甲冑(鎧兜)と武将
戦国武将と甲冑②
甲冑(鎧兜)と武将
戦国武将と甲冑②

文字サイズ

集団の中で目立ち、頭ひとつ抜き出るためには、強い個性が必要でした。それを表現する物こそが、「甲冑」(鎧兜)。特に、前立、脇立、後立という立物に、自分の信条や信念を込め、敵はもちろん味方にも心理的な衝撃を与えたのです。ここでは、その勇猛さで恐れられた「立花宗茂」、「佐竹義重」、「明智光春」、「蒲生氏郷」の変わり兜と人物像について詳しくご紹介します。

メンテナンスにも優れた立花宗茂の甲冑

取り外し・交換可能な立物が特徴の兜

鉄皺革包月輪文最上胴具足

鉄皺革包月輪文最上胴具足

安土桃山時代から江戸時代まで活躍した、筑後国(現在の福岡県)柳川藩主「立花宗茂」(たちばなむねしげ)。

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では西軍「豊臣側」に付き、改易(かいえき:領地没収)となるものの、敵の東軍大将「徳川家康」から実力を認められ、1620年(元和6年)、旧領へ大名として復帰した唯一の武将です。

その宗茂が、数々の戦で用いた武具が「鉄皺革包月輪文最上胴具足」(てつしぼかわつつみがちりんもんもがみどうぐそく)と「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」(いよざねぬいのべくりいろかわつつみほとけまるどうぐそく)。

前者には、胴の中央に朱色で大きな「輪貫の文」(わぬきのもん)が描かれているのが特徴です。大きな胴廻りは宗茂が大柄であったことを示し、地鉄も厚く草摺(くさずり)を含めて12kgと重量感のある仕様となっています。後者は、とてもシンプルな形状で栗色の胴、朱色の草摺、銀色の佩楯(はいだて)と落ち着いた色彩が上品。兜は、どちらも後立に鳥毛、脇立に輪貫を付けており、輪貫は取り外して中央で折り畳むことができるようになっています。

そのため予備が携行でき、戦場で破損しても取り替えることができるのがメリット。激しい戦場で常に自身の存在を示そうとした工夫と言えます。

敵方からも高く評価された忠義と武勇

豊臣秀吉

豊臣秀吉

立花宗茂は、豊後国の戦国大名「大友家」の重臣である「高橋家」に生まれ、15歳のときに「戸次道雪」(べっきどうせつ:立花道雪または戸次鑑連)の養子となり、守護代として立花城を守っていました。翌年には苗字を「立花」とし、18歳で初陣を果たしています。道雪亡きあとは、九州統一を企てる「島津氏」の攻撃を受け、立花城は4万の軍勢に包囲されてしまいます。

しかし宗茂は、主君「大友宗麟」が要請した「豊臣秀吉」による「九州征伐」を信じ、秀吉軍勢の援軍が来るまで、島津軍に家老の「内田入道」を人質に差し出し「城を明け渡すまで数日の猶予が欲しい」と時間を稼ぐ戦略に出たのです。これを聞き入れた島津軍は総攻撃を中止。この戦略は功を奏し、数日後、秀吉の軍勢が近づいていることを知った島津軍は一斉に立花城から撤退します。

それを見た宗茂はすぐに進軍して秀吉の島津攻めに加わり、秀吉の九州平定に尽力しました。その活躍で、秀吉は宗茂を「忠義も武勇も九州随一、九州の逸物」と賞賛。筑後国柳川に新しい領地を与えられ、大友家から離れて立花家として独立します。宗茂が弱冠20歳の頃のことでした。

秀吉の加護を受け、関ヶ原の戦いでは西軍についた宗茂でしたが、敗戦後は柳川に戻り、徳川側の「黒田官兵衛」や「鍋島直茂」、「加藤清正」らを迎え撃つことになります。劣勢を強いられましたが、敵方から「死なせるのは惜しい人物」と評され、官兵衛や清正の強い要請を受けて柳川城を開城。

