甲冑(鎧兜)と武将
関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①
甲冑(鎧兜)と武将
関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①

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「徳川家康」を率いる「東軍」が勝利を収めたのは、家康が見事な采配を取ったのはもちろんのこと、「武官派」としてその名を轟かせた家臣団が付き従っていたことが、その大きな要因でした。ここでは家康を含め、そのような家臣団の中でも「最強」と評されていた「本多忠勝」(ほんだただかつ)と「井伊直政」(いいなおまさ)について、その強さの秘密を甲冑を通して見ていきます。

センスが光る徳川家康の甲冑

実用性が高く堅実な印象の甲冑

徳川家康

徳川家康

徳川家康」は戦国という乱世に終止符を打ち、そののち260年続く泰平の世の礎を築いた人物。天下の大将軍と言われるだけあって、金箔押しの甲冑や変わり兜など、実に多様な甲冑が残されています。その中でも有名なのは「伊予札黒糸威胴丸具足」(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)です。

この甲冑は、腕を守る役目の籠手(こて)が縮緬鎖(ちりめんぐさり)になっており、胴と同じく小さな鉄板を糸で繋ぐよりもやわらかくて動きやすくなっています。ただし、縮緬鎖は手間のかかる高級な手法が用いられた物。奇抜さや派手さより実用性の高さを重視したであろう甲冑には、家康の堅実さを彷彿とさせるものがあります。

この甲冑の「大黒頭巾形兜」(だいこくずきんなりかぶと)は、名称に大黒とある通り、大黒天が被っていた頭巾が由来。七福神として打ち出の小槌と袋を持つ姿が思い浮かぶ方も多いかもしれませんが、大黒天のルーツはヒンドゥー教の神様の化身であり、戦闘の神としても信仰されています。そのため、家康が甲冑に取り入れたことは不思議ではありません。

この兜には前立(まえだて)も残されており、輪になった歯朶(しだ)の葉が目を引くことから、伊予札黒糸威胴丸具足は別名「歯朶具足」(しだぐそく)とも呼ばれます。歯朶は常緑で茂るため、長寿や繁栄を願う正月飾りにも用いられることがあり、家康のそうした願いが込められたのではないでしょうか。

乱世でも律儀さを保ち「待つ」ことに長けた人物

今川義元

今川義元

1542年(天文11年)、徳川家康は三河岡崎城(みかわおかざきじょう:現在の愛知県岡崎市)主「松平広忠」(まつだいらひろただ)の長男として生まれました。6歳のときに「織田信長」(おだのぶなが)の父・信秀(のぶひで)の人質となります。家康が8歳のときに広忠が亡くなると家に戻って家督を継ぎますが、その後、家康は岡崎城主でありながら「今川義元」(いまがわよしもと)の人質になり19歳まで駿府(すんぷ:現在の静岡市)で過ごします。

1560年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」で今川義元が討ち死にすると家康は今川氏から独立。そののちに信長と同盟を結んだのです。そこからは信長と共に戦いますが「本能寺の変」で信長が亡くなると、「羽柴秀吉」(はしばひでよし)との覇権争いが勃発。「小牧・長久手の戦い」では大軍を率いた秀吉に劣ることなく策をこらして団結した戦いぶりを見せ付け、家康はその力を広く知らしめます。

結局この戦いは、形勢が不利になっていた秀吉から和睦に持ち込まれ、覇権争いとしては秀吉側に軍配が上がることになりました。勢いのある秀吉に今逆らうべきではないと家康はついに上洛し、有力大名として豊臣政権を支えていくことになったのです。

家康は小牧・長久手の戦いで、秀吉の大軍を相手に優勢だった実力の持ち主。その家康が豊臣政権のために尽くす律儀な姿に、秀吉の家臣たちは感動したのかもしれません。秀吉が亡くなると五奉行の筆頭であった「石田三成」(いしだみつなり)と考えが合わなかった家臣は、こぞって家康に味方することに。そして1600年(慶長5年)、家康59歳の頃に「関ヶ原の戦い」が起こり、石田三成を中心とする西軍に勝利し、ようやく天下を手中に収めました。

