甲冑(鎧兜)と武将

戦国武将と兜

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兜は頭部を守る防具としての役割の他、武将の威厳や地位を表す物として使用されました。特に個性的で目立つ兜を「変わり兜」と言い、数多くの戦国武将が自らの宗教観や人生観を反映させたと言われています。歴史に名を残す戦国武将から「上杉謙信」、「山中幸盛」、「豊臣秀吉」、「蒲生氏郷」、「黒田官兵衛」、「佐竹義重」が愛用した兜について、人物像と共にご紹介しましょう。

甲冑(鎧兜)写真/画像甲冑(鎧兜)写真/画像
歴史的に価値の高い甲冑(鎧兜)や面頬などを名前や種類から検索することができます。

義を重んじた、上杉謙信の兜

飯綱権現への深い信仰を表した上杉謙信の兜

上杉謙信の甲冑

上杉謙信の甲冑

戦国時代、群雄割拠の中で越後を平定し、川中島における武田信玄との一騎打ちが有名な上杉謙信(うえすぎけんしん)。その上杉謙信が身に付けていた甲冑は、「飯綱権現前立兜付色々縅腹巻」(いづなごんげんまえだてかぶとつきいろいろおどしはらまき)です。

関東・東国型の兜に、伝統的な室町風の「糸毛腹巻」の構成は上杉謙信独自のスタイルで、のちに上杉家の武将に受け継がれました。

飯綱権現前立兜付色々縅腹巻は、上杉謙信が最も好んだ兜で、前立には白狐に乗った「飯綱権現」(いづなごんげん:神仏習合の神)の立体的な飾りが取り付けられているのが特徴です。

「二重」(にじゅうしころ:兜の左右・後方に下げて首筋を守るように覆った物)があり、革伊予札(かわいよざね)の三段笠錣(さんだんかさしころ)と鉄伊予札(てついよざね)の下散内錣(げさんないしころ)で構成されています。

また、には、紫・藍・紅と3色の糸が縅され、左右の広袖にも胴と同じ色糸を使用。上品な出で立ちから戦陣より主に軍議などに用いられた物だと言われています。

上杉謙信は、この飯綱権現を深く信仰。飯綱権現は長野県にある飯縄山(飯綱山)の山岳信仰が発祥とされる物で、戦勝の神として室町幕府の第3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の頃から信仰され、上杉謙信の宿敵である武田信玄も信仰していたとされています。その象徴は、白狐に烏天狗が乗った姿で、上杉謙信も自らの兜にその姿を象り、信仰心を示していました。

上杉謙信が飯綱権現に傾倒した理由として、川中島へ出陣する途中に度々飯縄山麓を通ったことで、そこに祀られている飯綱権現に合戦の勝利や領民の安泰を祈願したからであろうと考えられています。

上杉謙信と城
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毘沙門天への信仰と飯綱権現との関係

上杉謙信

上杉謙信

上杉謙信は飯綱権現だけではなく、特に「毘沙門天」(びしゃもんてん)への信仰が厚いことでも有名。上杉謙信自ら毘沙門天の生まれ変わりと信じていたことが伝えられています。

毘沙門天は仏教の「四天王」の一尊で、北方の守護神として難を避けて福をもたらすことから「七福神」のひとりにも数えられているのです。

また戦の神としても信仰され、上杉謙信が14歳のときに初陣を勝利で飾って以来、高い戦績を誇っていたことも信仰心を厚くした理由のひとつ。上杉謙信は居城の春日山城内に毘沙門天を安置した毘沙門堂を建て、出陣の際には熱心に勝利を祈願したとされ、また本陣の旗印に「毘」の文字を使ったことでも知られています。

他国の武将も一目置いた軍神

上杉謙信は、元々越後国の守護代である「長尾家」の末男として生まれました。幼名は「虎千代」(とらちよ)。14歳で元服したときに「景虎」(かげとら)と改名し、栃尾(とちお)城主となりました。

19歳のときには、兄「晴景」(はるかげ)の養子となり、長尾家を受け継いで春日山城主に。22歳の頃には「武田晴信」(のちの武田信玄)と川中島の戦いでの1戦目を繰り広げています。

