる愛知県西尾市の西尾は、かつて三河の中心地として栄えた城下町です。「西尾城」(にしおじょう)は、1871年(明治4年)に実施された「廃藩置県」(はいはんちけん)に伴い廃城となっていましたが、1996年(平成8年)に復元され、現在は歴史公園として、歴史好きの歴女の方々にはもちろん、西尾市民を始めとする多くの人に親しまれる、憩いの場所になっています。
西尾は、かつての商家の姿が残り、時間がゆったりと流れているように感じられる町。西尾ならではのそこはかとない品格は、どんな歴史から生まれたのでしょうか。ここでは、その理由を探るため、西尾の歴史を辿っていきます。
愛知県
桑名
「伊勢湾」(いせわん)に注ぐ「揖斐川」(いびがわ)の河口近くに広がる「桑名」(くわな)は、その地形から河川海上交通の要として、古来から重要な位置を占めてきました。時代の移り変わりと共に、港町から城下町、そして東海道の宿場町へ、町の形態が3つに変化しながら、大いに発展していきます。
「東海道五十三次」(とうかいどうごじゅうさんつぎ)のうち、42番目の宿場として、江戸時代に大変賑わっていた「桑名宿」(くわなじゅく/くわなしゅく)。残念ながら現在その町並みは、ほとんど面影を残していませんが、かつては「歌川広重」(うたがわひろしげ)の作品をはじめ、様々な浮世絵にも描かれています。
美術品好きの歴女の方はもちろん、あまり歴史に興味がない方でも、桑名を題材にした浮世絵をご覧になったことがあるのではないでしょうか。それほど桑名の地は、東海地方における交通の要衝だったのです。ここでは、桑名が「水運の町」としてどのように栄えていたのか、現在の見どころと共にご紹介します。
三重県
関西地方
膳所
滋賀県大津市にある「膳所城」(ぜぜじょう)は、その昔「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠[からかねぎぼし]、水に映るは膳所の城」と美しい姿が謳われ、風光明媚な名城として東海道を行き交う旅人の観光名所となっていました。
現在、膳所城の姿を観ることはできませんが、歴女におすすめなのは、その跡地。桜の名所として親しまれている膳所城跡公園や、膳所焼で抹茶が頂ける美術館など、詳しくご紹介します。
滋賀県
安土
「織田信長」(おだのぶなが)が夢見た天下統一の形が、現実となった時代がありました。夢の舞台は、現在の滋賀県近江八幡市(しがけんおうみはちまんし)にある「安土」(あづち)。時は1576年(天正4年)から1582年(天正10年)の6年間のことです。
安土の地名は、「平安楽土」(へいあんらくど)に由来するとも言われています。現在の安土には、往時の様子を伝える城址と、いくつかの史跡が残るのみですが、想像力を刺激されるという点に置いて、安土は他の城下町と一線を画する存在です。
近年では発掘調査が進み、「安土城」(あづちじょう)の全貌も明らかになってきました。常に歴女人気のトップを争う織田信長の「夢の跡」を追ってみましょう。
滋賀県
長浜
滋賀県長浜市の「長浜」(ながはま)と聞けば、「ガラスの町」としてブランド化した地域であることを思い浮かべる歴女も多いのではないでしょうか。「黒壁スクエア」を中心にガラスが町を潤し、人を寄せ、たくさんのモノとコトが交流する町として発展しています。
歴史軸で見てみると、長浜は「豊臣秀吉/羽柴秀吉」(とよとみひでよし/はしばひでよし)が城を構え、城下町としての基礎を築いた町でもあるのです。豊臣秀吉のあとにも何人かの武将が在城しましたが、やはり豊臣秀吉のイメージが強いのは、豊臣秀吉が天下人、つまり経営者としての才覚を表わした最初の拠点だったから。現代の長浜がガラス文化の町になっていることを思えば、城下町の歴史とは、なんとも面白いものに思えてきます。
ここでは、長浜城が築城されてから現代まで、およそ450年の時空を、歴女のみなさんと一緒に旅してみましょう。
