甲冑(鎧兜)と武将

真田幸村の甲冑

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江戸幕府と豊臣家の間で行なわれた合戦である大坂の陣は、「大坂夏の陣」と「大坂冬の陣」から成ります。その大坂夏の陣において、豊臣側の武将として「徳川家康」(とくがわいえやす)の本陣まで攻め込む活躍を見せた「真田幸村」(さなだゆきむら)。ここでは、真田幸村という武将の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。

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歴史的に価値の高い甲冑(鎧兜)や面頬などを名前や種類から検索することができます。

戦乱を越えて仙台に残る真田幸村の具足

真田幸村

真田幸村

戦国武将の中でも人気の高い真田幸村(真田信繁)。

真田幸村と言えば、真っ赤な真田家の旗印である六文銭の前立(まえだて)、脇立には大きな鹿の角が伸び、から籠手(こて)、草摺(くさずり)まで朱色に塗った「真田の赤備え」(さなだのあかぞなえ)の姿を思い浮かべます。

しかし、実際に真田幸村が用いたと伝えられる兜や甲冑は、黒色が主体となっていました。

兜は雑賀鉢(さいかばち)形状で、金箔を施した小さな鹿の角の前立が付けられていますが、ゲームやアニメに出てくるほど大きな物ではありません。この兜は、父「真田昌幸」から譲り受けたと伝えられています。胴は南蛮胴ですが中央部は曲面に近い形です。

真田幸村は、「大坂夏の陣」で討ち死にする前、すでに死を覚悟していたのか、事前に自分の子供達を、敵方である伊達家の家臣「片倉重長」(かたくらしげなが)に預けます。片倉重長は、敵方ながらも真田幸村が男気を感じた人物で、片倉重長もその気持ちを汲んだのか、真田幸村の家族を受け入れました。そして真田幸村の死後には、甲冑も伊達家に送られたのです。

そのあと、真田幸村の次男は、「片倉守信」(かたくらもりのぶ)と名乗って伊達家に仕え、その子孫が真田姓を復活させました。現在は仙台真田家が真田幸村の甲冑を所蔵しています。

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わずかな期間に大きく輝いて戦国の英雄へ

豊臣秀吉

豊臣秀吉

真田幸村は、真田家当主・真田昌幸の次男として、1567年(永禄10年)に信濃国(しなののくに:現在の長野県)で生まれました。

真田家は武田家の家臣でしたが、武田家が滅亡すると、武田領をめぐる戦乱の渦に巻き込まれます。

真田幸村は、越後国の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)へ人質として送られ、そのあとは、大坂の「豊臣秀吉(羽柴秀吉)」のもとに移されました。

大坂では豊臣秀吉の世話役を務めますが、豊臣秀吉の死後に起きた「関ヶ原の戦い」では「石田三成」側に付いたため、徳川家康の命令で父・真田昌幸と共に高野山山麓の九度山(くどやま)に蟄居(ちっきょ:武士に科された刑罰のひとつで、自宅などに閉じ込めて謹慎させること)します。

大坂城

大坂城

ここまで真田幸村は父の陰に隠れ、大きな功績も挙げていません。真田幸村が歴史の表舞台に登場するのは、「大坂冬の陣・夏の陣」のことです。

1604年(慶長9年)、徳川家豊臣家の関係が悪化すると、真田幸村は豊臣家の防衛のために大坂城へ入城し、浪人達をまとめて徳川の軍勢を迎え撃ちます。これが「大坂冬の陣」です。

そのあと、豊臣家と徳川家の間で和議が成立しますが、翌年には再び対立して、大坂夏の陣に突入。この戦で、豊臣家は不利な状況に陥り、真田幸村は意を決して徳川家康の本陣に突撃を開始。徳川家康の目前で徳川の援軍に阻止され、大坂城近くで最期を遂げました。

わずか半年の間に2度も繰り広げられた大坂の陣で、真田幸村は本来の知略と決断力を発揮。不利な形勢でも敵に向かう姿勢や出で立ちは、衝撃的なインパクトを残したのです。

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徳川家康を慌てさせた真田幸村の赤備え

真田の赤備え

真田の赤備え

真田幸村は、大坂冬の陣で徳川勢を迎え撃つ際、自分の部隊に赤備えを身にまとうよう指示しました。

部隊と言っても浪人達の集団だったため、連帯感を持たせて全員の士気を上げるために用いたと推察されます。

赤備えの甲冑は、もともと武田信玄の先発隊が使用したのが始まり。その先発隊が勇猛で強力な部隊だったために、赤備えは「強者達で組織された精鋭部隊」のイメージが付いていたのです。

真田家は、真田幸村の祖父の代から武田家に仕えていたため、「武田の赤備え」の戦いぶりを真田幸村も知っていたと考えられます。

大坂冬の陣で、徳川家康は多くの武士を味方に付けて大坂城を包囲。豊臣側に付いた武将は少なく不利な状況でしたが、真田幸村はひるむことなく敵と対峙して徳川家康を脅かしました。

このとき真田幸村が参戦した目的は、勝敗やお金のためでなく豊臣家への恩義、そして徳川家康に一泡吹かせて真田の名前を天下に知らしめることにあったとされます。赤備えは戦場で目立つ策のひとつでもあったかもしれません。

兜が知らせた真田幸村の死

真田幸村の死が判明した出来事については、かつて真田幸村が武田家に仕えていた頃の同僚「原貞胤」(はらさだたね)がかかわっています。大坂冬の陣で原貞胤は真田幸村の敵方でしたが、和議が結ばれると、2人は再会して旧交を温めました。

しかし真田幸村は、和議は一時的なことで再び戦になると予想し、原貞胤に「そのときは父から譲られたこの兜を被って、討ち死にするつもりだ」と語ったとされています。

そのあとに起きた大坂夏の陣では、豊臣側にとって有利に進んでいた戦の形勢が、途中で逆転し、豊臣秀吉の3男「豊臣秀頼」(とよとみひでより)と、豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼の母であった「淀君」(よどぎみ:「淀殿」[よどどの]とも)は自害。大坂城は落城しました。

落城した大坂城に原貞胤が入ると、同じ隊の「西尾宗次」(にしおむねつぐ:通称「仁左衛門」[にざえもん])が、主君「松平忠直」(まつだいらただなお)を探しているところに遭遇します。その手には、見覚えのある兜を被った首がありました。

原貞胤は同じく徳川勢だった真田幸村の叔父「真田信尹」(さなだのぶただ)を探して確認を取り、その首が真田幸村であると判明。仁左右衛門は、相手が誰か知らずに討ったと言われています。

写真のなかったこの時代、兜がなければ原貞胤の目に留まらず、真田幸村と分からなかったかもしれません。真田幸村の最期については十分に解明されていませんが、こうした逸話が語り継がれているのです。

真田幸村の甲冑

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