27歳の頃に越後を統一すると、後北条氏を討つために関東に侵攻して数々の城を攻略。後北条氏の居城である小田原城を包囲する際には多くの軍勢が加わり、10万もの大軍にまで膨らんでいました。

33歳の頃には、上杉家と関東管領職を相続したのを機に「上杉政虎」(うえすぎまさとら)に改名。この年には18,000人の軍勢を率いて川中島の戦い4戦目で武田信玄と対峙しており、武田側に大きな打撃を与えたとして歴史に刻まれています。

41歳のときに上杉謙信を名乗り、越中国を制圧。「柴田勝家」(しばたかついえ)を総大将とする織田勢を撃破するなど、輝かしい戦績を残しています。その強さは「越後の虎」、「越後の龍」とも呼ばれ、戦略家としても優れていたことから「軍神」として、他国の武将からも一目置かれるほどの存在でした。

熱心な信仰心から武具や軍旗など身近な物に神を崇める気持ちを込めた上杉謙信。そのことが、武将として神の域まで達した理由のひとつであるかもしれません。

名は体を表す山中幸盛の兜

改名の由縁となった先祖代々の兜

山中幸盛の甲冑

山中幸盛の甲冑

山中幸盛(やまなかゆきもり)は「鹿介」(しかのすけ)の通称で有名な人物。「山陰の麒麟児」の異名を取った数々の武勇伝があります。

名前の由来となったのが、山中家に代々に伝わる兜。この兜には「三日月」の前立と「鹿角」の脇立が付いており、勇壮な雰囲気を醸し出しています。山中幸盛は次男で、本来なら兄「山中幸高」(やまなかゆきたか)が山中家を継ぐはずでした。しかし、病弱で武将としての資質がないことから、山中幸高自ら山中幸盛に家督を譲ったとされています。鹿角が付いた兜は現存していませんが、月山富田城跡に建つ銅像にその姿を観ることができます。

現存する山中幸盛の兜は「鉄錆十二間筋兜」(てつさびじゅうにけんすじかぶと)。筋兜は南北朝から室町時代に用いられた形式で、細長い鉄板を重ねた物を叩き、その重ね筋を特徴とします。また、筋が12あることから十二間と付けられました。前立として山中幸盛が信仰した三日月を表した鍬形(くわがた)が取り付けられており、簡素ながらも実践向きの武具と言えます。

三日月への信仰と誓いが数々の武勇伝を呼ぶ

山中幸盛は、安土桃山時代に出雲国を拠点とした「尼子氏」(あまごし)の家臣の家に生まれました。山中幸盛が誕生した頃は、「毛利氏」(もうりし)が勢力を伸ばし、尼子氏の領地にも侵攻してくるようになっており、尼子氏は衰退しつつあったのです。その状況を苦々しく思った山中幸盛は、毛利氏との戦いに生涯を捧げることを誓います。

戦国時代には、多くの武将が加護を求めて太陽や月を信仰。山中幸盛も例外でなく、再生の象徴とされる三日月を信仰しました。

その理由として、16歳のあるとき三日月の前立がある兜にちなんで、「今日から30日以内に武勇の誉れを挙げられますように」と、夜空に浮かぶ三日月に祈願したところ、数日後に「山名氏」の名だたる武将を討ち取ることができたから、とされています。

また、自身を鍛錬しようと三日月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は有名です。このように自分自身を鼓舞して戦いに情熱を傾けた結果、「尼子十勇士」のひとりに数えられ、その名を馳せるまでになりました。

しかし、1566年(永禄9年)に毛利氏に降伏。当主の「尼子義久」(あまごよしひさ)らは、安芸国に幽閉されてしまいます。それでも山中幸盛は諦めず、尼子氏の再興を図るために織田信長と手を結び、各地を転戦するなどして毛利勢と戦い続けました。けれども「吉川元春」(きっかわもとはる)ら毛利の大軍に包囲され力尽きてしまうのです。

山中幸盛の最期を見守った兜が敵方の家宝に

山中幸盛と毛利軍の吉川氏は何度も戦いを繰り返しており、吉川元春も山中幸盛の勇猛さを承知していました。そのため降伏した山中幸盛に毛利氏の家臣になることと、周防国に3,000石の領地を与える約束をしたとされています。