将軍家に代々受け継がれた吉祥の具足

関ヶ原の戦いという大事な戦を控えたある日、夢を見た家康。その夢の中に大黒天が現れたことから、戦闘の神の加護を得ようと大黒頭巾形兜を作らせたという説があります。伊予札黒糸威胴丸具足は関ヶ原の戦い、そして「大坂冬の陣・夏の陣」でも携行しており、度重なる大戦に勝利したことから、「吉祥の具足」として大切に扱われたと言われているのです。

久能山東照宮

久能山東照宮

家康は、大坂夏の陣の翌年である1616年(元和2年)に病死。生前に死後の手配を家臣へ伝えており、家康の遺骨は遺言通りに久能山(くのうざん:静岡県静岡市)へ埋葬されました。そして、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)によって「久能山東照宮」(くのうざんとうしょうぐう)が建立され、家康の甲冑も久能山にしばらく安置されました。

そののち、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の代になると甲冑は江戸城へ移され、それ以降は将軍家に受け継がれたのです。当時、武家の年中行事のひとつに「具足開き」があり、甲冑の前にお供えした具足餅(ぐそくもち)を正月の11日に槌(つち)で割って、頂く習慣がありました。

4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)の代には、家康の甲冑が正月飾りとして江戸城内に飾られたと伝わっています。また、家綱の命で吉祥の具足(歯朶具足)とよく似たつくりの「貫衆具足」(しだぐそく)が、ご神体と同等の物として久能山東照宮へ納められました。

吉祥の具足には改めて家康の偉大さを感じると共に、歴代将軍が具足を大切にした姿には、家康のような律儀さが受け継がれたことも窺えるのです。

屈強かつ信心深い本多忠勝の甲冑

57回の合戦で無傷だった強者の甲冑

徳川家康には「徳川四天王」と呼ばれる側近がおり、その四天王のひとりが「本多忠勝」(ほんだただかつ:「平八郎」[へいはちろう])です。家康の家臣きっての武辺者(ぶへんもの:勇敢な武士)で、合戦に出たのは生涯で57回と徳川家の主な戦のほとんどに参戦。ときに単身で敵の軍へ突進するなど勇猛果敢に戦っていましたが、かすり傷ひとつ負わずに帰還したと言われています。

黒糸縅胴丸具足

黒糸縅胴丸具足

歴戦の猛者である忠勝が身に付けたのは「黒糸威胴丸具足[鹿角脇立兜・小具足付]」(くろいとおどしどうまるぐそく[しかつのわきだてかぶと・こぐそくつき])であり、全体的に黒ずくめで迫力ある甲冑です。

肩から掛けた金箔押しの数珠は、戦場で討ち取った敵兵の供養をするための物と伝わっており、生死をくぐり抜けた忠勝の生き様を見るようです。

また立派な鹿角が付いた兜には、まだ若い頃の家康と忠勝にまつわる逸話があります。忠勝は13歳で初陣を飾ると、家康が今川義元の人質であった青年時代から側近として仕えていました。

桶狭間の戦いで今川義元が討たれた際も家康と忠勝は今川のもとにおり、家康は急いで岡崎城へ戻ろうと道中で忠勝に敵の状況や戻る手段を探るよう命じます。すると忠勝は、道の先にあった矢作川(やはぎがわ)が増水して渡れないことを発見。思案していたところに、1匹の鹿が現れました。その鹿が川を渡った場所を家康に伝え、家康らは鹿が渡った浅瀬を使って無事に岡崎城へ帰ったのです。忠勝は矢作川で見かけた鹿について、松平家の守護神社である「伊賀八幡宮」(いがはちまんぐう:岡崎市)の使いだと考え、その鹿のように家康を守ろうと兜に用いたということです。

主君のため自ら囮(おとり)にもなる忠誠心

本多忠勝

本多忠勝

徳川家康が今川氏から独立すると本多忠勝も家康と共に岡崎城へ入り、それ以降も常に家康の側に居を構え数々の合戦に出て活躍します。織田信長・家康連合軍と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)・「浅井長政」(あざいながまさ)連合軍が激突した「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)では、朝倉軍の中でも腕の立つ「真柄直隆」(まがらなおたか)と一騎打ちを敢行。結果は引き分けとなったものの、その剛勇ぶりは忠勝の名を広めることになりました。豪傑同士の戦いは見事なものであったと伝わっているのです。

