派手好きというイメージが定着している「豊臣秀吉」。豊臣秀吉所用と伝わる甲冑についても、その多くに派手なデザインと色使いが用いられています。
安土・桃山時代は、意匠を凝らした甲冑(当世具足:とうせいぐそく)が多数制作された時代でしたが、中でも豊臣秀吉所用とされている甲冑は際立つ存在です。
今回は、豊臣秀吉と甲冑にまつわる話をご紹介します。
豊臣秀吉
豊臣秀吉が生きた時代では、主君が家臣に対して甲冑を与えることが珍しくなかったと言われています。
そのため、有名武将が所用していたと伝わる甲冑であっても、実際に戦いの場で着用していたか否かについては、明らかにされていないことも事実です。
特に豊臣秀吉の場合には、数多くの甲冑を家臣に与えていたという記録が残っており、その傾向は顕著であると言えます。
色々威二枚胴具足
なかでも、実際に晩年の豊臣秀吉が着用していたとされるのが、「色々威二枚胴具足」(いろいろおどしにまいどうぐそく)と「色々二枚胴具足」です。
色々威二枚胴具足は、「兜」の上部の装飾に、日本には生息していなかったヤク(インド北部やパキスタンなどに生息するウシ目ウシ科ウシ属の動物)の毛が用いられています。
また、「采配」(さいはい)にも、同様の毛が用いられ、赤く染められているなど、色鮮やか。
後年、これを着用した豊臣秀吉の肖像画が描かれていることから、実際に着用していた可能性が高い一領と言えます。
そして、色々威二枚胴具足は、鎧櫃(よろいびつ:鎧を入れておくふた付きの箱)に記されている内容から、豊臣秀吉が晩年に行なった朝鮮出兵の時期に着用していたと言われています。
もっとも、豊臣秀吉は国内の前線基地だった「名護屋城」(なごやじょう)に滞在していましたが、朝鮮に赴いたという記録は残っていません。その意味で、この色々威二枚胴具足は、真の意味では実戦使用がなされていないとも言えるのです。
一の谷馬藺後立付兜
豊臣秀吉の甲冑として多くの人がイメージするのが、「一の谷馬藺後立付兜」(いちのたにばりんうしろだてつきかぶと)を用いた甲冑ではないでしょうか。
兜のうしろにある29本の馬藺の葉の立物(後立:うしろだて)が、まるで後光が差し込んでいるように見える派手な逸品。
馬藺は菖蒲(しょうぶ)の一種で、菖蒲の読みが勝負や武道、武勇を重んじることを意味する「尚武」と同じ「しょうぶ」であったことから、縁起担ぎの意味で戦国武将達に好んで用いられていました。
とは言え、この立物は別格。後光が差しているようなデザインは、派手好きと言われている豊臣秀吉のイメージにぴったりです。
もっとも、豊臣秀吉が生きたのは、主君が家臣に甲冑を与えることが珍しくない時代でした。この一の谷馬藺後立付兜も例外ではありません。
実際に豊臣秀吉は、九州攻めにおける武功の褒賞として、「蒲生氏郷」(がもううじさと)の家臣「西村重就」(にしむらしげなり)に対し、一の谷馬藺後立付兜を与えたと言われています。
なお、この兜の立物は金属ではなく、薄く削った木。鉄などの金属に比べて重量が軽く、着用者の首への負担がかからないという利点と共に、戦場で立物が木の枝などに引っかかって、身動きが取れなくならないよう、折れやすいように配慮されています。
このようなことから、この兜も単なる観賞用ではなく、実戦での使用を念頭に置いて制作された兜であると言えるのです。
伊達政宗
1590年(天正18年)、豊臣秀吉が「奥州仕置」(おうしゅうしおき)に赴いた際に、宇都宮で出迎えた「伊達政宗」に与えたと言われているのが「銀伊予札白糸威胴丸具足」(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)です。
豊臣秀吉は派手好きとして知られていますが、伊達政宗もまた派手な装いをする人に用いられる「伊達者」(だてもの)の語源となったと言われるほどの洒落者でした。
そんな伊達政宗にふさわしく、この甲冑は胴体部分には銀箔押しした札(さね)と白糸の素懸威(すがけおどし)、兜には熊毛を植え、引廻にはヤクの毛を使用。その前後には、金色の軍配団扇(ぐんぱいうちわ)形の立物を装備するなど、奇抜な意匠が特徴的な逸品です。
なお、銀伊予札白糸威胴丸具足は、天下統一に向けて、豊臣秀吉が日本各地を転戦していた際に着用していたと位置付けられており、天下人に上り詰める豊臣秀吉の様子を間近で見ていた甲冑であると言えます。