甲冑(鎧兜)と武将
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康
甲冑(鎧兜)と武将
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尾張国、及び三河国(現在の愛知県)にゆかりがあり、戦国時代に天下を統一に導いた「織田信長」、「豊臣秀吉」、及び「徳川家康」。彼らは、「三英傑」と呼ばれており、戦国時代における最も有名な武将と言っても過言ではありません。今回は、三英傑と甲冑にまつわる話をご紹介します。

織田信長と甲冑

織田信長

織田信長

「織田信長」は、宣教師「ルイス・フロイス」によってもたらされた地球儀など、新しい物に興味を示したり、城下町において「楽市楽座」政策を実施したりするなど、既成概念にとらわれず、新しい施策を積極的に取り入れていった人物です。したがって、開化的・進歩的というイメージが定着しています。

また、戦いにおいては「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で組織的な鉄砲部隊を組成するなど、革新的な戦法を編み出したとも言われる人物です(異説あり)。

信長は南蛮胴を着用していなかった?!

紺糸威胴丸具足

紺糸威胴丸具足

また、織田信長と言えば、時代劇などの影響からマントに「南蛮胴」(なんばんどう)をまとった、魔王のようないでたちをイメージする人が多いのではないでしょうか。信長が天下統一への足がかりとした岐阜駅北口に建立されている黄金に輝く像も、そんな信長イメージを踏襲していると言えます。

しかし、このイメージは正しくないというのが定説になっているのです。すなわち、現存する史料上、最初に南蛮胴が日本にもたらされたことが確認できるのは、1588年(天正16年)であり、信長が「本能寺の変」で命を落とした6年後となります。古文書などの一次史料からは、信長が南蛮胴を着用することは不可能という結論が導かれるのです。

さらに、信長が所用していた「紺糸威胴丸具足」(こんいとおどしどうまるぐそく)は、南蛮胴を用いていません。こちらは、信長イメージとは異なり、正統的・標準的な形の甲冑。少し意外な感じがするかもしれませんが、実際の信長はこのような甲冑を着用して激戦を勝ち抜き、天下統一への道をひた走っていたと言えます。

洋風の甲冑・南蛮胴

プレート・アーマー

プレート・アーマー

南蛮胴の原形だと言われているのは「プレート・アーマー」、いわゆる西洋式の甲冑です。全身を鉄で覆っているプレート・アーマーは、防御力に優れていました。戦において鉄砲が使用されるなど、武器の殺傷能力が急激に向上していた当時の日本においては、需要が高まっていたと言える防具です。

もっとも、プレート・アーマーは、着用者の体型が異なった場合、腕の部分があると身動きが取りづらくなってしまうという弱点もありました。そこで、腕と足の部分を取り外し、比較的汎用性の高い胴の部分を甲冑に流用する形で制作されていたと考えられています。

当初は輸入品だった南蛮胴ですが、西欧人と日本人の体格差等の問題から、日本人向けの物を新たに作る努力もなされていました。そこで、日本の甲冑師が考え出した手法は、従来あった「仏胴」(ほとけどう:継ぎ目のない胴)における技術の応用。

形状が似ている両者の違いは、南蛮胴が鍛えた鉄の二枚胴で、前の中心に鎬筋(しのぎすじ:盛り上がった線)を立て、背面部分に押付板(おしつけいた)を取り付けることなく、鉄板の肩部分から肩上(わたがみ:胴の背面から両肩に続けて前の胸板の高紐〔たかひも〕にかけ合わせる部分)が直接伸びている点などにありました。このようにして作られた南蛮胴は、輸入されていた物と区別して「和製南蛮胴」(わせいなんばんどう)とも呼ばれています。

代表的な南蛮胴

防御力に優れ、形状が洗練されていることから、武将の間で人気を博した南蛮胴。非常に高価で貴重だったため、限られた人物しか所用することができませんでした。

現代に伝わるのは、徳川家康所用の南蛮胴です。家康を祀る「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)と「紀州東照宮」(きしゅうとうしょうぐう)には、生前に家康が所用していた「南蛮胴具足」(なんばんどうぐそく)が奉納されており、紀州東照宮所蔵の南蛮胴は、10ヵ所の大きな窪みがあります。これは、強度を確認するために、家康が鉄砲で試し撃ちをさせた跡だと言われていますが、いずれも貫通はしていません。この点からも、南蛮胴が武将の求めていた高い耐久性を有していたことを理解することができます。