その後は、改易され浪人として過ごしますが、彼の才を惜しんだ徳川2代将軍「秀忠」から「御側衆」(おそばしゅう)に迎え入れられ、1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」では秀忠の参謀役を務めました。その功績により旧領地であった柳川に戻ることが許され、大名として再び領国を支配するまでになったのです。かつての敵方が大名として徳川に仕え、かつての領地を再び支配したのは異例なことで、あとにも先にも宗茂しかいません。

武芸から文芸まで多才を発揮し、多くの武将を魅了

秀吉をはじめ、官兵衛や清正からも武将としての実力が認められていた、立花宗茂。剣法や弓術にも卓越した技術を持ち、武芸に秀でていました。また、武芸だけでなく和歌や狂言など文芸にも優れた才能を持っており、蹴鞠(けまり)や茶道、香道の知識・技術をも持ち合わせていたと言われています。好奇心が旺盛で柔軟な心を持った宗茂だからこそ、武具にも独自の工夫を施したのでしょう。

また、胴に描いた朱塗りの輪貫の文は、清正がシンボルとしていた「蛇の目紋」と似ていることから、清正との特別な親交が想像できます。多くの才能に恵まれ、名立たる武将達に高い評価を得ていた宗茂は、戦での姿も際立った存在感を発揮していたに違いありません。

これが戦国の強さの象徴!佐竹義重の甲冑

黒一色のコーディネイトに毛虫の前立がユニーク

黒漆塗紺糸縅具足

黒漆塗紺糸縅具足

戦国時代から江戸時代初期に活躍した「佐竹義重」(さたけよししげ)は、常陸国(現在の茨城県)に佐竹氏全盛期の礎を築いた武将で、小田原「後北条氏」と関東の覇権争いをしたことでも知られています。その義重が戦陣で身に付けたのが「黒漆塗紺糸縅具足」(くろうるしぬりこんいとおどしぐそく)です。

頭から下肢まで黒塗でトータルコーディネイトされ、相手に威圧感を与える甲冑(鎧兜)。なかでも大きな特徴は兜でしょう。毛虫の形をした前立に、後方に吹き流すように付けられた鳥毛の脇立は、ユニークながらもアピール度は抜群です。

前立てに毛虫を用いた理由として、佐竹氏が清和源氏の流れを汲むことから「げんじ」をもじって「けむし」にした説と、「毛虫は決して後ろに退かない」性質を信念としたからという説があります。この毛虫型の前立は、長男の「義宣」(よしのぶ)にも引き継がれて、佐竹家のトレードマークとなりました。

後北条氏と伊達氏に挟まれ、戦闘を送る日々

常陸国で生まれた佐竹義重は、父の死後、18代当主となってから頭角を現します。越後の「上杉謙信」と連携して「小田氏治」や「白河義親」らを討ち破り、北関東の有力武将として勢力を加速させていきました。この頃、急激に力を強めてきた相模国の後北条氏が領地を拡大しており、佐竹氏は関東の覇権を巡って後北条氏と争うことになります。さらに北方では「伊達氏」が勢いを増し、後北条・伊達の2大勢力に挟まれた義重は、次第に窮地に立たされてしまいます。

しかし、豊臣秀吉の「小田原城攻め」が始まると、義重は長男の義宣と共に参戦。「石田三成」率いる忍城攻めに加わり、そのときの武功が認められて常陸国の支配権を握ると、一気に形勢を逆転させました。秀吉の死後、徳川家康が勢力を拡大していくと、関ヶ原の戦いでは東軍と西軍どちらにつくかで義重・義宣の父子が対立。結局どちらにもつかないまま合戦は決着が付き、合戦後にはその優柔不断な態度を咎められ、出羽国に追いやられてしまいます。そして義重は、この地で生涯を終えることになるのです。