生涯、傷を負うことなく戦い抜いた忠勝ですが、家康と羽柴秀吉が覇権争いをした小牧・長久手の戦いでは、無傷だったことが信じがたい行動に出ています。この戦いは最終的には家康が勝ち、その上で秀吉と和睦という決着を迎えますが、戦況が常に家康の優勢だった訳ではありません。忠勝は家康から小牧での留守を任されていましたが、秀吉側の16万の大軍を前に家康が苦戦していると知り、体勢を整えようとする家康のために少しでも時間を稼ごうと、わずか500の手勢で8万もの秀吉軍に挑むのです。

歴戦の強者が自らの命を顧みず、主君のために無理を承知で敵に立ち向かう姿勢に心を打たれたのか、これを知った敵側の秀吉は「あの者にかまうな」と鉄砲ひとつ撃たせなかったと伝わっています。主君への裏切りも当たり前だった戦国の世で忠勝はただ強かっただけではなく、主君・家康に尽くす忠誠心の持ち主として敵味方に関係なく称賛されたのです。

敵側からも「家康の過ぎたるもの」と称賛

徳川家康に天下を取らせるため猛然と働いてきた本多忠勝。しかし、関ヶ原の戦いのあと家康に逆らった行動を取っています。忠勝の娘婿である「真田信幸/信之」(さなだのぶゆき)は、関ヶ原の戦いで舅・忠勝と共に東軍にいましたが、信幸の父「真田昌幸」(さなだまさゆき)と信幸の弟「真田幸村」(さなだゆきむら)は西軍側でした。家康にとって昌幸は、2度にわたって起こった「上田合戦」(うえだかっせん)にて打ち負かされたことのある宿敵です。

さらに、かつて家康の援助で建てた「上田城」を我が物とされ、その城で徳川秀忠も手を焼くことに。「上田攻めを中止せよ」と家康から書状が出されるも悪天候で時間がかかり、秀忠は関ヶ原の主戦場へ遅れて到着。家康・秀忠そろっての圧勝が理想だった家康は、いよいよ昌幸が憎らしくて死罪を考えたかもしれません。

ところが、その昌幸と信繁について、忠勝と信幸が家康に助命を嘆願したのです。長年、側に仕える忠勝から憎き宿敵の助命をお願いされた家康の心中は、さぞ複雑だったはず。しかし、忠勝と信幸からの一世一代の願いに命だけは助けようと家康も折れて、昌幸と信繁に生涯にわたる高野山(こうやさん)での蟄居(ちっきょ:武士に科された刑罰のひとつで、自宅などに閉じ込めて謹慎させること)を命じました。

家康は、かつて「武田信玄」(たけだしんげん)と戦った際に大敗しています。しかし、このとき武田側の武将「小杉左近」(こすぎさこん)から「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭(からのかしら)に本多平八」と称賛を受けていました。これは「珍しい兜と本多忠勝は、家康にはもったいない」という意味であり、家康と共に負けたにもかかわらず忠勝は能力の高い人物として評価されたのです。命がけで主君のために働き、身内のためには主君に逆らって助命嘆願もした忠勝の情の厚さと器の大きさを感じさせる言葉です。忠勝の甲冑は本多家のもとで大切に保管され、現在も本多家に収蔵・管理されています。

井伊の赤備えのルーツ、井伊直政の甲冑

徳川四天王・井伊の赤鬼と呼ばれた武将

朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足

朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足

徳川家康を終生の主君とし、戦場を駆け抜けた「井伊直政」(いいなおまさ)は、「徳川四天王」と称される筆頭格のひとりであり、赤備えを率いて「井伊の赤鬼」と恐れられた人物です。

その直政が身に付けた代表的な甲冑が、「朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足」(しゅうるしぬりこんいとおどしおけがわにまいどうぐそく)。燃え上がるような朱色、そして5枚の鉄板を合わせた「頭形兜」(ずなりかぶと)から伸びる金箔押の「大天衝脇立」(おおてんつきわきだて)が目を引きます。

この金色に輝く大天衝脇立は、初代・直政が着用後、代々当主のみに許された物。井伊家の兜は身分によって前立が異なり、当主は金の大天衝脇立、直臣(じきしん:主君直属の家臣)は金の天衝前立、陪臣(ばいしん:家臣の家臣、または家来のこと)は銀の天衝前立だとされています。