しかし、山中幸盛は毛利氏によって護送中に殺害されてしまうのです。吉川元春はこの計画を知らず、山中幸盛の殺害を知らされたときは「尼子家の忠臣なれば、この品永く秘蔵すべし」と言い、山中幸盛が降伏したときに持っていた鉄錆十二間筋兜を家宝にしました。

この兜は代々の吉川家当主に受け継がれていて、山中幸盛の勇姿を物語る武具のひとつとなっています。

派手さと豪華さで自己主張した豊臣秀吉の兜

天下人・豊臣秀吉の勝負強さを感じる兜

亡き主君、織田信長の意志を引き継いで、天下統一を果たした豊臣秀吉は、織田信長生存の時代から多くの戦地で活躍し、機知に富んだ戦いぶりが今でも語り草になっています。

一の谷馬藺兜

一の谷馬藺兜

豊臣秀吉は多くの甲冑を所有していましたが、代表的な物は「一の谷馬藺兜」(いちのたにばりんかぶと)。朝日が昇る様子をイメージして作られたとも言われていますが、兜から伸びた29本の後立は、花の菖蒲(しょうぶ)の一種である「馬藺」(ばりん)の葉をモチーフにした物であり、複数本用いることで威厳を示しているのです。

菖蒲は「勝負」と読み方が同じであることから戦いの縁起物とされており、豊臣秀吉の勝ちへのこだわりが形になった物と言えます。

この兜は、豊臣秀吉が蒲生氏郷の家臣「志賀(西村)重就」(しが[にしむら]しげなり)の九州攻めにおける功績を讃えて下賜。現在は東京国立博物館に所蔵されています。

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派手好きの豊臣秀吉らしさを窺うことのできる具足

一の谷馬藺兜の他にも、豊臣秀吉所用と伝わる甲冑があります。それは、重要文化財の「銀伊予札白糸威胴丸具足」(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)で、こちらも兜が目を引くデザインです。兜の鉢に熊毛を施し、金箔押しの軍配団扇を兜の前と後ろに付けています。

また、胴と草摺は、革札の矢筈頭(やはずがしら)に銀箔を押して白糸で仕立てられた豪華な物。この具足は豊臣秀吉が東北へ赴いたときに、伊達政宗に下賜したとされています。

また豊臣秀吉は、正室「ねね」(おね:通称は北政所)との養子「木下利次」(きのしたとしつぐ)にも、「色々威二枚胴具足」(いろいろおどしにまいどうぐそく)を下賜。こちらの兜は、僧侶が被る「帽子」(もうす)を象った形で、後立にヤクの毛で作られた法具の払子(ほっす)が備わり印象的です。甲冑は切付札製の2枚胴形式で、草摺は5段。袖に桐紋(きりもん)、佩楯には沢瀉(おもだか)の紋が銀箔でしつらえられており、シンプルながらも随所に豊臣秀吉ならではの派手さが見受けられます。

強い自己主張はコンプレックスの裏返し

豊臣秀吉がまだ羽柴秀吉として織田信長に仕えた頃「墨俣の一夜城」や「備中高松城の水攻め」などで織田信長の進撃を支えました。ときには奇想天外な作戦で相手を攻め落とすこともあり、次第に織田勢の中で頭角を現していきます。本能寺の変のあとも中国征伐、九州征伐と西国諸国を平定し、豊臣秀吉の力は絶大なものとなるのです。そして「織田信雄」(おだのぶかつ:織田信長の次男)や柴田勝家など、織田軍の実力者達を抑えて関白に任官すると小田原城攻めや「奥州仕置」などを敢行して、諸国武将達の頂点に上りつめました。

その一方で、平安京内裏跡に「聚楽第」を建設し、大坂城も築城するなど権力を誇示。各地の武将を集めて豪華な茶会や花見を開くなど、贅を尽くして労うこともありました。

豊臣秀吉がこのように派手好きで豪華さを好んだ理由として、戦国武将の多くが先祖から代々伝わる由緒正しい家柄だったのに対し、豊臣秀吉は農民出身であったため、そのコンプレックスから出世欲が強く、他の武将より抜きん出ることに闘志を燃やしたと考えられています。