滋賀県
岸和田
300年の歴史を誇る「だんじり祭」でも有名な大阪府の「岸和田」(きしわだ)は、戦国時代から一向一揆が懸念された「紀州征伐」(きしゅうせいばつ)の拠点となった城下町です。
江戸時代に入ってからは「紀州街道」の開通に加え、善政を敷いた岸和田藩(きしわだはん)藩主「岡部氏」(おかべし)が登場したことにより、人・物・金の行き来が盛んになり、城下町に発展をもたらしました。だんじり祭には、岸和田ならではの威勢の良さと繊細さが象徴されているのです。
昭和になって再建された「岸和田城」(きしわだじょう)は、今も岸和田城下の人々の絆を結ぶ存在として親しまれています。お祭り好きの歴女には特になじみ深い、岸和田の歴史と現在の姿を見ていきましょう。
大阪府
大坂
現在、多くの観光客が訪れる「大阪城」(おおさかじょう)は、江戸幕府の初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)が建立した「大坂城」(おおさかじょう)を復元した物。しかし、徳川家康が大坂城を造るより前、その地には「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)によって築かれた、豪華絢爛な大坂城(同名)がありました。
豊臣秀吉の天下統一後、大坂城を中心に「豊臣家」(とよとみけ)の拠点として繁栄し、江戸時代には西国の商業を担う一大都市として発展した大坂城下町。豊臣から徳川へ、時代が移り変わる中心にあった大坂城下町の歴史を振り返りながら、歴女にお薦めの観光スポットを紹介します。
大阪府
彦根
滋賀県彦根市にある彦根は、井伊家30万石を誇る城下町。江戸時代初期、全国から町づくりのお手本とされ、たいへんな賑わいを見せました。
太平洋戦争での空襲がほとんどなかったため、今もなお、町の中心には国宝「彦根城」(ひこねじょう:別名・金亀城[こんきじょう])がそびえ、周辺には美しい武家屋敷など、往時の面影が色濃く残っています。食べ歩きグルメやお土産屋さんも充実。歴女の散歩にふさわしい、彦根の城下町をご紹介します。
滋賀県
出石
兵庫県豊岡市にある「出石」(いずし)は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている城下町です。出石川(いずしがわ)沿いの盆地は碁盤目状の町割りをしており、その姿から「但馬[たじま]の小京都」とも呼ばれています。
城下のシンボルは「辰鼓楼」(しんころう)と言う時計台。出石ゆかりの人物には、「沢庵和尚」(たくあんおしょう)、「桂小五郎」(かつらこごろう)などが名を連ね、町の随所で歴史ドラマと出会える歴女の好奇心をくすぐる城下町として知られています。
兵庫県
姫路
山陽新幹線やJR山陽本線に乗る人の多くが、美しい白亜のお城を車窓から見付けて心躍らせます。姫路駅の北側へまっすぐに伸びる道の先に、世界遺産「姫路城」(ひめじじょう)がそびえているからです。「城ガール」とも呼ばれるお城好きな歴女の皆さんはもちろん、お城にあまり興味がない人でも、その姿の美しさには思わず足を止め、飽くことなく眺めることでしょう。
広大な敷地に建つ姫路城はとても大きく、近くにあるのかと思って歩きますが、駅前からゆっくり歩くと15~20分ほどかかります。白鷺が羽を広げたように観えることから付けられた「白鷺城」(しらさぎじょう)とも呼ばれる姫路城。ここでは、姫路城の圧倒的な美しさについて、またそのお城を守り続けてきた人々について、ご紹介します。
兵庫県
大和郡山
「大和郡山」(やまとこおりやま)における城下町の歴史は、戦国時代の終わり頃に「筒井順慶」(つついじゅんけい)が、「郡山城」(こおりやまじょう)を築いたことから始まります。
