「織田信長」は、宣教師「ルイス・フロイス」によってもたらされた地球儀など、新しい物に興味を示したり、城下町において「楽市楽座」政策を実施したりするなど、既成概念にとらわれず、新しい施策を積極的に取り入れていった人物です。したがって、開化的・進歩的というイメージが定着しています。
また、戦いにおいては「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で組織的な鉄砲部隊を組成するなど、革新的な戦法を編み出したとも言われる人物です(異説あり)。
今回は、織田信長と甲冑にまつわる話をご紹介します。
織田信長
織田信長と言えば、時代劇などの影響からマントに「南蛮胴」(なんばんどう)をまとったいでたちをイメージする人が多いのではないでしょうか。
岐阜県の岐阜駅北口に建立されている黄金に輝く像も、そんな織田信長のイメージを踏襲していると言えます。
しかし、このイメージは正しくないというのが定説になっているのです。
すなわち、現存する史料上、最初に南蛮胴が日本にもたらされたことが確認できるのは、1588年(天正16年)であり、織田信長が「本能寺の変」で命を落とした6年後となります。
古文書などの一次史料からは、織田信長が南蛮胴を着用することは不可能という結論が導かれるのです。
プレート・アーマー
南蛮胴の原形だと言われているのは「プレート・アーマー」、いわゆる西洋式の甲冑です。
全身を鉄で覆っているプレート・アーマーは、防御力に優れていました。戦において鉄砲が使用されるなど、武器の殺傷能力が急激に向上していた当時の日本においては、需要が高まっていたと言える防具です。
もっとも、プレート・アーマーは、着用者の体型が異なった場合、腕の部分があると身動きが取りづらくなってしまうという弱点もありました。
そこで、腕と足の部分を取り外し、比較的汎用性の高い胴の部分を甲冑に流用する形で制作されていたと考えられています。
当初は輸入品だった南蛮胴ですが、西欧人と日本人の体格差等の問題から、日本人向けの物を新たに作る努力もなされていました。そこで、日本の甲冑師が考え出した手法は、従来あった「仏胴」(ほとけどう:継ぎ目のない胴)における技術の応用。
形状が似ている両者の違いは、南蛮胴が鍛えた鉄の二枚胴で、前の中心に鎬筋(しのぎすじ:盛り上がった線)を立て、背面部分に押付板(おしつけいた)を取り付けることなく、鉄板の肩部分から肩上(わたがみ:胴の背面から両肩に続けて前の胸板の高紐〔たかひも〕にかけ合わせる部分)が直接伸びている点などにありました。
このようにして作られた南蛮胴は、輸入されていた物と区別して「和製南蛮胴」(わせいなんばんどう)とも呼ばれています。
南蛮胴の種類
防御力に優れ、形状が洗練されていることから、武将の間で人気を博した南蛮胴。非常に高価で貴重だったため、限られた人物しか所用することができませんでした。
徳川家康
現代に伝わるのは、徳川家康所用の南蛮胴です。
徳川家康を祀る「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)と「紀州東照宮」(きしゅうとうしょうぐう)には、生前に徳川家康が所用していた「南蛮胴具足」(なんばんどうぐそく)が奉納されており、紀州東照宮所蔵の南蛮胴は、10ヵ所の大きな窪みがあります。
これは、強度を確認するために、徳川家康が鉄砲で試し撃ちをさせた跡だと言われていますが、いずれも貫通はしていません。
この点からも、南蛮胴が武将の求めていた高い耐久性を有していたことが分かります。