そうした豊臣秀吉の意欲が良く表れていたのが、合戦における装束です。戦国時代になると、甲冑においても武将それぞれの個性が強く表現された物が作られるようになりました。そして、豊臣秀吉もそうした流行を採り入れて、自らの存在をアピールするために甲冑を使用したのです。甲冑だけでなく、陣羽織や小物に至るまで、派手好きの豊臣秀吉らしさが見受けられるような出で立ちで、どこからでも目立つことができる装束を身に付けて戦地に赴いていました。

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織田信長や豊臣秀吉のもとで活躍した猛将、蒲生氏郷の兜

遠目でも蒲生氏郷と分かる変わり兜

蒲生氏郷」(がもううじさと)は、近江国(現在の滋賀県)蒲生郡の日野中野城主である「蒲生賢秀」(がもうかたひで)の嫡男として1556年(弘治2年)に生まれました。これは織田信長の舅である「斎藤道三」が亡くなった年でもあり、尾張や美濃の緊張感が一気に増した頃だとされています。

鯰尾兜

鯰尾兜

蒲生氏郷は常に軍を率いた猛将であり、身に付けていた「鯰尾兜」(なまずおのかぶと)は戦国武将達の間で流行した変わり兜の中でも個性が強く、蒲生氏郷のシンボルとなっています。

左右対称に上へ伸びた2本の尾の部分は「牛革」、鉢の部分は「鉄板」で作られており、全体に「黒漆」が塗られています。

兜の名称には「鯰」(なまず)とありますが、兜の形状としては燕尾形(えんびなり)と考えられており、「燕尾形兜」(えんびなりかぶと)と紹介されることもあります。モチーフになっている燕(つばめ)は、稲につく害虫を食べる大切な存在であり、また燕が巣を作ると家が繁栄すると考えられていました。

蒲生氏郷がこの兜に「蒲生家の繁栄」の願いを込めたのかは定かではありませんが、蒲生家は蒲生氏郷の代に日野6万石から会津42万石を治めるまでになり、蒲生氏郷の活躍が蒲生家の繁栄に繫がったことは間違いありません。

文武に長け織田信長の影響を強く受けた青年時代

蒲生氏郷が生まれたとき、蒲生家は「六角氏」に仕えていました。しかし六角氏が滅亡し、父・蒲生賢秀は織田信長に降伏。蒲生氏郷は13歳のときに織田信長のもとへ人質として差し出されます。のちに蒲生氏郷は、この時期に和歌や連歌、茶の湯や作庭などの知識を習得したと述べており、織田信長のもとで様々な才能を見出されたのです。この頃に儒教や仏教も学んでいますが、西洋好きとしても知られる織田信長の影響なのか、のちに大阪でキリスト教の洗礼を受けて「レオン」と名乗ったとも言われています。

織田信長のもとには、蒲生氏郷の他にも同じ境遇の青少年達が集まり、織田信長は彼らを人質として扱うのではなく、育成したと考えられています。なかでも蒲生氏郷は、将来を見込まれていました。元服(げんぷく)した際には、織田信長から「忠三郎賦秀」(たださぶろうますひで)の名前を授かり、伊勢の大河内城(おおかわちじょう)を攻める戦で蒲生氏郷が初陣を飾ると、その同年に織田信長の次女「冬姫」(ふゆひめ)と結婚。故郷である滋賀県日野町へ戻ることを許されます。このことから、織田信長が蒲生氏郷にどれほど厚い信頼を寄せていたかが伺えます。

また、織田信長は相撲好きとしても有名で、家臣によく相撲を取らせていました。織田信長と同じく蒲生氏郷も家臣達とよく相撲を取って親睦を深めていたようです。再仕官を許した家臣との相撲で、全力で向かってきた家臣に蒲生氏郷が負けたときにも、手加減せず真剣に挑んだ家臣の心を評価して知行を加増したという逸話が残されています。