また、この具足は初代・直政の物と伝わっていますが、古文書によると2代目藩主・直孝(なおたか)所用の可能性もあると推測されています。

滅亡寸前の一族が復活するまで

1560年(永禄3年)、今川義元が織田信長に破れた桶狭間の戦いで、今川氏の家臣であった井伊家の当主「井伊直盛」(いいなおもり)が戦死しました。跡目を継いだのは井伊直政の父親である「井伊直親」(いいなおちか)です。

井伊直政

井伊直政

しかし、この直親も直政(幼名:虎松[とらまつ])が生まれた翌年に謀反の疑いをかけられ、誅殺されてしまいます。息子である虎松も命を狙われ、井伊家は一家滅亡の危機に。そんな中、直盛の娘「次郎法師」(じろうほうし)が「井伊直虎」(いいなおとら)と名乗り、井伊家の女当主となりました。直虎は幼い虎松を出家させて寺に匿い、彼の成長に井伊家の存続を賭けたのです。

そして虎松が15歳となったとき鷹狩りをする徳川家康と出会い、名を「井伊万千代」(いいまんちよ)と改め家康の小姓となります。このとき、家康は容顔美麗(ようがんびれい)の虎松をひと目見て「その大器を感じた」という逸話もあるそうです。

翌年、万千代は芝原の戦いで初陣を飾り、家康を襲った間者を討ち取る活躍をして3,000石を拝領します。そして22歳のとき、女城主・直虎が死去すると井伊家当主・井伊直政として家督を継承しました。同じ頃、織田信長軍の侵攻により武田氏が滅亡。

その3ヵ月後、本能寺の変で信長が亡くなると、家康は旧武田領の甲斐・信濃を勢力下に入れることに成功します。これにより武田家の旧臣の多くが直政の直属として与えられ、武田軍の兵法と朱色の軍装を継承することになるのです。

井伊直政の「井伊の赤備え」がお披露目されたのは、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでした。小柄な体で少年のような顔立ちの直政ですが、鬼の角を思わせる脇立をあしらった兜を被り、大勢の敵を物ともせず長槍を持って突き進んで行く姿から「井伊の赤鬼」との異名で、他の武将たちから恐れられるようになったのです。

武力だけではない、認められた政治手腕

井伊直政は数々の武功を挙げ、異例とも言えるスピードで出世をしていきます。ところが、三河譜代の家臣から見れば新参者である直政は嫉妬の対象に。だからこそ直政は、実直に徳川家康に奉公をして、自分に、そして部下にも厳しく律しました。

6万石を加増され12万石の上州箕輪城(じょうしゅうみのわじょう)主を任されると、その責任感からか部下の些細なミスも許さず手討ちにすることも。そんな直政は「人斬り兵部」(ひときりひょうぶ)と恐れられていたのです。

しかし、その政治センスは確かな物であったため、箕輪城下の領民には慕われていたと言われています。

朱漆塗仏二枚胴具足

朱漆塗仏二枚胴具足

天下分け目と言われる関ヶ原の戦いでは、東軍指揮の中心的な存在となり直政の働きかけにより、多くの大名を東軍に取り込む外交手腕も発揮します。しかし、戦闘では島津軍を追撃した際に被弾してしまいました。その際、身に付けていた甲冑は「朱漆塗仏二枚胴具足」(しゅうるしぬりほとけにまいどうぐそく)。

頭形兜には立物はなく袖と籠手が一体となっている実戦向けの仕様でした。直政を襲った銃弾は鎧の右脇にあたって跳ね返り左腕に命中、その痛手に槍を落とし落馬、大怪我を負ったのです。

関ヶ原の戦いのあと直政は被弾した負傷が癒えぬまま、戦後処理に奔走します。その活躍ぶりは敵であった西軍総大将「毛利輝元」(もうりてるもと)との講和の交渉役を務め、その取り成しに輝元から感謝をされるほどでした。

しかし、その激務による過労も関係したのか関ヶ原の傷が悪化し敗血症を患ってしまいます。そして直政は臨終に際し、老中にこんな遺言をしたのです。「井伊家があるのは徳川家のおかげだということを忘れてはならぬ。ご奉公第一、忠節第一を心がけよ」と。

直政が井伊の赤鬼や人斬り兵部と恐れられたのは、自分にも部下にも厳しく律して生きてきたからこそ。徳川幕府を開くいちばんの功労者と言われ、家康に忠義を尽くした井伊直政は42歳の生涯を終えることになりました。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①

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