激しい気性でありながら用心深い一面も

佐竹義重は戦場にて、後北条氏の軍勢を相手に見事な剣の腕を見せています。大軍の後北条勢にひるむことなく自ら敵陣に進撃し、あっと言う間に7人の敵を討ち取ったのです。その勇猛果敢ぶりは、「鬼義重」などと呼ばれ、敵方から恐れられました。どんな相手だろうと一歩も引かず、前進していく姿は毛虫にあやかったのかもしれません。

気性が激しく猪突猛進のような義重ですが、その反面、必要以上の用心深さもかね備えていました。就寝するときは戸口の内側から鍵を掛け、部屋には衝立(ついたて)を幾重にも並べて警戒を強めていたと言われています。内部にも目を光らせて常に用心していたよう。また、床に就くときも忍びの者からの暗殺を避けるため、毎日場所を変え、敷き布団を引かずに掛け布団のみで寝ていたようで、その徹底ぶりは戦場と同じように「自らの命は自らで守る」ことを日常生活でも実践していたように思われます。

また、家臣にも戦場のときと同じ心掛けを厳しく要求し、不定期で家臣の武具をチェック。手入れが行き届いていた家臣には、褒美を与えたとの逸話も残っています。

義父想いの武将、明智光春の甲冑

明智光秀の娘婿、左馬之助とは

戦国武将「明智光秀」には「お倫」(おりん)という娘がいました。一時は「荒木村重」の嫡男と夫婦になっていましたが、村重が謀反を起こしたため離縁。そのあとお倫と夫婦になったのが、光秀の家臣「明智光春」(あけちみつはる)、通称「左馬之助」(さまのすけ)です。(秀満、満春など別名あり)。

南蛮胴具足

南蛮胴具足

左馬之助が所有していたのは「南蛮胴具足」(なんばんどうぐそく)。胴の前面には「天」のひと文字とドクロ。胴の背面には内側から打ち出して模様を立体的に見せた「富士山」が描かれています。富士山の頂上には、銀の布目象嵌(ぬのめぞうがん)が施され雪景色を表現した風流な作りになっており、前面と背面では印象が異なります。

また、兜の前面には「月」と「うさぎ耳形」の立物を、「兜のしころ」の裾板と面頬から垂れた板物の裾板には、躍動感のある「龍」の金蒔絵が施されています。

左馬之助の甲冑(鎧兜)は、全体的に遠くから見て目立つことより、近くで見たときにハッとするような細部にこだわった物と言えるでしょう。

兜の月とうさぎは月の信仰か今昔物語か

伊達政宗

伊達政宗

兜の立物である月とうさぎ耳形の由来は定かではありません。かつては月の満ち欠けを「消滅せず復活を繰り返す物」として月が信仰の対象になっていたようで、「伊達政宗」など多くの武将が月の立物を兜に付けたと伝わっています。そのため左馬之助の兜の立物である繰半月(三日月の両側をくっ付けた形)も、月信仰が由来ではないかと想像されます。

ただし、これだけではうさぎに結び付きません。そこで登場するのが「今昔物語」のうさぎの説話です。「今昔物語集」は、インド・中国・日本の説話をもとに平安時代後期に書かれた物で、その中に「うさぎ」、「狐」、「猿」が登場する話があります。

3匹は自身について「前世で善行をせず獣の姿になったのかもしれない、今生は身を捨てる覚悟で善行を行なおう」と修行に励みます。それを見た帝釈天が老人に化けて3匹のもとへ現れ、善行の機会を与えました。老人をもてなそうと狐と猿は様々な食べ物を用意しますが、うさぎだけは食べ物が見付けられず、自ら火の中に飛び込んで我が身を差し出したのです。

帝釈天は焼け死んだうさぎの姿を月の中に移し、人々が月を見てうさぎの行ないを思い出すように考えたとされおり、「月=うさぎ」の連想について語られています。月とうさぎが施された兜は、様々な信仰心の表れかもしれません。