織田信長の義理の息子となり、多くの戦で活躍した蒲生氏郷。「本能寺の変」により織田信長が亡くなった際には、蒲生家が守る日野城へやってきた光秀を拒否して籠城を貫きました。舅としての関係以上に蒲生氏郷もまた、織田信長に厚い信頼を寄せていたのかもしれません。

豊臣秀吉に仕えた蒲生家の繁栄と断絶

織田信長が亡くなったあと、羽柴秀吉と徳川家康が争った小牧・長久手の戦いでは、蒲生氏郷は豊臣側として奮戦。美濃加賀野井城を攻める戦いの武功により12万石に加増され、伊勢・松ヶ島へと移りました。さらに小田原征伐に従軍し、会津へと転封され42万石を与えられます。蒲生氏郷を会津に移らせたのは、出羽・陸奥の伊達政宗に睨みをきかせるためです。一説に、蒲生氏郷は伊達政宗に毒を盛られたこともあり、犬猿の仲だったと言われています。

日野の6万石から伊勢・松ヶ島の12万石、さらに会津の42万石を治めるまで家を繁栄させた蒲生氏郷。しかし、豊臣秀吉による朝鮮出兵の参戦中に体調を崩したことがきっかけで40歳の若さで亡くなってしまいます。

蒲生氏郷の死後、子や孫の代には「蒲生騒動」と呼ばれる家中の争いが起こり、残念ながら蒲生家は断絶。そのせいか、蒲生氏郷が身に付けたとされる胴や小具足などは後世に想像で作られた物しかありません。

ただし、蒲生氏郷の兜は蒲生氏郷の養妹である「於武」(おたけ)が「南部利直」(なんぶとしなお)に嫁ぐ際、蒲生氏郷が自身の兜を引出物として持たせたため、盛岡南部家伝来の物が残されています。お家の繁栄を願った燕の兜は南部家に伝わり、南部家は繁栄。皮肉にも蒲生家とは別の運命をたどったことで残されており、蒲生氏郷や子孫達の無念が伝わるようです。

軍師として戦国の世で異彩を放った黒田官兵衛の兜

シンプルな形に多くの意味を感じる、黒田家伝来の兜

黒田官兵衛は、豊臣秀吉の名参謀として豊臣秀吉の出世や天下取りを支えた武将です。本名は「黒田孝高」(くろだよしたか)ですが、一般的には黒田官兵衛または「黒田如水」(くろだじょすい)として知られており、戦略や外交などを担う「軍師」として辣腕(らつわん)を発揮しました。

銀白檀塗合子形兜

銀白檀塗合子形兜

黒田官兵衛が身に付けたとされるのは「銀白檀塗合子形兜」(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)。「合子」とは蓋が付いた朱塗りの椀のことで、椀をひっくり返したような鉄張りの鉢に、銀箔の上に薄く透かしたように漆をかけているのが特徴です。

この兜は黒田家伝来の物とされており、前立や後立などの装飾がないシンプルなデザインですが、装飾した兜が多い戦国時代の中では、かえって目立ったと言えます。

「合」は、あわせる・むすぶ・あつまるなどの意味から、軍としてのまとまりを表現。また、椀は食べ物を盛る器であることから、石高(こくだか)へのこだわり、すなわち国力への執着の強さを表していたともされています。この他にも椀で「敵を飲み干す」という意味があったとも考えられており、シンプルな形ながらも様々な意味や想いが推察できるのです。

戦略家・築城の名手として豊臣秀吉の天下取りをサポート

黒田官兵衛は、1546年(天文15年)に小寺家の家老職である「黒田職隆」(くろだもとたか)の子として播磨国(現在の兵庫県)姫路で誕生しました。14歳で実母を亡くしますが、それを忘れるかのように勉学に励みます。16歳で初陣を飾ると、21歳のときには家督と家老職を継ぎ姫路城代となりました。