お城と同様に、江戸時代に入ってからの藩の名称も「郡山藩」(こおりやまはん)です。大和郡山と地名が付けられたのは、1954年(昭和29年)に市制が施行されたときのこと。福島県にある「郡山市」(こおりやまし)との混同を避けるためでした。ここでは、城下町は大和郡山、城と藩は郡山でご案内します。
近年、「金魚の泳ぐ城下町」として、歴女をはじめとする観光客にも大人気の城下町・大和郡山ですが、果たして誰が金魚を泳がせたのでしょうか。そんな素朴な疑問も探りながら、大和郡山の歴史を辿っていきます。
奈良県
中国・四国地方
松江
松江市民が誇るシンボル・国宝「松江城」(まつえじょう)は、江戸時代当時の姿をそのままに、「宍道湖」(しんじこ)の北側にある小高い丘の上にそびえ立ちます。三英傑のもとで、戦乱の世をくぐり抜けた「堀尾氏」(ほりおし)が築城。実戦の経験豊富な藩主が、随所に敵を欺く仕掛けを施した質実剛健な天守閣です。お城好きの歴女の皆さんにとっては、見どころ満載のお城と言えます。
城下町を歩いてみると、町のあちらこちらに川が流れ、水堀が張り巡らされているのに驚くでしょう。松江の町は宍道湖と共にある風光明媚な水の都。堀川には遊覧船がのどかに運航し、豊かな水脈を感じる松江は、まさに「水と共にある町」。ここでは、水が町づくりのカギとなった、松江の城下町の成り立ちを見ていきます。
島根県
津和野
中国山地の谷あいに広がる小さな城下町「津和野」(つわの)。現在の島根県鹿足郡(しまねけんかのあしぐん)にあり、「山陰の小京都」と呼ばれ、山紫水明(さんしすいめい)の美しい静かな土地です。町を二分するように清流・津和野川が流れ、緑溢れる風景と共に、城下町は往時の面影を残しています。
そんな津和野城の城下町が発展したのは、戦のない平和な時代が訪れた江戸後期のことでした。穏やかな山間に広がるこの城下町は、どのような歴史をたどってきたのか、紐解いていきましょう。
島根県
備中高梁
江戸時代、現在の岡山県高梁市に築城された「備中高梁城」(びっちゅうたかはしじょう)。このお城の正式名は「備中松山城」(びっちゅうまつやまじょう)、同じく藩の名称も「備中松山藩」(びっちゅうまつやまはん)が正式な藩名です。しかし、「備中高梁藩」(びっちゅうたかはしはん)の呼び名も浸透しており、明治時代になると高梁藩に改称されました。
ここでは、「現存12天守」に名を連ね日本三大山城に数えられる天下の名城・備中高梁城、そしてその城下町にまつわる歴史や魅力、オススメの観光スポットを歴女の皆さんにご紹介します。
岡山県
萩
現在の山口県にあった「長州藩」(ちょうしゅうはん)は、長門国(ながとのくに:現在の山口県西半分)の萩にあったことから、「萩藩」(はぎはん)、また山口に移転したことから「山口藩」(やまぐちはん)などとも呼ばれます。
萩の城下町で生まれた偉人は、「吉田松陰」(よしだしょういん)や「高杉晋作」(たかすぎしんさく)、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)など多数。吉田松陰が教鞭を振るった「松下村塾」(しょうかそんじゅく)や「毛利綱元」(もうりつなもと)が築いた藩校「明倫館」(めいりんかん)は、今でも古地図通りに歩ける、風情あふれる城下町です。
あの武将が始めた「萩焼」(はぎやき)や特産「夏みかん」のスウィーツなど、歴女必見の情報をご紹介します。
山口県
大洲
愛媛県大洲市の「大洲」(おおず)は、「伊予の小京都」と呼ばれるとても小さな城下町。その歴史は古く、8~9世紀頃には、集落ができ始めていたとのことです。小高い山と山の間にある盆地で、古人(いにしえびと)達が仲睦まじく助け合い、大切に文化を紡いでいたのでしょう。肱川(ひじかわ)から立ち上る朝霧の風景は清々しく、この城下町の気質を象徴しているかのようです。
大洲の歴史を紐解くと、そこには「毛利輝元」(もうりてるもと)、「藤堂高虎」(とうどうたかとら)、「中江藤樹」(なかえとうじゅ)、「坂本龍馬」(さかもとりょうま)などの国史を彩る、歴女から人気の高い大物達が次々に顔を覗かせます。そんな大洲の城下町には、歴女の好奇心を刺激するエッセンスが凝縮されているのです。