今も琵琶湖で語り継がれる伝説の湖水渡り

1582年(天正10年)6月2日、本能寺に明智光秀が攻め入り、手勢の少なかった「織田信長」は逃れることができず、寺に火を放って自刃したと伝えられています。このとき光秀と一緒に本能寺へ攻め込んだのが、左馬之助でした。

しかし、中国地方で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉(このときは羽柴秀吉)は、信長の訃報を聞き付けて即座に京都へ引き返し、6月13日「山崎の戦い」で秀吉は光秀を破るのです。その知らせを聞いて左馬之助は守備をしていた安土城から出陣。光秀軍を救援しようと坂本城へ向かいます。

坂本城は、信長が光秀に築城させた城で、延暦寺の見張り役として比叡山の山麓にありました。安土城を出て大津まで来たところで、秀吉軍の将軍「堀秀政」と遭遇。正面突破を試みるも多くの手勢を失います。湖岸はすべて秀吉軍が制圧。それでも左馬之助はあきらめず「打出浜」から「唐崎」まで、馬に乗ったまま琵琶湖を渡りきり坂本城に到着するのです。その距離、何と7km。

しかし、結局は勝ち目なしと悟った左馬之助は、自ら妻と光秀の妻子を刺し殺し、坂本城に火を放って自決してしまうのです。この「湖水渡り」は伝説として今も語り継がれ、琵琶湖の打出浜湖岸には「明智左馬之助湖水渡」の石碑が建てられています。

信長や秀吉のもとで活躍した猛将、蒲生氏郷の甲冑

遠目でも蒲生氏郷と分かる変わり兜

「蒲生氏郷」(がもううじさと)は、近江国(現在の滋賀県)蒲生郡の日野中野城主である「蒲生賢秀」(がもうかたひで)の嫡男として1556年(弘治2年)に生まれました。これは織田信長の舅である「斎藤道三」が亡くなった年でもあり、尾張や美濃の緊張感が一気に増した頃だとされています。

鯰尾兜

鯰尾兜

氏郷は常に軍を率いた猛将であり、身に付けていた「鯰尾兜」(なまずおのかぶと)は戦国武将達の間で流行した変わり兜の中でも個性が強く、氏郷のシンボルとなっています。

左右対称に上へ伸びた2本の尾の部分は「牛革」、鉢の部分は「鉄板」で作られており、全体に「黒漆」が塗られています。

兜の名称には「鯰」(なまず)とありますが、兜の形状としては燕尾形(えんびなり)と考えられており、「燕尾形兜」(えんびなりかぶと)と紹介されることもあります。モチーフになっている燕(つばめ)は、稲につく害虫を食べる大切な存在であり、また燕が巣を作ると家が繁栄すると考えられていました。

氏郷がこの兜に「蒲生家の繁栄」の願いを込めたのかは定かではありませんが、蒲生家は氏郷の代に日野6万石から会津42万石を治めるまでになり、氏郷の活躍が蒲生家の繁栄に繫がったことは間違いありません。

文武に長け織田信長の影響を強く受けた青年時代

蒲生氏郷が生まれたとき、蒲生家は「六角氏」に仕えていました。しかし六角氏が滅亡し、父「賢秀」は信長に降伏。氏郷は13歳のときに信長のもとへ人質として差し出されます。のちに氏郷は、この時期に和歌や連歌、茶の湯や作庭などの知識を習得したと述べており、信長のもとで様々な才能を見出されたのです。この頃に儒教や仏教も学んでいますが、西洋好きとしても知られる信長の影響なのか、のちに大阪でキリスト教の洗礼を受けて「レオン」と名乗ったとも言われています。