やがて播磨国は勢力を拡大してきた織田信長と、山陰・山陽で勢力を伸ばす「毛利輝元」(もうりてるもと)の2大軍勢に挟まれてしまいます。主君の「小寺政職」(こでらまさとも)がどちらにつくべきか迷う中で、黒田官兵衛は織田信長が長篠の合戦で武田勝頼を破ったことを評価し、織田信長につくよう進言。そして織田信長のもとで豊臣秀吉と出会い、豊臣秀吉も黒田官兵衛の武勇や知性を評価したため、豊臣秀吉の参謀役として行動を共にすることになりました。各地で勢力争いが繰り広げられる中、黒田官兵衛は調略を果たすなど、知恵を絞って難関を突破していきます。

ところが、1578年(天正6年)には織田信長に謀反を起こした荒木村重を説得するため有岡城に出向いた際、城内へ幽閉されることに。そして、幽閉のことを知らない織田信長や豊臣秀吉は「裏切り」と勘違いしますが、幽閉から約10ヵ月後に有岡城が落城して黒田官兵衛が発見されると、豊臣秀吉達は相手の言葉に乗らずに忠義を尽くした黒田官兵衛を高く評価しました。

さらに、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれると、中国征伐に向かっていた豊臣秀吉に対して、毛利輝元と和睦して明智光秀を討つように進言し、豊臣秀吉は歴史的な「中国大返し」を実現したのです。

九州征伐にも功績を挙げ、豊前国(現在の福岡県東部、大分県北部)を豊臣秀吉から与えられると中津城を築城して城主となります。中津城以外にも広島城姫路城、大坂城などの主要な城の築城にもかかわり、黒田官兵衛は軍略だけでなく築城にも手腕を発揮しました。

豊臣秀吉亡きあと、一線から退き家督を長男の「黒田長政」(くろだながまさ)に譲りますが、関ヶ原の戦いでは徳川家康側の東軍に付き、九州で西軍の「大友義統」(おおともよしむね)軍との戦いに勝利しています。

荘厳堅牢、武家文化を象徴する日本の城(城郭)。
「白鷺城」の愛称で親しまれる世界遺産・姫路城を検太郎が訪ねます。

お家騒動に関与した黒田官兵衛の兜

いくつもの戦いを乗り越えてきた黒田官兵衛。世が治まると関ヶ原の戦いで黒田長政が得た筑前国(現在の福岡県西部)の「福岡城」で余生を過ごします。そして死を前にした黒田官兵衛は、筆頭家老「栗山利安」(くりやまとしやす)に愛用の銀白檀塗合子形兜を渡し、黒田長政の支えとなることを託しました。

江戸時代になると、黒田長政の子「黒田忠之」(くろだただゆき)は家老で栗山利安の子「栗山大膳」(くりやまだいぜん)を疎ましく思い、殺害を計画することになります。これを知った栗山大膳は幕府に「忠之に謀反の志あり」と訴え、幕府はすぐに調査に出向きました。

そんなある日、黒田忠之が「法要の際にかつて祖父が渡した兜を黒田家の家宝として、父や祖父の霊前に飾りたい」と栗山大膳に兜の返却を求めました。栗山大膳はもっともなことと、兜を黒田忠之に返却。黒田忠之は家臣の「倉八十太夫」(くらはちじゅうだゆう)に下賜してしまいました。激怒した栗山大膳は黒田忠之に申し立てますが、黒田忠之はこれを無視。そこで栗山大膳は、倉八十太夫の屋敷に乗り込んで直接奪い返したのです。

幕府の調査の結果、黒田忠之に謀反の疑いはないとされ、栗山大膳は東北南部家の預かりとなってしまいます。南部家に赴く際、栗山大膳は黒田官兵衛が愛用した兜を持参したので、遠く離れた東北の地で黒田家伝来の兜が守られるようになりました。そのあと、黒田忠之の長男である3代福岡藩主「黒田光之」(くろだみつゆき)は、黒田官兵衛をしのんで兜の複製「朱漆塗合子形兜」(しゅうるしぬりごうすなりかぶと)を作らせており、「福岡市博物館」では黒田官兵衛の胴や小具足と共に、黒田光之の代に複製された兜が収蔵されています。

