甲冑(鎧兜)を知る
女性と甲冑
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「日本刀」(刀剣)を愛する女性を表す「刀剣女子」という言葉はすっかり定着し、現在では、その甲冑版とも言うべき「甲冑女子」という言葉も生まれているほど、甲冑も身近になりました。甲冑の一般的なイメージは、屈強な武将が戦場で身にまとっている戦闘服といったところでしょうか。つまり男性の物というイメージ。 しかし、愛媛県にある「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)の宝物殿には、女性用の甲冑だと伝えられている1領が収蔵・展示されています。それが、国指定重要文化財の「紺糸裾素懸威胴丸」(こんいとすそすがけおどしどうまる)。 ここでは、甲冑と女性にまつわる話をご紹介します。

鶴姫伝説を裏付ける!?甲冑

紺糸裾素懸威胴丸

紺糸裾素懸威胴丸

1526年(大永6年)、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の大宮司「大祝安用」(おおほうりやすもち)の娘として生まれたと言われている「鶴姫」は、父の意向もあり「大祝安舎」(おおほうりやすおく)、「大祝安房」(おおほうりやすふさ)の兄2人と共に、幼少時から武術や兵法などの手ほどきを受けました。

長兄・安舎が大宮司となったことで戦場に赴くことができなくなり、代わって出陣した次兄・安房が討ち死にに。

これを受け、鶴姫が「陣代」(じんだい:主[あるじ]に代わって戦場に赴く者)となり、当時「周防国」(現在の山口県)を支配していた大内氏からの侵攻を撃退するなどの武功を挙げたのです。

その後も鶴姫は奮闘し、大内氏の侵攻から大三島を守り抜きましたが、その戦いにおいて、恋人「越智安成」(おちやすなり)を失います。失意の鶴姫は、戦いが終わったあと、入水自殺の道を選びました。享年18歳。そのときに残したと言われている辞世の句は、「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」。その意味は、「私の恋は、まるで三島の浜辺にある空っぽの貝のようです。虚しくて、あなたの名前を思い浮かべるだけで、とてもつらいのです」という物です。

鶴姫に関しては実在していなかったという説もありますが、大山祇神社に伝わる紺糸裾素懸威胴丸の存在から、鶴姫伝説に思いを馳せることもできます。

甲冑と性別

大山祇神社所蔵の紺糸裾素懸威胴丸については、女性用ではないという説があります。すなわち、胴丸の全盛期においては、動きやすさを追求し、甲冑師は様々な工夫を施しており、その結果として、腰の部分が絞られ胸部が大きく膨らんだ形状の物が制作されたとしても、不思議ではないという説です。この説が正しければ、甲冑は男女兼用、もしくは男性専用の物であるということになります。

神功皇后

神功皇后

そもそも「日本式甲冑」のはしりである「大鎧」(おおよろい)については、大きな箱の中に体を入れるようにして着る物であったため、男女間の体型差はそれほど問題にはならなかったと考えられています。

古代においては、こんな逸話が残っています。「神功皇后」(じんぐうこうごう)は、「応神天皇」(おうじんてんのう)を懐妊していましたが、「三韓征伐」(さんかんせいばつ:神功皇后が新羅出兵を行なって、朝鮮半島を広域的に服属下に置いたと伝えられている戦争)では、「小桜韋威鎧」(こざくらかわおどしよろい=楯無鎧[たてなしのよろい])をまとって先頭に立って臨場。

そして、凱旋後に応神天皇を出産したという物です。この逸話の真否は不明ですが、この大鎧は、のちに武田家の家督の証として伝えられたことや、「武田勝頼」(たけだかつより)が、嫡男・信勝に、この大鎧を着用させて元服を済ませたあとに親子で自刃していることから、男性用・女性用の別はなかったと考えるのが妥当なのかもしれません。

上述した胴丸に施された工夫についても、徒立戦(かちだちせん:歩兵中心の戦い)が主流となっていたことを受け、腰の部分を絞ることで、胴の重量を肩だけでなく腰の部分でも支えて、一般兵が長時間の着用に耐えられるようにしていたと言われています。