信長のもとには、氏郷の他にも同じ境遇の青少年達が集まり、信長は彼らを人質として扱うのではなく、育成したと考えられています。なかでも氏郷は、将来を見込まれていました。元服(げんぷく)した際には、信長から「忠三郎賦秀」(たださぶろうますひで)の名前を授かり、伊勢の大河内城(おおかわちじょう)を攻める戦で氏郷が初陣を飾ると、その同年に信長の次女「冬姫」(ふゆひめ)と結婚。故郷である滋賀県日野町へ戻ることを許されます。このことから、信長が氏郷にどれほど厚い信頼を寄せていたかが伺えます。

また、信長は相撲好きとしても有名で、家臣によく相撲を取らせていました。信長と同じく氏郷も家臣達とよく相撲を取って親睦を深めていたようです。再仕官を許した家臣との相撲で、全力で向かってきた家臣に氏郷が負けたときにも、手加減せず真剣に挑んだ家臣の心を評価して知行を加増したという逸話が残されています。

信長の義理の息子となり、多くの戦で活躍した氏郷。「本能寺の変」により信長が亡くなった際には、蒲生家が守る日野城へやってきた光秀を拒否して籠城を貫きました。舅としての関係以上に氏郷もまた、信長に厚い信頼を寄せていたのかもしれません。

秀吉に仕えた蒲生家の繁栄と断絶

織田信長が亡くなったあと、羽柴秀吉と徳川家康が争った「小牧・長久手の戦い」では、蒲生氏郷は秀吉側として奮戦します。美濃加賀野井城を攻める戦いの武功により12万石に加増され、伊勢・松ヶ島へと移りました。さらに「小田原征伐」に従軍し、会津へと転封され42万石を与えられました。氏郷を会津に移らせたのは、出羽・陸奥の伊達政宗に睨みをきかせるためであり、一説に、氏郷は政宗に毒を盛られたこともあり、犬猿の仲だったと言われています。

日野の6万石から伊勢・松ヶ島の12万石、さらに会津の42万石を治めるまで家を繁栄させた氏郷。しかし、秀吉による朝鮮出兵の参戦中に体調を崩したことがきっかけで40歳の若さで亡くなってしまいます。氏郷の死後、子や孫の代には「蒲生騒動」と呼ばれる家中の争いが起こり、残念ながら蒲生家は断絶。そのせいか、氏郷が身に付けたとされる胴や小具足などは後世に想像で作られた物しかありません。

ただし、氏郷の兜は氏郷の養妹である「於武」(おたけ)が「南部利直」(なんぶとしなお)に嫁ぐ際、氏郷が自身の兜を引出物として持たせたため、盛岡南部家伝来の物が残されています。お家の繁栄を願った燕の兜は南部家に伝わり、南部家は繁栄。皮肉にも蒲生家とは別の運命をたどったことで残されており、氏郷や子孫達の無念が伝わるようです。

戦国武将と甲冑②

戦国武将と甲冑②をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「甲冑(鎧兜)と武将」の記事を読む


上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続

上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続
「甲冑」(かっちゅう)とは、胴部を守る「鎧」(よろい)と、頭部を守る「兜」(かぶと)からなる武具です。今回は、戦国時代を生きた4武将、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)、「武田信玄」(たけだしんげん)、「伊達政宗」(だてまさむね)、及び「直江兼続」(なおえかねつぐ)と甲冑にまつわる話をご紹介します。

上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康
尾張国、及び三河国(現在の愛知県)にゆかりがあり、戦国時代に天下を統一に導いた「織田信長」、「豊臣秀吉」、及び「徳川家康」。彼らは、「三英傑」と呼ばれており、戦国時代における最も有名な武将と言っても過言ではありません。今回は、三英傑と甲冑にまつわる話をご紹介します。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

井伊の赤備え・真田の赤備え・村上水軍

井伊の赤備え・真田の赤備え・村上水軍
「甲冑」(鎧兜)などの武具を、同じ色で統一した部隊を「備え」と呼びます。なかでも「赤備え」とは、武具を赤色や朱色を主体とした色彩で整えた精鋭部隊のことです。今回は、「武田の赤備え」と同様に有名な「井伊の赤備え」、及び「真田の赤備え」についてご紹介します。また、甲冑(鎧兜)を使用していたのは、武将だけではありません。「村上水軍」と呼ばれる海賊衆が使用していた甲冑(鎧兜)も、あわせてご説明します。