これが戦国の強さの象徴!佐竹義重の兜

黒一色のコーディネイトに毛虫の前立がユニーク

黒漆塗紺糸縅具足

黒漆塗紺糸縅具足

戦国時代から江戸時代初期に活躍した「佐竹義重」(さたけよししげ)は、常陸国(現在の茨城県)に佐竹氏全盛期の礎を築いた武将で、小田原「後北条氏」と関東の覇権争いをしたことでも知られています。その佐竹義重が戦陣で身に付けたのが「黒漆塗紺糸縅具足」(くろうるしぬりこんいとおどしぐそく)です。

頭から下肢まで黒塗でトータルコーディネイトされ、相手に威圧感を与える甲冑(鎧兜)。なかでも大きな特徴は兜でしょう。毛虫の形をした前立に、後方に吹き流すように付けられた鳥毛の脇立は、ユニークながらもアピール度は抜群です。

前立てに毛虫を用いた理由として、佐竹氏が清和源氏の流れを汲むことから「げんじ」をもじって「けむし」にした説と、「毛虫は決して後ろに退かない」性質を信念としたからという説があります。この毛虫型の前立は、長男の「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)にも引き継がれて、佐竹家のトレードマークとなりました。

後北条氏と伊達氏に挟まれ、戦闘を送る日々

常陸国で生まれた佐竹義重は、父の死後、18代当主となってから頭角を現します。越後の「上杉謙信」と連携して「小田氏治」や「白河義親」らを討ち破り、北関東の有力武将として勢力を加速させていきました。この頃、急激に力を強めてきた相模国の後北条氏が領地を拡大しており、佐竹氏は関東の覇権を巡って後北条氏と争うことになります。さらに北方では「伊達氏」が勢いを増し、後北条・伊達の2大勢力に挟まれた佐竹義重は、次第に窮地に立たされてしまいます。

しかし、豊臣秀吉の「小田原城攻め」が始まると、佐竹義重は長男の佐竹義宣と共に参戦。「石田三成」率いる忍城攻めに加わり、そのときの武功が認められて常陸国の支配権を握ると、一気に形勢を逆転させました。豊臣秀吉の死後、徳川家康が勢力を拡大していくと、関ヶ原の戦いでは東軍と西軍どちらにつくかで佐竹義重・佐竹義宣の父子が対立。結局どちらにもつかないまま合戦は決着が付き、合戦後にはその優柔不断な態度を咎められ、出羽国に追いやられてしまいます。そして佐竹義重は、この地で生涯を終えることになるのです。

激しい気性でありながら用心深い一面も

佐竹義重は戦場にて、後北条氏の軍勢を相手に見事な剣の腕を見せています。大軍の後北条勢にひるむことなく自ら敵陣に進撃し、あっと言う間に7人の敵を討ち取ったのです。その勇猛果敢ぶりは、「鬼義重」などと呼ばれ、敵方から恐れられました。どんな相手だろうと一歩も引かず、前進していく姿は毛虫にあやかったのかもしれません。

気性が激しく猪突猛進のような佐竹義重ですが、その反面、必要以上の用心深さもかね備えていました。就寝するときは戸口の内側から鍵を掛け、部屋には衝立(ついたて)を幾重にも並べて警戒を強めていたと言われています。内部にも目を光らせて常に用心していたよう。

また、床に就くときも忍びの者からの暗殺を避けるため、毎日場所を変え、敷き布団を引かずに掛け布団のみで寝ていたようで、その徹底ぶりは戦場と同じように「自らの命は自らで守る」ことを日常生活でも実践していたように思われます。

また、家臣にも戦場のときと同じ心掛けを厳しく要求し、不定期で家臣の武具をチェック。手入れが行き届いていた家臣には、褒美を与えたとの逸話も残っています。

戦国武将と兜

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関ヶ原の個性的な甲冑(東軍)

関ヶ原の個性的な甲冑(東軍)
「徳川家康」率いる「東軍」が勝利を収めたのは、徳川家康が見事な采配を振るったのはもちろんのこと、「武官派」としてその名を轟かせた家臣団が付き従っていたことが、その大きな要因でした。ここでは、徳川家康をはじめ、「本多忠勝」、「井伊直政」、「榊原康政」などの家臣団や、「黒田長政」、「福島正則」、「加藤清正」、「細川忠興」、「伊達政宗」、「藤堂高虎」、「加藤嘉明」といった東軍の武将の強さについて、甲冑を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑(東軍)