豊臣秀吉と甲冑

豊臣秀吉

豊臣秀吉

派手好きというイメージが定着している「豊臣秀吉」。秀吉所用と伝わる甲冑についても、その多くに派手なデザインと色使いが用いられています。

安土・桃山時代は、意匠を凝らした甲冑(当世具足:とうせいぐそく)が多数制作された時代でしたが、中でも秀吉所用とされている甲冑は際立つ存在です。

晩年の秀吉が着用していた甲冑

色々威二枚胴具足

色々威二枚胴具足

豊臣秀吉が生きた時代では、主君が家臣に対して甲冑を与えることが珍しくなかったと言われています。そのため、有名武将が所用していたと伝わる甲冑であっても、実際に戦いの場で着用していたか否かについては、明らかにされていないことも事実です。

特に秀吉の場合には、数多くの甲冑を家臣に与えていたという記録が残っており、その傾向は顕著であると言えます。

中でも、実際に晩年の秀吉が着用していたとされるのが、「色々威二枚胴具足」(いろいろおどしにまいどうぐそく)と「色々二枚胴具足」です。

色々威二枚胴具足は、「兜」の上部の装飾に、日本には生息していなかったヤク(インド北部やパキスタンなどに生息するウシ目ウシ科ウシ属の動物)の毛が用いられています。また、「采配」(さいはい)にも、同様の毛が用いられ、赤く染められているなど、色鮮やか。後年、これを着用した秀吉の肖像画が描かれていることから、実際に着用していた可能性が高い一領と言えます。

そして、色々二枚胴具足は、鎧櫃(よろいびつ:鎧を入れておくふた付きの箱)に記されている内容から、秀吉が晩年に行なった朝鮮出兵の時期に着用していたと言われています。もっとも、秀吉は国内の前線基地だった「名護屋城」(なごやじょう)に滞在していましたが、朝鮮に赴いたという記録は残っていません。その意味で、この色々二枚胴具足は、真の意味では実戦使用がなされていないとも言えるのです。

秀吉と言えばコレ!?

秀吉の甲冑として多くの人がイメージするのが、「一の谷馬蘭後立付兜」(いちのたにばりんうしろだてつきかぶと)を用いた甲冑ではないでしょうか。兜のうしろにある29本の馬蘭の葉の立物(後立:うしろだて)が、まるで後光が差し込んでいるように見える派手な逸品。馬蘭は菖蒲(しょうぶ)の一種で、菖蒲の読みが勝負や武道、武勇を重んじることを意味する「尚武」と同じ「しょうぶ」であったことから、縁起担ぎの意味で戦国武将たちに好んで用いられていました。とはいえ、この立物は別格。後光が差しているようなデザインは、派手好きと言われている秀吉のイメージにぴったりです。

もっとも、秀吉が生きたのは、主君が家臣に甲冑を与えることが珍しくない時代でした。この一の谷馬蘭後立付兜も例外ではありません。実際に秀吉は、九州攻めにおける武功の褒賞として、「蒲生氏郷」(がもううじさと)の家臣「西村重就」(にしむらしげなり)に対し、一の谷馬蘭後立付兜を与えたと言われています。

なお、この兜の立物は金属ではなく、薄く削った木。鉄などの金属に比べて重量が軽く、着用者の首への負担がかからないという利点と共に、戦場で立物が木の枝などに引っかかって、身動きが取れなくならないよう、折れやすいように配慮されています。

このようなことから、この兜も単なる観賞用ではなく、実戦での使用を念頭に置いて制作された兜であると言えるのです。

伊達政宗に贈られた甲冑

1590年(天正18年)、秀吉が「奥州仕置」(おうしゅうしおき)に赴いた際に、宇都宮で出迎えた「伊達政宗」に与えたと言われているのが「銀伊予札白糸威丸胴具足」(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)です。

秀吉は派手好きとして知られていますが、政宗もまた派手な装いをする人に用いられる「伊達者」(だてもの)の語源となったと言われるほどの洒落者でした。そんな政宗にふさわしく、この甲冑は胴体部分には銀箔押しした札(さね)と白糸の素懸威(すがけおどし)、兜には熊毛を植え、引き廻しにはヤクの毛を使用。その前後には、金色の軍配団扇(うちわ)形の立物を装備するなど、奇抜な意匠が特徴的な逸品です。