井伊の赤備え・真田の赤備え・村上水軍

戦国武将と甲冑①

戦国武将と甲冑①
武将の甲冑(鎧兜)は「武具」であると共に、武将としての「威厳」や「地位」の高さを誇示する物でした。特に、個性的で目立つデザインの兜を「変わり兜」と言い、室町時代末期から始まり安土桃山時代に全盛期を迎えます。ここでは、戦国時代に活躍した「武田信玄」、「上杉謙信」、「森可成」(もりよしなり)、「山中幸盛」(やまなかゆきもり)の変わり兜と人物像について詳しくご紹介します。

戦国武将と甲冑①

戦国武将と甲冑③

戦国武将と甲冑③
甲冑は日本刀と同じく、戦功の贈答品として主君から家臣に下賜されることが多かったようです。家臣はそれを誇りに思い、主君は戦場で変わり兜を身に付けた家臣を見付けやすく、その活躍ぶりを伝聞し、恩賞を与える判断にしたのかもしれません。ここでは「豊臣秀吉」、「黒田官兵衛」、「前田利家」が所有し、家臣に贈ったことが伝わる変わり兜について詳しくご紹介します。

戦国武将と甲冑③

関ヶ原の個性的な甲冑対決(西軍)

関ヶ原の個性的な甲冑対決(西軍)
全国の大名の運命を左右した「天下分け目」の合戦である「関ヶ原の戦い」。「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将とし、「石田三成」(いしだみつなり)を中心に結成された西軍は、軍全体の結束力不足や、幾人もの武将による裏切りなどが要因となり、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍に敗れる結果となりました。そんな中でも最後まで豊臣家に忠義を誓い、戦い抜いた武将達がいたのです。ここでは、その中の代表的な3人の武将の人となりを、彼らが愛用していた甲冑を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(西軍)

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①
「徳川家康」を率いる「東軍」が勝利を収めたのは、家康が見事な采配を取ったのはもちろんのこと、「武官派」としてその名を轟かせた家臣団が付き従っていたことが、その大きな要因でした。ここでは家康を含め、そのような家臣団の中でも「最強」と評されていた「本多忠勝」(ほんだただかつ)と「井伊直政」(いいなおまさ)について、その強さの秘密を甲冑を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②
「関ヶ原の戦い」の「東軍」には、家康を勝利に導くため忠義の限りを尽くした「名将」達がいました。しかし、名将と称される武将は周囲を圧倒するような個性を持っているもの。それを戦場でもアピールし強さを自己演出するため、彼らは甲冑(鎧兜)に様々な装飾を施していたのです。特に兜には遠くからでもその存在を示すことができるように、奇抜な意匠が用いられた「変わり兜」が多く見られます。ここでは、関ヶ原で大いに武功を挙げた東軍の4人の武将が身に付けていた変わり兜を中心に、それぞれの甲冑(鎧兜)に込められた思いやエピソードを、甲冑(鎧兜)を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)③

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)③
「徳川家康」が日本の天下人となることを決定付けた「関ヶ原の戦い」。その際に家康の「東軍」に属することをいち早く決めた武将達は、「先見の明」に優れていたと言えます。その決断の一助となっていたのは、彼らが持って生まれた性格や気質のみならず、身に付けてきた文化や教養を素地とした知性に富んでいたことにあったのかもしれません。そして、そんな武将達の個性は、彼らが戦の際に身に付けていた甲冑(鎧兜)にも現れていました。ここでは、関ヶ原において、武力はもちろん自身の知略を巡らせて東軍の勝利に貢献した4人の武将の生涯と、彼らが所用していた甲冑(鎧兜)についてご紹介します。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)③

注目ワード

ページトップへ戻る