戦国武将と甲冑

戦国武将と甲冑
甲冑とは、胴体を守る鎧と頭部を守る兜からなる防具のことで、古くは弥生時代から用いられたとされています。そして時代の流れと共に甲冑の形状は変わり、戦国時代では、武将の威厳や地位の高さを誇示する物としても活躍しました。名だたる戦国武将の中から、「武田信玄」、「森可成」、「明智光春」、「前田利家」、「立花宗茂」が愛用した甲冑と特徴について詳しくご紹介します。

戦国武将と甲冑

織田信長と甲冑

織田信長と甲冑
「織田信長」は、宣教師「ルイス・フロイス」によってもたらされた地球儀など、新しい物に興味を示したり、城下町において「楽市楽座」政策を実施したりするなど、既成概念にとらわれず、新しい施策を積極的に取り入れていった人物です。したがって、開化的・進歩的というイメージが定着しています。 また、戦いにおいては「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で組織的な鉄砲部隊を組成するなど、革新的な戦法を編み出したとも言われる人物です(異説あり)。 今回は、織田信長と甲冑にまつわる話をご紹介します。

織田信長と甲冑

豊臣秀吉と甲冑

豊臣秀吉と甲冑
派手好きというイメージが定着している「豊臣秀吉」。豊臣秀吉所用と伝わる甲冑についても、その多くに派手なデザインと色使いが用いられています。 安土・桃山時代は、意匠を凝らした甲冑(当世具足:とうせいぐそく)が多数制作された時代でしたが、中でも豊臣秀吉所用とされている甲冑は際立つ存在です。 今回は、豊臣秀吉と甲冑にまつわる話をご紹介します。

豊臣秀吉と甲冑

石田三成の甲冑

石田三成の甲冑
全国の大名の運命を左右した「天下分け目」の合戦である「関ヶ原の戦い」。「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将とし、「石田三成」(いしだみつなり)を中心に結成された西軍は、軍全体の結束力不足や、幾人もの武将による裏切りなどが要因となり、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍に敗れる結果となりました。そんな中でも最後まで豊臣家に忠義を誓い、戦い抜いた武将、石田三成。ここでは、石田三成という武将の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。

石田三成の甲冑

徳川家康と甲冑

徳川家康と甲冑
「徳川家康」は、戦国時代における最後の勝者と言っても良いでしょう。戦国時代という激動の時代を生き抜いた徳川家康にとって、自らの身を守る甲冑は切っても切れない物でした。 若かりし頃から権力をその手に握ったときまで、戦場において徳川家康が運命を共にした甲冑を通してそのときの徳川家康に迫ります。また、徳川家康の兜について、イラストでご紹介しております。

徳川家康と甲冑

直江兼続と兜

直江兼続と兜
「直江兼続」(なおえかねつぐ)と言えば、大河ドラマの主役にもなった有名な武将。その直江兼続の代名詞とも言えるのが、前立に大きな「愛」の文字をあしらった兜です。 安土・桃山時代以降において、兜所用者の哲学や思想を託したとされる立物の中でも、一際目を引く斬新なデザイン。その由来には、大きく分けて3つの説がありました。今回は愛の立物に秘められた直江兼続の「想い」を探ります。

直江兼続と兜

真田幸村の甲冑(真田の赤備え)

真田幸村の甲冑(真田の赤備え)
江戸幕府と豊臣家の間で行なわれた合戦である大坂の陣は、「大坂夏の陣」と「大坂冬の陣」から成ります。その大坂夏の陣において、豊臣側の武将として「徳川家康」(とくがわいえやす)の本陣まで攻め込む活躍を見せた「真田幸村」(さなだゆきむら)。ここでは、真田幸村という武将の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。

真田幸村の甲冑(真田の赤備え)

直江兼続の甲冑

直江兼続の甲冑
米沢藩の初代藩主である上杉景勝を支えた武将「直江兼続」。「関ヶ原の戦い」の敗戦後、米沢城下の整備を徹底的に推進し、現在の城下町米沢の基盤を築きました。ここでは、直江兼続という武将の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。

直江兼続の甲冑

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