なお、銀伊予札白糸威丸胴具足は、天下統一に向けて、秀吉が日本各地を転戦していた際に着用していたと位置付けられており、天下人に上り詰める秀吉の様子を間近で見ていた甲冑であると言えます。

徳川家康と甲冑

徳川家康

徳川家康

「徳川家康」は、戦国時代における最後の勝者と言っても良いでしょう。戦国時代のど真ん中を歩んだ家康にとって、自らの身を守る甲冑は切っても切れない物でした。

若かりし頃から権力をその手に握ったときまで、戦場において家康が運命を共にした甲冑を通してそのときの家康に迫ります。

若かりし日にまとった甲冑

金陀美具足

金陀美具足

徳川家康が若かりし頃に身に着けていた甲冑は、人目を引く物でした。それが「金陀美具足」(きんだみぐそく)。金箔押しや金漆塗りで仕上げられた甲冑は一見絢爛豪華ですが、決して贅を尽くした物ではなく、素材などは一般武士と同等の物を用いていたと言われています。実戦での使用に耐えられる実用本位で仕立てられた甲冑だったのです。

この甲冑を彩る話として、家康による決死のミッションコンプリートエピソードがあります。1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」にまつわる「大高城兵糧運び入れ」です。当時、松平元康(まつだいらもとやす)の名で今川義元の下で人質生活を送っていた家康は、今川軍の一員として参戦。義元の命により、決死の覚悟を持って、織田軍によって包囲されている「大高城」(おおだかじょう)へ兵糧を運び入れたのでした。

桶狭間の戦いにおいて、義元が信長軍に討たれたことにより、家康の人質生活も終了。地元・岡崎に戻りました。甲冑の「仏胴」(ほとけどう:継ぎ目のない胴)や「脛当」(すねあて)に残る無数の細かい傷から、戦いの中に身を置いてきた血気盛んな家康の姿に思いを馳せることができるのです。

天下を取った甲冑

伊予札黒糸威胴丸具足

伊予札黒糸威胴丸具足

関ヶ原の戦い」は、言わずと知れた家康を天下人へと押し上げた戦い。そのときに着ていたと言われているのが「伊予札黒糸威胴丸具足」(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)。兜にシダの葉状の前立を施していたことから、「歯朶具足」(しだぐそく)とも呼ばれていました。

この甲冑は、家康(徳川家)にとって吉兆の鎧と位置づけられたとされ、豊臣家を滅亡させた「大坂の役」においても、家康の傍らに置かれていたと言われています。

伊予札黒糸威胴丸具足で特徴的なのが、兜の形です。鉄板を打ち出した形が「大黒天」の頭巾のような形をしていることから、「大黒頭巾形兜」(だいこくずきんなりかぶと)と呼ばれています。この兜は、関ヶ原の戦いを直前に控えた時期に、家康の夢の中に出てきた大黒天を再現させた物。七福神の一柱である大黒天は、現在のイメージとは裏腹に仏教の守護神であり、軍神や戦闘神としても知られていました。「天下分け目の戦い」を控え、さすがの家康も神様にすがりたいという気持ちになっていたのかもしれません。

家康が好んだ甲冑

熊毛植黒糸威具足

熊毛植黒糸威具足

兜、胴、袖、籠手(こて)、草摺(くさずり)、脛当をびっしりと熊の毛で覆った、ワイルドないでたちの一領。この甲冑は「熊毛植黒糸威具足」(くまげうえくろいとおどしぐそく)と呼ばれています。兜の横から天に向かって突き出している大きな脇立(わきだて)は、桐製で黒漆を塗った物で、水牛の角をイメージ。熊の毛を用いた黒褐色の色使いと巨大な角があいまって、見る者を圧倒するほどの迫力を醸し出しています。

家康は、この甲冑を好んで着用していたと言われており、豊臣家を滅亡させた大坂の役でも着用していたとする説もあるほどです。金蛇美具足や伊予札黒糸威具足は派手な装飾などがほとんどなく、実用重視と言える物でしたが、この熊毛植黒糸威具足は趣が異なります。質実剛健を是とする家康の「変身願望」が詰まっている一領です。

この甲冑は、尾張徳川家に伝来する唯一の家康所用の具足と位置付けられ、「名古屋城」小天守内において、別格扱いで保管されていました。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

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