また、胸部のふくらみについても、呼吸を楽にしたいという狙いがあったという説が唱えられました。そのため、紺糸裾素懸威胴丸について、必ずしも女性用として制作された訳ではないと言うことも可能なのです。

もっとも、女性が何を身にまとって戦場に臨んだかということと、女性用の甲冑が存在したか否かについては、直接的な関連性がないとも言えます。女性が身にまとっていた甲冑が男性用(または男女兼用)であることが、女性用の甲冑が存在しなかったことにつながっているとまでは言い切れないのです。

女城主と呼ばれた武将

井伊直虎

井伊直虎

井伊直虎」(いいなおとら)という名前を聞いたとき、皆さんは、どんなことを連想されるでしょうか。女城主。大抵の人はこう答えるでしょう。大河ドラマの題材となったことでも知られている直虎は、実は女性でした。それを裏付けるように、江戸時代に著された「井伊家伝記」という井伊家の家伝書では、「井伊直盛」(いいなおもり)の娘である「次郎法師」(じろうほうし)が、女性ながら井伊家の当主となった旨の記載があります。その次郎法師こそが直虎に該当するというのが通説です。

直虎の生年は明らかではありませんが、父・直盛に男子がいなかったことから、当初は直盛の従兄弟「井伊直親」(いいなおちか)を婿養子として迎えることで井伊家を継がせる予定でした。

しかし、直親の父・直満が「今川義元」(いまがわよしもと)への謀反の疑いをかけられ自害。直親は信濃に逃亡し、妻を娶ったことで婿養子計画は白紙に。直盛が「桶狭間の戦い」で戦死したことを受けて、直親がその跡を継ぎましたが、謀略によって落命。井伊家は存続の危機に立たされましたが、出家していた直虎が還俗して当主となることで、家を存続させたのです。

時は戦国時代。井伊家の女性当主・直虎にも、有事(戦)に備えるための甲冑がありました。それが「紺糸威本小札胴丸」(こんいとおどしほんこざねどうまる)。京都府にある「井伊美術館」に所蔵されているこの胴丸は、直虎が護持(ごじ:しっかりと守って保つこと)し、所用した1領だと伝えられています。

上述した紺糸裾素懸威胴丸と比べると、腰部、胸部共に特徴的なところは見られない形状。もっとも、この胴丸については、直虎のために作られた物ではなく「井伊直平」(いいなおひら)以来の遺品だと言われており、女性用の甲冑であるとは言えませんが、この紺糸威本小札胴丸が女性用でないことをもって、女性用甲冑がなかったとも言えないのも事実です。

大鎧を身にまとって戦った!?巴御前

巴御前

巴御前

戦場で活躍した女性として、真っ先に名前が挙がると思われるのが「巴御前」(ともえごぜん)です。

平安時代末期「木曾義仲」(きそよしなか:源義仲)と共に、馬に乗って戦場を駆け、「薙刀」(なぎなた)と弓で敵を討ち取ったと言われています。本来、女性が戦場に出て戦うことがほとんどなかった時代に、武功を挙げたとされる巴御前とは、一体どのような女性だったのでしょうか。

巴御前の出生年は不明です。軍記物の「平家物語」において、義仲が最期を迎える場面に登場しますが、それ以外の詳細については分かっていません。幼少時から義仲と共に育ったと言われ、武芸にも秀でていたことから、側近として戦場に召されたと言われています。

当時の甲信越地方においては、女性であっても本格的な戦闘訓練を受けていた例があることから、信濃出身とされる巴御前が戦闘訓練を受けていた可能性があり、戦場においてその成果を発揮していた可能性があるのです。

巴御前が、どのような甲冑を身に着けていたかについては不明ですが、平安時代末期における戦い方の主流が馬に乗って1対1で戦う「騎射戦」(きしゃせん)であったことから、大鎧であったと考えるのが妥当。なお、身幅が広く、反りの大きな薙刀を「巴薙刀」(ともえなぎなた)と呼びますが、これは巴御前に由来する物です。

現時点では、女性用の甲冑が制作されていたか否かについては不明です。しかし、男の世界である戦場において、活躍した女性がいたことは事実。甲冑を通して、そこで活躍する女性の姿に思いを馳せることも、甲冑を鑑賞する上での醍醐味だと言えます。

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