愛媛県
九州・沖縄地方
柳川
福岡県柳川市にある「柳川」(やながわ)は、市内に多数の川が流れていることから「水の都」としても有名な町です。この水路を整備したのは、「関ヶ原の戦い」のあとに藩主となった「田中吉政」(たなかよしまさ)。
そして、柳川にはもうひとつ、名所があります。それが「御花」(おはな)。御花は、当時の藩主「立花氏」(たちばなし)の別邸として建てられましたが、明治時代になってから木造の洋館として改築され、「九州の迎賓館」として有名です。旅好きな歴女から人気が高い城下町・柳川の歴史と魅力をご紹介します。
福岡県
島原
長崎県島原市の島原半島にある「島原城」(しまばらじょう)は、高く積み上げた石垣の上にそびえる5重5階の壮大なお城です。
島原の歴史と言えば、江戸時代のキリシタン弾圧を象徴する「島原の乱」(しまばらのらん)や、雲仙・普賢岳(うんぜん・ふげんだけ)の噴火による大災害「島原大変、肥後迷惑」などの悲劇と共に語られることが多いですが、江戸時代中期からは文武を奨励した「松平氏」(まつだいらし)の善政により、比較的穏やかな時代が続いていました。
近年では、キリシタンの弾圧についても様々な角度からの研究が進み、単なる異教徒の排斥ではなかったのではと言う見解も出されています。
長崎県
熊本
東に阿蘇山、西に遠く有明海を臨む熊本の地は、「火の国」にして全国有数の「水の国」でもあります。阿蘇山の湧き水にはじまり、町を流れる白川・坪井川の水脈を城下町づくりに利用して今日の熊本の礎を築いた人物が、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の腹心で歴女からの人気も高い「加藤清正」(かとうきよまさ)でした。
加藤清正は、土木事業や商業政策で優れた手腕を発揮、彼が熊本に与えた影響と発展力は計り知れません。死後400年がたった今もなお、「清正公さん」(せいしょうこうさん、せいしょこさん)という愛称で熊本の人々、そして歴女に親しまれ続けています。
そんな加藤清正公の魂が息づく熊本は、2016年(平成28年)4月に起こった熊本地震により甚大な被害を受けました。
熊本県
臼杵
「臼杵」(うすき:大分県)の名前を聞いて、キリシタン大名である「大友宗麟」(おおともそうりん)を挙げる人はかなりの歴史好き。石仏(せきぶつ)や阿蘇(あそ)の大噴火のことを挙げるなら、地質学などに興味がある人。臼杵と言えば、ふぐ!と思い付く人は、きっと相当な食道楽。歴史はもちろん、他のジャンルにも関心を持っている歴女の方には、興味が尽きない町と言えるでしょう。
このいくつもの顔を持つ臼杵の城下町としての基礎は1500年代にさかのぼります。大友宗麟はキリシタンであったため、城造りにも城下町づくりにもそれは影響しました。石に恵まれた地域でもあり、日本国内には珍しく石造文化が残る町でもあるのです。ここでは、キリシタン大名と城下町の関係性、石がもたらす町づくりについてご紹介します。
大分県
知覧
鹿児島県南九州市の「知覧」(ちらん)は、「薩摩の小京都」と呼ばれるほど、美しい街並みが特徴の城下町です。薩摩藩(さつまはん)では、「外城制」(とじょうせい)が取られ、島津家(しまづけ)居城の「内城」(うちじょう)に対して、領内を区画した「外城」(とじょう)と「麓」(ふもと)と呼ばれる武家の集落に、城下町が築かれていました。
知覧には、今もなお古き良き藩政時代の面影が色濃く残っています。凜とした武家屋敷が続く町並みは、きっと歴女好み。なお、知覧は太平洋戦争末期に「特攻隊」の出撃地になったことも忘れることはできません。そんな知覧の城下町をご紹介します。
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