歴史上の人物と日本刀

豊臣秀吉が短刀 備州長船住長義を譲った理由とは?

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「さぁ、さぁ、お立会い。」日本の伝統的な大道芸である「ガマの油売り」の口上には、「正宗(まさむね)が暇に飽かして鍛えた天下の名刀」という一節があり、刀工「正宗」が、言わずと知れた名匠であったことが窺えます。 そんな正宗には、「正宗十哲」(まさむねじってつ)と称される10人の高弟がおり、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県南東部)の刀工「長義」(ちょうぎ/ながよし)もそのひとり。彼が作った短刀の中に豊臣秀吉の愛刀であったと言われる物があり、のちに加賀藩初代藩主「前田利家」(まえだとしいえ)に譲られることになりましたが、その背景にはどのような理由があったのでしょうか。

信長の家臣時代に育まれた友情

豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉が「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう)の名で織田信長に仕えていた頃、前田利家は幼名の「犬千代」(いぬちよ)を名乗り、「小姓」(こしょう:主君のそばで召し使われ、諸々の雑用を請け負った者。戦国時代には若年者の役目)として、14歳から信長に付きしたがっていました。

秀吉は足軽、または農民など下級階層の出身と言われていますが、利家は尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の土豪・荒子(あらこ)前田家の出身という身分が異なる2人。この当時は、身分が違えば同じ立場で接することなど考えられなかった時代です。それなのに2人は、のちに秀吉が利家のことを「律義者」と評するほど、信頼し合える関係になりました。

利家と秀吉が身分の垣根を越えて、そのような関係を結ぶことができた理由のひとつには、利家が主君である信長から、多分に影響を受けていたことが考えられます。

利家は信長と同様に派手な服装を好み、槍の名手であったことから「槍の又左」(やりのまたざ)の異名を取った、血気盛んないわゆる「傾奇者」(かぶきもの)でした。自由な発想で常識を逸脱した行動を取ることが多かった信長のお気に入りになるのもうなずける個性を持っていたのです。

小姓としての仕事に従事するだけでなく、信長の遊び相手としても重宝されていたという利家。信長には、当時の日本では珍しかった黒人男性に武士の身分を与え、「弥助」(やすけ)という名で自身の家臣として召し抱えたという史実が残っています。

すなわち、身分や出自だけで人を見定めるようなことはしない、という主君・信長の考え方が、臣下である利家にも自然と受け継がれていたかもしれません。そのため、利家と秀吉は身分の違いが障害になることなく、仲を深めていくことができたのです。

利家と秀吉、その仲の良さを示すエピソードあれこれ

家族ぐるみでご近所付き合い

清洲城

清洲城

信長が自身の居城を「清洲城」(きよすじょう)にしていたときには、その城下で家が隣同士だった利家と秀吉。さらに2人は、信長が居城を「安土城」(あづちじょう)に移したときには、向かい合わせに住んでいました。

そのようなご縁があった前田家と豊臣家ですが、主人達だけではなく、利家の正室「芳春院」(ほうしゅういん:名・まつ)と秀吉の正室「高台院」(こうだいいん:通称・北政所[きたのまんどころ]、名・ねね)の2人も非常に気が合い、仲が良かったのだとか。さらにまつは、秀吉の母「大政所」(おおまんどころ:名・なか)とも懇意にしており、なかの畑を手伝ってあげるなどの、まさに家族ぐるみで交流を持っていました。

他にも、利家とまつが結婚する際の仲人を秀吉夫妻が請け負ったり、利家の四女「豪姫」(ごうひめ)を、子がなかった秀吉とねねのもとに養女として出したりと、武将同士の損得勘定を抜きにした、親友とも言える付き合いがあったのです。

友情か?忠誠心か?「賤ヶ岳の戦い」での苦渋の決断

柴田勝家

柴田勝家

秀吉がその名を「羽柴秀吉」(はしばひでよし)に改め、順調に出世を重ねていた1582年(天正10年)、「本能寺の変」が起こり、信長が倒れます。翌年の1583年(天正11年)に織田家の主導権を巡って、信長の家臣であった「柴田勝家」(しばたかついえ)と秀吉との間で「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。利家はすでに、1574年(天正2年)には勝家の与力(よりき:戦国時代、侍大将や足軽大将に付属していた下級の兵士)であったため、柴田方に付き、5,000の兵を率いて布陣。しかしながら、突如利家は戦線離脱。当然のごとく柴田軍全体の士気は下がって総崩れとなり、撤退することになったのです。

利家が突然このような行動を取った理由は定かではありませんが、戦況が不利になったので時勢を見定めたとする説や、主従関係にあった勝家と古くからの親友である秀吉との板ばさみに耐えられなくなり、苦渋の決断を下したとする説などがあります。どちらにしろ、この戦いでの勝利により、秀吉は政権を掌握することに。秀吉と利家が育んだ友情がなければ、日本の天下統一は別の結末を迎えていたかもしれません。

秀吉から前田家へ受け継がれた短刀・備州長船住長義

賤ヶ岳の戦い後、秀吉に臣従した利家は徳川家康や「毛利輝元」(もうりてるもと)らと共に、豊臣政権の政務を統括する「五大老」(ごたいろう)に任じられました。それだけではなく、秀吉が亡くなる際、息子である秀頼(ひでより)の後見人にも利家が指名されています。秀吉の死後、徳川家康が台頭してくる懸念があった中、自身の宝とも言える幼い秀頼を利家に託したのです。

その理由は、秀吉にとって利家が誰よりも信頼の置ける存在であったことに他ならないのですが、その証しは、秀吉が愛蔵していた短刀「備前長船(おさふね)住長義」が前田家に伝来していることにもあります。

短刀  銘  備州長船住長義
短刀 銘 備州長船住長義
表:備州長船
住長義
裏:正平十五年
五月日
鑑定区分
重要文化財
刃長
27.7
所蔵・伝来
豊臣秀吉→
前田利家→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

この短刀の別称は、「大坂長義」。その由来には2つの説があります。ひとつは、大坂城中で利家が秀吉から拝領したからというもの。もうひとつの説は、利家の四男にあたる加賀藩第2代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が大坂で求めたことから、この名が付けられたというものです。

「長義」は、名刀の代名詞である「備前長船派」(びぜんおさふねは:備前国長船[現在の岡山県瀬戸内市]を拠点とした鎌倉時代後期以降の刀工集団)の刀工。長義の作風は、作刀の伝法「五箇伝」(ごかでん)のひとつである「備前伝」に、「相州伝」(そうしゅうでん:相州鎌倉で正宗が確立した伝法)を加味している「相州備前」の物になっており、地刃の沸(にえ)が強いことが主な特徴。この短刀も地沸が厚く付き、地鉄は板目肌立ちごころのある、相州備前の特色をよく示す物になっています。

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